さて、イベント参加の後、菊池省三先生の最新刊『学級崩壊立て直し請負人』(聞き書き・構成吉崎エイジーニョ、新潮社、2013年6月)を購入し帰りの新幹線の中で一気読みしました。


 去年春以来、「小学校の先生」というジャンルに凝っている私。

 何人目かの優れた先生との出会いですが、なかでも菊池先生にはどこか共感するところが多い。

 それは「怒り」なのかもしれない、と思いました。


 本書は北九州という、菊池先生の本拠地の描写にもかなり筆を割いていますが、暴力団とその子弟の多い、先生方にとっては鬼門の土地柄だという。

 だからこそ1つ前の記事にあるような、「1学年に担任が6人交代」「『ちっ』とか『なによ?!』と受け答えしていればいいと思っている」といった、学校をリスペクトしない、公を公と思わない状況が如実にみえるのです。

 しかしこれは北九州だけでなく、堕ちていく日本、劣化していく日本のシンボルのようにも思えるのです。同様の兆しを内田樹が『下流志向』で指摘しベストセラーになったのは、2007年でしたか。

 
 吉崎エイジーニョがそこで「戦い」という言葉を繰り返し使うように、菊池先生の教育とはその状況への「怒り」がベースにあるように、この本にはみえるのでした。

 そこが、これまで多数読んだ、あまたある先生のノウハウ本と少し異質にみえました。


 
 失礼して、この本からいくつか抜書きをさせていただきましょう。(でもうちのNPOでは、この本課題図書にしたいな。大事なことをいくつも提起している本だから。1100円です)


●関東から結婚を機に北九州に移住してきた、20代の体育会系のガタイのいい先生が5月にはもう音をあげた。普通の先生では、北九州の荒れた学校では持たない。私の周囲には、決して口にしないものの「タイムアップ」を待っている先生が多くいます。その学年が終わることを待っているな、という。


●子どもがふだん、日中の約8時間を過ごす学級の場を立て直さなくてはいけない。誰が悪いと悪口を言うことが目的ではない。状況を変えることにあります。現実を認識し、変えること。


●親に情報が足りないせいで、子どもに「公(おおやけ)」という大事なものが教えられない状況にある。かつての日本社会で、おじいさんおばあさん、地域社会のつながりの中から、時代の移り変わりの中でも変わらずに守りつづけなければならない大切なこと(私はこれを「不易」と呼んでいます)、つまり人としてのあり方であったり、考え方などが受け継がれなくなった。そのため親が「バカ」「ダメ」といったネガティブな言葉を多用し、その結果、子どもも教室でそういう言葉で仲間を罵る。親が余裕がないから、言葉の力がない、褒めることをしない。


●二大実践は、「褒め言葉のシャワー」と「成長ノート」。親が上記のような状態なので褒められた子が「褒められたことがない」と泣き出す。(このあたりは、私の住んでいる地域の子どもなどは多少違うかも、と思います)


●情報不足は一方で「褒めすぎ」も生む。異常なまでの母子一体化。


●学校をリスペクトしない。習い事で何かが上手いと、「それで食える」と親が信じてしまい、学校をないがしろにする。


●新しいクラスの子どもは驚くほど意識がバラバラ。クラス統一目標を立てられる時期がどんどん遅くなり最近は6月にやっと、ということも。早い時期に立ててしまうと逆に崩壊してしまう。


●ひとりが美しい。群れではなく、集団。
(金魚のフンみたいではなく自立した意識をもって行動しよう、という意)


●厳しいだけの先生は持たない(続かない)


●「公」の喪失。「不易」、変わらないものの喪失。「教える―教わる」も不易。


●「自由」の勘違い。「公」「不易」などの一般性を身につけたうえでにじみ出るものが「個性」。ないものはただの野性。自由気ままにやってきた人が個性を発揮したなどはマスコミが植えつけた誤った認識。


(この「ただの野性」という言葉は私にヒットした。以前にも書いたが(2010年)、アメリカの最新心理学的コーチングのワークショップで「すべての役割や社会的関係を抜いた自分自身になりなさい」と言われた私は「母親でもない仕事上の人間関係も持ってない『私』って誰?幼児的な本能、遺伝的初期設定としての『私』ではないのか?」と理屈っぽく考え込んだのでした)

(大体、マスコミ人って正しい意味の社会人と言えないし。自由度は非常に高い、その分人間的に鍛えられていない。自由はすばらしいという幻想を振りまくには適任の人たちだ)

(アメリカ式「自由」は本来、「責任」を伴う非常に厳しいもの。日本では自由の楽しい面だけを強調し理解する傾向がある。私は誤解を招きやすいので、「自由」という言葉をテキスト等にもこのブログにもめったに使っていないが、お気づきだろうか。アメリカ帰りの心理学系の先生が「自由」という言葉を使うと日本でもわーっと盛り上がるので、極力その手の人々との接触を避けているぐらいだ。)


●「公」が失われたのは、「父性の喪失」が原因。「MFC」、母性Mother, 父性Father、子ども性Childのすべての要素を、1人1人の親や先生が備えていないといけない時代。


●学校の先生も、師範学校出身の先生が引退し職員室のタテの関係が失われた。そして教室での先生と子どもの関係も横並びになりぐしゃぐしゃになってしまった。


●コミュニケーションは、うわべだけのテクニックとしてとらえられていた。本当はコミュニケーション能力とは、人間形成に重要な領域であり、人間が人間らしく人間とつながっていくための手段。置き換えるなら「言葉の力」を持つということ。それはいじめと戦う武器ともなる。コミュニケーション、という横文字を使っているが、これは「意志」と「徳」を教え込み、駆使するための教育でもある。


●体罰は当然良くないが、一方で学校は”善意の押しつけ”をする場でもある。
”日本式の厳しく、負荷をかける教育を実践しつつ、一般性を身につけたうえでの個性を育てる”ことができないか。日本の良さをなくしてはならない。


(ここも誤解されかねないが勇気ある提言かもしれない。厳しさを提示するのに勇気の要る時代。あれもダメ、これもダメ式の教育は成り立たないと言いつつ、MFCのF(父性)も時に使いながら子どもを「公」に導け、ということを言っている。1人の親、先生としては非常にむずかしいかじ取りを迫られる時代。とはいえ正田も研修ではちょっと厳しいめのキャラで通している、そのほうが生徒さんがよく習得するとわかっているから。たまに吊るし上げ、火だるまみたいな目にも遭うけれど。
”日本式の厳しく、負荷をかける教育”は確かにやればできる。それは教育研修界のここ10年来のトレンド”教えない教育””気づかせる教育”よりはるかに勇気が要る)



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 主に本書の前半部分から抜書きをしまして、後半は”実践編”のおもむきがありますがその部分は是非買ってお読みください。

 
 最もむずかしい状況の学校、むずかしいクラスをしっかり見続けた先生の観察と提言。

 当然、学校で起きることは仕事の現場でも起こります。既に起きているかもしれません。

 それは、

「バカ野郎!何やってるんだ」
「そんな奴やめさせちまえ」

みたいな雑な思考、雑な観察ではみえてきません。

 上に立つ人は、ものを見、考えることをさぼってはいけません。


 
 本書でいう「母性」「父性」そして「公」「不易」という概念についてもしばし考えました。

 ―私が書評をかくと最後はおおむね自分の仕事に引きつけて考えることになります―


 武田建氏も

「父性的リーダーシップと母性的リーダーシップ」
「リーダーシップの受容機能と切断機能」

ということに触れており、

「褒める」「承認」はその「母性」「受容」というほうの行為なのは間違いありません。

 ところがこの「承認」を強く受講生に義務づける当協会の教育が結果的に柔剛相半ばした優れたマネジャー、リーダーを産んできたことの意味を考えます。

 「母性」を鍛えることによって、実は1人の人の中に「父性」もまた回復するのだろうか?

 あるいはもともとある「父性」が有効に機能するために、いわば賦活化させるために「母性」の学習が必要だったのだろうか?

 
 マネジャーたちが「1位」のような実績を挙げるプロセスには、たとえばスタッフ1人1人が対お客様に有効に働きかけるよう促すような、「公」に導くプロセスが当然入っています。中だけ向いてぬるま湯をやっているわけではないのです。ですから「父性」も大いに使ってきたはずなのです。


 父性母性両方揃った強力なリーダーシップを生み出すには、「母性の学習」が突破口になる、のでしょうか。



 そして「不易」という言葉が出、こうした本書のコンセプトの世界に私は大いに安心感をもちます。

 というのは、菊池先生の言われるように「コミュニケーション」の教育を「徳」の教育として行うとき、ここからは私個人の考えですがそこではコミュニケーションが結びつきやすい心理学的なものとの意識的な切り分けが必要になります。

 心理学はもともとこころを病んだ人のための治療の技術として発達しましたから(ポジティブ心理学は別として)、そこでは「来談者中心療法」というように「相手本位」であることが重視され、何が正しいかが「相手依存」あるいは「状況依存」で考えられるあまり、「不易」というような動かないものは忘れられがちでした。軸を動かさないことではなく、動かすことのほうが心理学では重要だった、ともいえるのです。


 ・・・そこで正田は業界でも珍しい「頑固ばばあ」を意識的にやってきたのでした。


 先週は某所で「要するに『承認』ていうのはあれでしょ、武士道に代わる支配階級の倫理をつくりたいわけでしょ」というお言葉をいただいて少しほっとし、

 「これで『頑固ばばあ』をやってきたことも少しは意味のあることになるかなあ」

と思うのでした。


 先週、忙しい中で次々に「承認大賞」へエピソード応募してくださった会員様、元会員様方を思うにつけ、私たちの教育の方式が正しく認知され評価されることを願わずにはいられないのでした。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


「第3回承認大賞」募集ページはこちら!あなたのエピソードを教えてください

http://www.shounintaishou.jp


「承認大賞ハンドブック2013」ご紹介ページはこちらです

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51861106.html