久しぶりに内田樹本を読みました。『呪いの時代』(新潮社、2011年11月)。


 このところ1つのテーマであった「嫉妬」「やっかみ」について答えを探していたところ出会ったもの。

 相変わらず晦渋を極めた文体で、この人の文体の困ったところは、下手にうんうんと同意すると思考をのみこまれてしまい、距離がとりづらくなるところです。

 気をつけながら一部の章から抜書きをさせていただきましょう。結局言わんとすることは私らのやっていることなんでないの、という気がしますが。誓って、この本を読んだのは1年半前の出版当時ではなく今日のことです。このブログが日頃自らに禁じている「上から文体」を他人に代行してもらう回でございます。


●身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何かを破壊する生き方を選択します。…新しいものを創造するというのは、個人的であり、具体的なことです。それは固有名のタグのついた「現物」を人々の目の前に差し出して、その視線にさらし、評価の下るのを待つということです。・・・創造の怖さというのは、そのことです。逃げも隠れもできないということです。自分が作りだしたものが、そこにあって、自分がどの程度の人間であるかをまるごと示してしまう。・・・だから、全能感を求める人はものを創ることを嫌います。・・・だから、全能感を優先的に求めるものは、何も「作品」を示さず、他人の創り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。

―ナルシシストは、というか能力がそれほどでもなく自尊感情だけが高い人は創造をせず批評だけをする、という意味でしょうか。本書の出版はナルシシズムに関する名著『自己愛過剰社会』とほぼ同時期なので、ナルシシズムが作る負の感情、「やっかみ(=呪い)」を扱ったとみていいのかもしれません。


●「呪い」がこれほどまでに瀰漫したのは、人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。・・・若者にかぎらず、現代日本人の多くは自己評価と外部評価の落差がしだいに拡大しつつあります。「ほんとうの自分はこんなところで、こんな連中と、こんな仕事をしているようなレベルの人間ではないのだ」という妄想的な自己評価を平然と公言する人が増えました。


●現在の教育現場では「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても、「身の程を知れ」「分をわきまえろ」というアナウンスに対してはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。・・・教育の場では、「君には無限の可能性がある:」という言明と、「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は同時に告げられなければならない。

―「分をわきまえろ」は、むずかしい。でもやらないといけないのだろうな、とも思います。年功序列が一部で崩れ、「年上部下問題」「元上司の部下問題」というのが顕在化してきました。自分より若い人の後塵を拝し指揮下に置かれることを現実としてどう受け入れるか。「分を知り、分を尽くす」という、過去の身分制のような考え方に意味があるのではないか、と以前ある席で言ったことがあります。


●決定先送りの論理もまた「自尊感情」にあると内田氏はいいます。妄想的に肥大化した「ほんとうの私」が「今の私」の犯しているすべての過ちを補正し、「今の私」では達成することのできないすべての目標をクリアーし、「今の私」では充足することのできないすべての欲望を満たす。そのような幻想が、これらすべての無責任の心性には共通しています。・・・そんなふうにして、日本人たちは市民的成熟のための努力を止めてしまったのです。

―先日の「政治カフェ」への人の集まりづらさを思い出してちょっと納得しています。


●「秋葉原無差別殺人」もまた、「ほんとうの私」妄想がつくった呪いの仕業だとしたうえで。・・・だから、僕たちにとっての喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと僕たちに促し続けている。

―これに似たことを地下鉄サリン等オウム真理教事件のときに宮台真司が言ったのでしたか、「面白くもないありふれた現実を受け入れよ」と。


●階層社会は努力することに対するインセンティヴの有無に基づいて二極化します。属人的な能力や資質の問題ではないんです。どれほど能力があろうとも、素質に恵まれていようとも、自分の能力や資質は決して適切には評価されないだろう」と確信している人は努力しない。努力することができない。
 ・・・ですから、努力することへのインセンティヴを傷つけるというのが社会的差別のもっとも邪悪かつ効果的な部分なのです(太字部分原文傍点)。

―階層社会について述べていますが私は自然と「男尊女卑社会」―現代日本がまだ紛れもなくそうであるもの―と読み替えて読んでいました。努力しても決して適切には評価されないだろうと確信している多くの女性労働者は仕事の手を抜き、婚活に励む。一部のはねっかえりはそれでも全力で仕事をし、評価されるどころか白眼視されたり秩序の敵扱いされる。前者の層がもし全員本気を出したらどれほど日本社会全体の有能度が引きあがるだろうか。


●僕たちの時代は「呪い」がかつてなく活発に活動しています。・・・現に羨望や嫉妬や憎悪はさまざまなメディアにおいて、生身の個人を離れて、言葉として独り歩きを始めています。誰にも効果的に抑制されぬまま、それらの言葉は人を傷つけ、人々がたいせつにしているものに唾を吐きかけ、人々が美しいと信じているものに泥を塗りつけ、叩き壊すことを通じておのれの全能感と自尊感情を満たそうとしています。


●呪いを解除する方法は祝福しかありません。自分の弱さや愚かさや邪悪さを含めて、自分を受け容れ、自分を抱きしめ、自分を愛すること。あまりぱっとしないこの「正味の自分」をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです。


●現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは、実はある種の欠如感、承認欲求なのです。「私はこんな所にいる人間ではない」「私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない」「私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない」というような、自分の正味の現実に対する身もだえするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。

―でた、承認欲求。内田氏がここで見ているのは若者の中のどのあたりの層なのだろう、ネット社会のとげとげしい言葉を発する住人だろうか、秋葉原でダガーナイフを振う犯罪者だろうか、内田氏が教鞭をとっていた神戸女学院大の学生だろうか。
 以前にもブログに書いたが「承認欲求」の側から語る「承認」はひどく貧しくみっともなく厄介なものだ。ところが当協会の教育の世界における「与える承認」は限りなく豊かで美しい。このイメージの乖離もすごい。
 私は「承認」を教えるとき必ず「皆さんは与える側になる覚悟がありますか?」と問いかけるようにしている。


●例外中の例外のような「反証事例」を持ち出して、それが勘定に入っていないから理論としてダメだという切り捨て方が社会学の周辺で発生したのは80年代のことですが、これが今やあらゆる領域に広がっています。(例えば、「育児は男性にとっても女性にとっても自己発見の貴重な機会だ」と言ったら「性同一性障害者にも当てはまるのか」と反論されてしまう、というように)

―私が人前で何かを語るときにも以前はその手の「例外を持ち出す反論」が多かったのだ。明らかにそれは局所的な重要度の低い話でしょ、というのでも、「賢そうな生意気な女」「に対してその手の反論を持ち出すことで場全体の反感を煽るには十分だった。私に折角の話す場を与えてくれた人に迷惑を掛けることになった。最近はそういうのも随分少なくなったと思う。そして私は今も懲りずに「質疑の時間」を設け、場をめちゃくちゃにしかねないリスクを犯しながら受講生と対話しようとする―


●コミュニケーション感度のよい人というのは、シグナルになる以前のノイズ、前記号的なものを感知して、それを情報に繰り上げてゆく能力が非常に高い。「人を見る眼」というのがまさしくこのことです。対面する人間の不安や欲望を見通し、その才能や器量を考量し、適切に対処することはこのような観察力なしには成り立ちません。
 かつてはこの「人を見る眼」を涵養することはかなり優先順位の高い教育的課題でした。けれども、現代ではもうこのような能力を組織的に開発するプログラムも存在しませんし、そのようなプログラムが必要だと考える人もいません。

―えー、存在しないんですかー。必要だと考えないんですかー。


●祝福とはどんなものか。白川静先生は…「賦」という詩形を論じて、それが祝福の原型であるとしています。「賦」とは目の前の風景を歌うことです。山が高い、森が深い、波浪が高い、緑が濃い、清流が澄んでいる、鳥の声が聞こえる・・・ それは「国誉め」と同じことです。それは「我が国は美しい」と主張することではありません。そうではなくて、現に目前の山や野がどのようであり、森がどのようであり、川がどう流れており、人々はどのように日々の営みをなしているかを、とにかく価値判断抜きで列挙してゆくことです。「国誉め」は写生です。
 ・・・だから、写生に終わりはない。人間的現実に記述しきったということは起こらない。生は汲みつくすことができない。それゆえ、僕たちは記述すること、写生すること、列挙することを終わりなく続けるしかない。それが祝福ということの本義だろうと僕は思います。

―たぶん会員様であれば気がつかれると思う。ここでいう「祝福」と当協会方式の「承認」との類似を。
記述すること。それは「あなたはすばらしいですね」「おきれいですね」という価値判断を言うことでは、基本的にはない。目の前でみたものに逆らわずに言語化すること。(とはいえ、私もできてないんですけどね)




●言葉が届くというのはどういうことか。それは「わかりやすく書く」ということではありません。論理的に書くということでも、修辞を凝らすということでも、韻律が美しいということでもありません。そんなことはリーダビリティにとって二次的なものにすぎません。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」という強い思いだと僕は思います。
 ・・・どうしても言いたいことがある、どうしても伝えたいことがあるというときの人間の構えを特徴づけるもの、それは「読者の知性に対する敬意」だと僕は思います。
 ・・・受信者に対する敬意を含んでいるメッセージがいちばん遠くまで届く。僕たちは自分に「深い敬意を含むメッセージ」に対しては驚くほど敏感に反応します。そのコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、僕たちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。


●人はどれほどわかりにくいメッセージであっても、そこに自分に対する敬意が含まれているならば、最大限の注意をそこに向け、聴き取り、理解しようと努める。そういうものなのです。だから、もしあなたが呑み込むことのむずかしいメッセージを誰かに届けようと思うなら、深い敬意を込めてそれを発信しなさい。

―「敬意」がキーワードになっていますが、ここも会員さんは多分、このブログで繰り返し出てくるメッセージと重なるものとしてご理解いただけるでしょう。決してぱくってませんよ。
 ですから、私たちはやっています。「呪い」に対抗する「祝福」を。しかしまだ非力です。


 というわけで、数節を読んでは「やってるよーだ」と口をとがらせてしまうウチダ本なのでした。いつからこんな風になったんでしょうか。おおむね間違ったことはやってないように思います。



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