教育研修の「副作用」のような話を定期的にこのブログに書いている。


 よく出る話は、「自己主張訓練」のセミナーに行くと、「変な自己主張」をする。妥当性のない主張を、相手がのんでくれるまでしつこくやる。ロールプレイの中で相手が根負けしてくれるのに慣れているからだろうか。あるいは、引き受けた責任を放棄する。「NO」を言う技術、みたいな教えがあるからだ。自己主張訓練はもともと、有色人種、女性、障碍者など社会的弱者が自己主張するための技術を教えるもので本来は良い志のものなのだが、学んだ人の中には「はき違え」が随分出るようなのだ。自己主張訓練の祖、行動理論家のジョゼフ・ウォルピは、「自己主張をセミナーで学んだ人は実世界に戻ったあとイレギュラーな自己主張をし、『頭打ち』を経験してやっと程よいところにおさまる」といみじくも言っている。


 コーチングのある流派のセミナーを受けると、「間違っている人はいない」というフレーズを身に付けて帰る。それはワークショップを成り立たせるための方便だろう、と私は思っているが。たとえば共通の目的をもった集団の中にいればその恩恵も受けるかわり、理念の制約も受ける。理念に反したことはできない、のは道理である。あるいは、法に反したことをしてもいいのだろうか。


 また、やたらガラパゴス的に高度な心理学・コミュニケーションセミナーに行くと、高額なこともありナルシシストになりやすい。トラブルを何でも小手先のコミュニケーションテクニックで解決しようとするので、まっすぐものを言わない。真摯さがなくなる。「コミュニケーション」の中に「徳」の要素がない。


 私が最近出会った「変な人」は、どこぞで「叱り方セミナー」のたぐいを受講したようだった。どんな変な”症状”なのかというと、ひとしきり相手の人格否定、人格攻撃のようなことを言ったあと、自分で「あなたを否定していませんよ」という言葉を言い訳的にくっつけるのだった。まるで前半部分で何を言ってもあとからそれを言えば免罪符になると思っているかのように。

 そして、相手に感謝したりねぎらったりすべき場面でまったくそうした言葉が出ない。基本的な礼節まで忘れてしまったかのようだ。

 攻撃性が脳の大半を占めてしまい、平和友好的な活動ができなくなるのだ。


 「自己主張」も「叱る」もいわば広い意味の「攻撃行動」である。以前にも性欲がらみで書いたが、人の本能は煽られると不必要に燃え上がる。「攻撃性」も、どの人も本能の中にインプットされているものだから、セミナーがその部分を煽り拡大する。そして「セミナーで教わったことだから」と自己正当化し、不必要、不自然なまでに他人に攻撃をぶつける。

 だから「叱る研修」などというものは、それ単独で使用したら「パワハラのすすめ研修」みたいな危険なことになるのだ。

 もしそうした研修を採用してその企業でパワハラや鬱が広がったら、それは研修を採用した人が責任を問われるべきだろう。普通の神経の人は、私の受講生たちなどはそうだが、教育研修をぱっと見ただけで「あ、これはうまくいかないな」とわかるものだ。そうしたコモンセンスの働かない人が研修の購買について決定権をもっていることが問題なのだ。


 「ほめる研修」ブームが一巡したところなのでそろそろ「叱る研修」に目が行きやすくなるところだろうが、このブログでは警告しておきたい。上司の「理性力」が未熟なところに「叱り方」を教えてもダメなのだ。


 
 このブログの長い読者の方はもう耳にタコだと思うが、私の考えを再度まとめておきたいと思う。

 組織の上下の立場がある限り、上位者は下位者に対して攻撃的になりやすい。それを本能のはたらきとすると、理性の力でそれを抑え、思いやりや敬意をもつのが、孔子先生の説いた「仁」だったり、平成の「承認」である。「敬意」はとくに、人工的な理性による美しい感情である。それを維持するには意志を必要とする。

 古来、徳治の行きわたったところでは上位者下位者がうまくかみ合い、生産性高く回った。それは、申し訳ないが宗一郎幸之助の時代よりはるか前からあった名君の知恵である。

(もちろん優しいやりとりの場面ばかりではなく、シビアな叱責の場面もあるにはある。中には徳治の中で勘違いする人も出る。しかしそれは例外的なものだ。)
 
 

100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp


「第3回承認大賞」募集ページはこちら!あなたのエピソードを教えてください

http://www.shounintaishou.jp


「承認大賞ハンドブック2013」ご紹介ページはこちらです

http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51861106.html