『人はなぜ「いじめ」るのか』(山折哲雄、柳美里他、シービーアール、2013年9月)を読みました。いじめられた当事者をみる立場の3人の臨床医と山折、柳の座談会をまとめた本。


 対談や座談会形式の本をこのところよく見ます。普通の文章として書いたものより、現場感覚あふれる言葉がぽろぽろっと出てきて面白いです。


 「ストレスといわれるものの半分くらいはいじめ」といい、「ひとり」の効用をいう、この本の印象的なフレーズをご紹介しましょう。


「・・・人間というのは、放っておくといつのまにか限りなく「野生化・野獣化」するという問題です。・・・じゃあ人間の「野生化」をどう喰いとめるのかあるいは飼い慣らすのかという、どうもその大前提についての議論、考え方が今日の日本の社会には欠けている」(山折)


「人間が本来持っている攻撃性には、大きく分けて2つあると思っています。自分を生かすために他人を排除しようとする競争的侵略的な攻撃性と、よりよく生きようとするために挑戦的になる前進的な攻撃性。前者はいま問題になっている「いじめ」で、まずは他人をやっつけようとする。後者は攻撃性を失くしたら気力まで無くなってくるというもので、まずは自分の生き方へと視線が向かう。たとえば修行者なんかは非常にアグレッシブで、他者の説を受け入れようとしないけれども、自分でつぎつぎと難関を目指していく。両者の違いを区別するほうがよいように思います」(生野照子、浪速生野病院心身医療科部長、ストレス疾患研究所長)


「ひとつはスポーツ、オリンピックですね。二番目は軍隊組織です。三番目は宗教、四番目が学校かなと思います。この四つの文化装置というものが、放っておくと限りなく「野生化」する人間を飼い慣らすための文化装置だったのではないかと私は思っているのです」(山折)

「非常に厳しい環境の中でも、周囲の大人に支えられて育ってきた子どもは、ケンカはしても「いじめ」のような常在的迫害関係は逆に少ないのです。・・・苦しい環境であっても、周囲から温かく守られているという確信さえあれば、わざわざ他人を排除しなくても素直に繋がっていけばよいと思えるようになるのですね。」(生野)


「私が大学で心理学を教えていた時に実験したのですが、攻撃的なゲームをしている最中のGSR(注:galvanic skin response、刺激によって引き起こされる手拳部の発汗を測定するもの、皮膚電気反射と訳されている)とか、心電図とか脈拍、皮膚温とか、脳波とかを測定しましたが、いずれもが強い刺激を受け、強度な興奮状態に陥っていました。身体は動いていないのに、脳だけの刺激で全身が戦闘状態のようになっているのです。それが子どもの未熟な心身で、毎日のように続けば、悪い影響を受ける可能性も当然考えられます。パイロットが飛行をモニターで練習するように、戦闘場面を子ども達に練習させているのですから」(生野)


「子どもには本来、強い衝動性や攻撃性が備わっていますが、これは子どもが勢いをもって発達していくには大切な要因だからです。ただし、それらが健全に作用していくためには、発達の他の部分、とくに自制力などとのバランスを図りながら伸びていくことが、非常に大事なんですね。ところが、ゲームなんかでは、そのバランスがまったく考慮されていない。ただ、熱中させるために、一方だけを刺激するようになっている。これって、本当に怖いことなんです」(生野)


「「ひとり」と「個」という問題でありますが、近代のヨーロッパ社会が生み出した個人とか個人の尊重という思想、観念をわれわれは明治以降受け入れてきたわけですね。その西洋社会が生み出した「個」にあたる大和言葉が「ひとり」という言葉だったのではないかと私は思っているのです。その2つを重ねあわせて考えたり、それを次世代に教えていくことをわれわれは怠ってきた・・・「ひとり」というのは、それは集団の中の「ひとり」なんです。たんに孤立した「ひとり」ではない。その「ひとり」という言葉の歴史はとても古いんですね。すでに万葉集に出てきますから千年の歴史がある。しかもその「ひとり」になることが、すなわちその人間を本当に生かす道であるという意味をもった表現がたくさんあります」(山折)


「西欧社会における「個」は超越的存在との関係における「個」です。「個」と「個」同士は互いに独立しているけれども、「神」の前ではそれぞれの「個」が垂直の関係で、その神と繋がっている。ところがそういう超越的な価値観をもたないわれわれの社会では、集団の中でその繋がりの関係を支えていくわけです」(同)


「「ひとり」ということを置き去りにしてきたことが、「いじめ」を生んできた。山折さんが先に仰った、「いじめ」は差別だということに戻って行くのでしょうね。」(生野)
「多様な「ひとりひとり」を認めない。」(鈴木眞理、政策研究大学院大学教授)


「日本の社会というのは高齢化社会です。社会保障のほとんどは高齢者のために使われています。・・・これからの社会は高齢者が身を削ってそのコストを子ども達のために回すという時代が来ている。それができないという状況というのは、子ども世代を大人世代、高齢者世代が「いじめ」ているということになると、私は見ているのです。その価値の大転換の時期がいま来ている」(山折)


「年少児がああいうゲームによって、いったん「野生化」されてしまうと染みつくんですよ。だからいまの子どもたちが使っている「死ね」とかいう言葉、あれは私たちの感覚とはぜんぜん違いますよ。染みつくということは、怖れや違和感なしに日常生活に言葉や観念が入り込むということで、その分、現実の実態からどんどん解離していくのです。閉じこもってゲームだけしていると、現実の感情や感覚が分からなくなるくらい遠のいている場合もあります」(生野)


「教師というのは、いつでも、やはり正直で、無防備のままで立っていなければならないのですね」(山折)
「私も教えることがあるのですけれど、教師のプライドや威厳にとらわれず正直にバカになるほうが良いのではと思っています」(鈴木)
「そうです。前だけでなく背中を見せることも覚悟していなくてはいけない」(山折)


「いまの日本人はなかなか本当の意味での「ひとり」になれない。つまり、周囲との関係を内在化して「内なる繋がり」を確信できるようになると、周囲から支えられているということも実感できるようになり、はじめて安心して「ひとり」という構えをとることができるのだけれど、日本の国というのは繋がりをすごく重んずる風土だから、しばしば繋がりが強制されたりする。だから、内的な意味での「ひとり」を確立する以前に、まずは外見的な繋がりをたくさん作らねばいけないような焦りが生まれたりしますよね。その時点で、「ひとり」という意味が変わってしまって、「ひとりぼっち」というネガティブな意味になってしまう」(生野)


「(小学校の参観で)「それは間違いです」とは言わないんですね。「う〜ん、違う答えの人、手を挙げて」って、正解は別にあるということを匂わせるんです。間違っている、と言ったら、生徒や参観に来ている保護者が傷つくという配慮からなんでしょうけれど、見当違いの配慮としか言いようがありません」(同)


「人の欠点を言ってはいけないという教え方に偏ると、相手の悪いところをキチッと批判できないという、知らず知らずにそういうところに追い込んでいしまっている面もありますね。日本人がディスカッション下手あるいはディスカッションを避けたがることの一因でもあるでしょう」(同)


「嫉妬や憎悪や怒りなどの感情は人の心に在るものです。現実世界では出口を塞がれているから抑圧するしかないわけですが、抑圧すればするほど心の内で膨れ上がり、暴発します。
 日本社会では「感情的」というのが貶し言葉として使われますよね。学校でも、感情を排して冷静に話をすることが求められる。でも、実は、感情と無縁な思考などというものは存在しないし、感情と理性、感情と知性は対立するものではないと思うんです。マイナスの感情を含めて、自分の感情をはっきりと言葉にして伝えることは極めて重要です」(柳)


「児童期の「いじめ」っぽい行為は、攻撃性の発達過程の一環として子どもに出てくるわけですから、そこの認識が非常に大切ですよね。その機を逃さず、周囲の大人がしっかり教えたり寄り添ったりすること。そして、発達の曲がり角をうまく通過させること。それが、後々の「常軌から逸脱したいじめ行為」を予防する一番の方法なんですね」(生野)


「「ひとり」という概念は、「いじめ」を考えるうえで、大変重要なキーワードだと思います。「ひとり」という足場を固めた生き方がきわめて大事なことなのに、いま置き忘れられている。表面的な繋がりで一時的に身を処そうとしている。若者から大人まで、大半がそうなってしまっている。その反省って大事ですよね。自分自身の核心を見つめ、育てる」(生野)


「私は「基本的肯定感」や自尊心をはぐくめるのは実の親だけとは思いません。家族に近い気持ちを持った誰かに愛されている、大切にされている存在なんだという感覚が自尊心になって自分を支えると思います」(鈴木)


「はっきり言って、ストレスといわれているものの半分くらいは、本人にとっては「いじめ」である可能性がありますよね。学校だけでなく、職場、家庭の嫁姑、居住地区、ママ友といわれる母親のグループ、趣味の会、老人介護施設に至るまで、一定の関係のある人の集まりのなかのもめ事は「いじめ」の要素があります。驚くことに、範となってほしい人も「いじめ」行為を行うこと、さらに、「いじめ」行為は第三者から見えない形で巧妙に行われることも私たちは知っています」(鈴木)


 引用は以上です。

 この本の企画が始まったのは2012年の春から、と終章にありました。
 その後LINE殺人などがあり、ネットが増幅する攻撃性の問題はますます深刻になっています。本書の中にもそれを予知したような言葉がありました。

 さあ、私たちは新しい知恵を生み出せるのでしょうか。


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 攻撃性、野生化というものについてのコメントにうなずく。残念ながら、リーダー教育の中にもマッチョイズム、攻撃性を煽るようなものが多い。それが何を誘発するだろうか。


 私が山に登るのも攻撃性の表れのようです。「この秋はたくさん山に登ろうっと」と、楽しみにしてるのですけど。


 そして「ひとり」ということ。50目前にして、突然「ひとり」になった身の上を思います。
(この場合の「ひとり」は本書でいうところの「ひとり」と少し違うかもしれないけど。一方で業界ではずっと、「ひとり」でした。)
 それでも不思議と心の支えになるものがあり、「ひとり」で生きていられるのは幸せなことです。


 
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 NPOの会員さん何人かと久しぶりにお話ししました。

 「よのなかカフェ」について、年長の会員さんに構想を話していたところ、この方が言われたのが、

「正田さんが傷つけられることになるかもしれないのが、心配です」


 実はたくさんの人に心配をかけてしまっているのかもしれない。でも有難いことだなあ。

 少し自分を大事にしようかなあ。

 でもまた「教師は正直に、無防備に、背中を見せて」という言葉もヒットしました。たぶん無意識にそうしてきたと思います。
 

100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp