のろのろとたまった家事をした週末でした。
講演とか研修がなんでそんなに疲れるのか、とお叱りを受けそうですが、基本的に「しゃべり」の才能が乏しいんです。元々「人の話を聴く」ほうが好きでこの道に入ったのに、ある時期から
「そうか、やり方をちゃんと教えてあげないとこの人達(経営者・管理者)はコーチングをできる人にはなれないんだな〜」
と気がつき、それで講師業に転換したのでした。今でも話すのは決して好きではありません。
その転換の節目がちょうど10年前、初の事例セミナーをやったり任意団体「コーチング・リーダーズ・スクエア(CLS)」を設立したころです。正田は当時、コーチング開始して2年ほどたっており、2年間はパーソナルコーチングが中心で「教える」ことに気乗りがしませんでした。「自分は人を教えられるなんて器ではない、おこがましい」と思っていました。
色々と他の先生の講演研修に行ってみて思うのは、「笑い」を入れるテクニックとか、聴衆を「いじる」テクとか、私などがいくら真似したくてもできないわざを使われる先生はたくさんいます。ただし、「笑い」の要素が多いと本筋の話の中身をあまりおぼえていない、ということが私の場合は往々にしてあります。
また、「上から口調で」「一方的に、立て板に水と」話す先生の場合は、失礼ながらかなり先生自身の「緊張」とか「こわい」という気持ちが入っていそうです。
「聴衆に弱みを見せたくない」
「反駁されて見っともない姿をさらしたくない」
という。
―「こわい」感情を隠したいがあまり「上から口調」になるという気持ちはわからなくはありません。正田もこわいです、リーダーたちの視線にさらされることは。―
質疑タイムを一切とらない講演とか、時間オーバー気味に先生がしゃべったあと最後にちょろっと質疑を司会から促す講演というのもいっぱいあります。それはまた、とりわけ人生経験や見識ある聴衆にとっては、一方通行で「腹ふくるる思い」になるものです。(ひいては、講演内容をあとでほとんど憶えていない、という結果にもつながります)
正田は過去に質疑で「吊るし上げ」「火だるま」の目にはさんざん遭ったほうです。女のくせに「こんなに実績があるんです」って生意気な話をするからです。
それでも「質疑」は重視します。「質問をしよう」と繰り返し促してあげると、やっぱりちゃんと聴かずにはいられない。能動的に「とりにいく」姿勢で聴いてくれます。自分の中に生まれる「引っかかり」「疑い」を大事にしてくれます。いわばクリティカルシンキングをしながら話を聴いてくれます。かつそれらをその場で丁寧に解消してあげれば、講演に対する悪感情を一切持たないで研修会場をあとにしてもらえるわけです。
―疑えばよいのだ、私が既存の研修機関の教えをつねに疑ったように。疑いつくし、そしてすべての疑いが解消されたなら、次の段階で信じればよいのだ、科学を信じるように。―
・・・でもそうして「対話重視」の姿勢で講演すると、実は私自身はあとでどっと疲れています。
私のもっているストレングス・ファインダーは「個別化」「親密性」が昔から一貫して優勢で、これは大勢を相手に講演するよりも1人1人と個別に話すのに本来はむいている資質のようです。それを無理して講演とかするものだから(ちなみに「人前で話す」ことにかかわる資質は一貫して中程度のランク)、聴衆が35人いたら35人ひとりひとりと対話しているような「つもり」で話しているわけで、実は聴衆の顔をみながら
「あ、今この人には反感が生まれた」
なんてことも全部感じ取っています。
(以前は、そういうのを感じると途端に舌がもつれる気弱な講師でした。そのへんは大分腹がすわったと思います)
自分が過去に(認められたかったのに)認められなかったことの不満。過去の上司への不満。失われた自分の青春時代への哀惜の念。そしてつるんとした顔の「今時の若い子」への羨望や嫉妬…。
「承認」を伝えるのはときに寝た子を起こすようなもの、パンドラの箱を開けるようなもの。
そして行き場を失った悪感情は往々にして講師へ向かいます。
(だから、講師は「教える」ことと同時に「癒し」と「至誠」の念も伝えなければなりません)
そして、今でもある「悪意の質問」への恐怖。これが終盤に出ると、実は講演の印象がいきなり悪くなります。悪感情は伝播しやすいものです。
だいぶ、「悪意の質問」のパターンを読んで事前に対処するようにはなりましたが。
高槻の場合には、やはり部会長・副会長からのご挨拶が場の感情を真摯にそろえてくださったと思います。
時代の感情を「負」から「正」へ、力わざで転換する「承認」の講師は危険作業をやっているのだ、ということをご理解くださる主催者の方だといいです。
****
先日の講演後の懇親会の席で御年80歳の間瀬誠先生と立ち話しました。
『工場長心得ノート』(日刊工業新聞社)の著者である間瀬先生が言われたのが、
「ぼくは、旭化成時代自分の全然経験のない分野の工場長ばかり任されていた。
そこでぼくが工場長としてやっていたのは、ただニコニコしている姿を見せることだった」
私流の遺伝子学による「日本人の不安感の高さ、信頼感の低さ」に大いに賛同してくださった間瀬先生は、「そうか、だから自分の動いていい範囲を自分で狭く限定してしまうんだな。だから日本人には一番『承認』が効くわけだ」ということも言われました。その間瀬先生が現役時代無意識にやっておられたことは、やはり「不安で自信のない日本人労働者対策」のようなことであったようです。
****
先日の「ほめる研修批判」の記事のあと、過去に同研修を受講し検定2級ももっているというお友達の1人から真摯なメッセージをいただいていました。
そこには、非常に自分が精神的にきつかった時期に同研修を受講して救われたこと、現在はその団体と距離を置いていること、などが綴られていました。
お恥ずかしいことに、まだお返事が書けていません。
その人にとっては大切な思い出であったはずなのです。そして私にとっては尊敬するお友達です。
過去なんども同様のことがありました。コーチングの他研修機関(ややスピリチュアル系)を受講してそちらのプログラムを良いと思ったひとは、最後は当協会や前身の任意団体のルールを破るなど問題行動を起こし、去っていきました。それは問題行動でありその教育プログラムに欠陥があるからだよ、という意味のことをどんなに説いてもむだでした。
だから、他研修機関で受講された方のお気持ちは「尊重」して「敬して遠ざく」のが本来は一番良いのです。
他の世界のひとからみると「コップの中の嵐」とみえることでしょうが、実はこうした宗教や思想がかったもの同士は激しい嫌悪や憎悪の感情を産みやすいのです。ということが、『あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか』(レイチェル・ハーツ)という本に書いてあります。
この本についてはこちら
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51838044.html
に読書日記を掲載していますが、残念ながらこの記事ではこの(思想対立、宗派対立などのもたらす嫌悪感に関しての)箇所は引用していません。
「ほめる研修」は、ギスギスした職場や自殺者の多い現状を変えたいという想いが根底にあるということがそのお友達のメッセージにありました。ただ本来の思いとはかけ離れたところにいっていると。
この場を借りてひとつコメントをすると、
以前も書いたことですが、これまで当協会の尊敬する受講生様が「以前の部下のお葬式に行ってきた」と言われたことが、2度ありました。
「私が育てた優秀な部下が、次の強引な上司に責め殺された」
というのです。
どれほどの無念だったことか。想像するよりほかありません。
だから、人をたいせつにしない職場の現状を変えたいというところの想いはおなじです。
ただ、想いがどんなに正しくても、手法もまた正しくないといけません。
研修を受講した人がはき違えを起こすことが多いなら、それは稚拙な伝え方なのです。起こり得る誤解を先回りして解消し、それが起こる確率を下げる取り組みを、プロならすべきです。
起こりがちな誤りを戒めるのは、「1回だけ言いました」ではダメです。何回も何回も、嫌がられても言わなければなりません。エンタメとしての楽しさを犠牲にしてでも。
―そうした作業をすると、講師の役割は限りなく「マネージャー」に近いものになってきます―
「教育は間違っても人は死なない」
というフレーズをこのブログでよく言います。これはもちろん反語で、とくにリーダーにたいする間違った教育で人が死ぬことは大いにあり得る、ただ見えにくいだけだ、と思っています。平気で間違える教育のなんと多いことか。
今、「ほめる研修」に関していうなら、「上司のほめ言葉を信頼できない」という事態のなんと恐ろしいことか。
そして、研修機関の組織が大きくなったときにはき違える人が増えやすいことを考えると、正田は組織を大きくしたいのかどうか、正直わからなくなることがあります。
わたしたちの教育がより力強く、この社会に説得力をもつ存在でありたいとは思いますが。
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
講演とか研修がなんでそんなに疲れるのか、とお叱りを受けそうですが、基本的に「しゃべり」の才能が乏しいんです。元々「人の話を聴く」ほうが好きでこの道に入ったのに、ある時期から
「そうか、やり方をちゃんと教えてあげないとこの人達(経営者・管理者)はコーチングをできる人にはなれないんだな〜」
と気がつき、それで講師業に転換したのでした。今でも話すのは決して好きではありません。
その転換の節目がちょうど10年前、初の事例セミナーをやったり任意団体「コーチング・リーダーズ・スクエア(CLS)」を設立したころです。正田は当時、コーチング開始して2年ほどたっており、2年間はパーソナルコーチングが中心で「教える」ことに気乗りがしませんでした。「自分は人を教えられるなんて器ではない、おこがましい」と思っていました。
色々と他の先生の講演研修に行ってみて思うのは、「笑い」を入れるテクニックとか、聴衆を「いじる」テクとか、私などがいくら真似したくてもできないわざを使われる先生はたくさんいます。ただし、「笑い」の要素が多いと本筋の話の中身をあまりおぼえていない、ということが私の場合は往々にしてあります。
また、「上から口調で」「一方的に、立て板に水と」話す先生の場合は、失礼ながらかなり先生自身の「緊張」とか「こわい」という気持ちが入っていそうです。
「聴衆に弱みを見せたくない」
「反駁されて見っともない姿をさらしたくない」
という。
―「こわい」感情を隠したいがあまり「上から口調」になるという気持ちはわからなくはありません。正田もこわいです、リーダーたちの視線にさらされることは。―
質疑タイムを一切とらない講演とか、時間オーバー気味に先生がしゃべったあと最後にちょろっと質疑を司会から促す講演というのもいっぱいあります。それはまた、とりわけ人生経験や見識ある聴衆にとっては、一方通行で「腹ふくるる思い」になるものです。(ひいては、講演内容をあとでほとんど憶えていない、という結果にもつながります)
正田は過去に質疑で「吊るし上げ」「火だるま」の目にはさんざん遭ったほうです。女のくせに「こんなに実績があるんです」って生意気な話をするからです。
それでも「質疑」は重視します。「質問をしよう」と繰り返し促してあげると、やっぱりちゃんと聴かずにはいられない。能動的に「とりにいく」姿勢で聴いてくれます。自分の中に生まれる「引っかかり」「疑い」を大事にしてくれます。いわばクリティカルシンキングをしながら話を聴いてくれます。かつそれらをその場で丁寧に解消してあげれば、講演に対する悪感情を一切持たないで研修会場をあとにしてもらえるわけです。
―疑えばよいのだ、私が既存の研修機関の教えをつねに疑ったように。疑いつくし、そしてすべての疑いが解消されたなら、次の段階で信じればよいのだ、科学を信じるように。―
・・・でもそうして「対話重視」の姿勢で講演すると、実は私自身はあとでどっと疲れています。
私のもっているストレングス・ファインダーは「個別化」「親密性」が昔から一貫して優勢で、これは大勢を相手に講演するよりも1人1人と個別に話すのに本来はむいている資質のようです。それを無理して講演とかするものだから(ちなみに「人前で話す」ことにかかわる資質は一貫して中程度のランク)、聴衆が35人いたら35人ひとりひとりと対話しているような「つもり」で話しているわけで、実は聴衆の顔をみながら
「あ、今この人には反感が生まれた」
なんてことも全部感じ取っています。
(以前は、そういうのを感じると途端に舌がもつれる気弱な講師でした。そのへんは大分腹がすわったと思います)
自分が過去に(認められたかったのに)認められなかったことの不満。過去の上司への不満。失われた自分の青春時代への哀惜の念。そしてつるんとした顔の「今時の若い子」への羨望や嫉妬…。
「承認」を伝えるのはときに寝た子を起こすようなもの、パンドラの箱を開けるようなもの。
そして行き場を失った悪感情は往々にして講師へ向かいます。
(だから、講師は「教える」ことと同時に「癒し」と「至誠」の念も伝えなければなりません)
そして、今でもある「悪意の質問」への恐怖。これが終盤に出ると、実は講演の印象がいきなり悪くなります。悪感情は伝播しやすいものです。
だいぶ、「悪意の質問」のパターンを読んで事前に対処するようにはなりましたが。
高槻の場合には、やはり部会長・副会長からのご挨拶が場の感情を真摯にそろえてくださったと思います。
時代の感情を「負」から「正」へ、力わざで転換する「承認」の講師は危険作業をやっているのだ、ということをご理解くださる主催者の方だといいです。
****
先日の講演後の懇親会の席で御年80歳の間瀬誠先生と立ち話しました。
『工場長心得ノート』(日刊工業新聞社)の著者である間瀬先生が言われたのが、
「ぼくは、旭化成時代自分の全然経験のない分野の工場長ばかり任されていた。
そこでぼくが工場長としてやっていたのは、ただニコニコしている姿を見せることだった」
私流の遺伝子学による「日本人の不安感の高さ、信頼感の低さ」に大いに賛同してくださった間瀬先生は、「そうか、だから自分の動いていい範囲を自分で狭く限定してしまうんだな。だから日本人には一番『承認』が効くわけだ」ということも言われました。その間瀬先生が現役時代無意識にやっておられたことは、やはり「不安で自信のない日本人労働者対策」のようなことであったようです。
****
先日の「ほめる研修批判」の記事のあと、過去に同研修を受講し検定2級ももっているというお友達の1人から真摯なメッセージをいただいていました。
そこには、非常に自分が精神的にきつかった時期に同研修を受講して救われたこと、現在はその団体と距離を置いていること、などが綴られていました。
お恥ずかしいことに、まだお返事が書けていません。
その人にとっては大切な思い出であったはずなのです。そして私にとっては尊敬するお友達です。
過去なんども同様のことがありました。コーチングの他研修機関(ややスピリチュアル系)を受講してそちらのプログラムを良いと思ったひとは、最後は当協会や前身の任意団体のルールを破るなど問題行動を起こし、去っていきました。それは問題行動でありその教育プログラムに欠陥があるからだよ、という意味のことをどんなに説いてもむだでした。
だから、他研修機関で受講された方のお気持ちは「尊重」して「敬して遠ざく」のが本来は一番良いのです。
他の世界のひとからみると「コップの中の嵐」とみえることでしょうが、実はこうした宗教や思想がかったもの同士は激しい嫌悪や憎悪の感情を産みやすいのです。ということが、『あなたはなぜ「嫌悪感」を抱くのか』(レイチェル・ハーツ)という本に書いてあります。
この本についてはこちら
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51838044.html
に読書日記を掲載していますが、残念ながらこの記事ではこの(思想対立、宗派対立などのもたらす嫌悪感に関しての)箇所は引用していません。
「ほめる研修」は、ギスギスした職場や自殺者の多い現状を変えたいという想いが根底にあるということがそのお友達のメッセージにありました。ただ本来の思いとはかけ離れたところにいっていると。
この場を借りてひとつコメントをすると、
以前も書いたことですが、これまで当協会の尊敬する受講生様が「以前の部下のお葬式に行ってきた」と言われたことが、2度ありました。
「私が育てた優秀な部下が、次の強引な上司に責め殺された」
というのです。
どれほどの無念だったことか。想像するよりほかありません。
だから、人をたいせつにしない職場の現状を変えたいというところの想いはおなじです。
ただ、想いがどんなに正しくても、手法もまた正しくないといけません。
研修を受講した人がはき違えを起こすことが多いなら、それは稚拙な伝え方なのです。起こり得る誤解を先回りして解消し、それが起こる確率を下げる取り組みを、プロならすべきです。
起こりがちな誤りを戒めるのは、「1回だけ言いました」ではダメです。何回も何回も、嫌がられても言わなければなりません。エンタメとしての楽しさを犠牲にしてでも。
―そうした作業をすると、講師の役割は限りなく「マネージャー」に近いものになってきます―
「教育は間違っても人は死なない」
というフレーズをこのブログでよく言います。これはもちろん反語で、とくにリーダーにたいする間違った教育で人が死ぬことは大いにあり得る、ただ見えにくいだけだ、と思っています。平気で間違える教育のなんと多いことか。
今、「ほめる研修」に関していうなら、「上司のほめ言葉を信頼できない」という事態のなんと恐ろしいことか。
そして、研修機関の組織が大きくなったときにはき違える人が増えやすいことを考えると、正田は組織を大きくしたいのかどうか、正直わからなくなることがあります。
わたしたちの教育がより力強く、この社会に説得力をもつ存在でありたいとは思いますが。
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
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