31日、某所にて「メンタルヘルス」の1時間半のセミナーに行きました。

 はい、暇なんです。9-10月が珍しく割合いそがしかったので、「インプット期間」のつもりでもあります。

 メンヘルセミナー受講は何度めかで重複することも多かったですが、今回も得るところは、多少はありました。

 ここにご紹介すると、

●規模の大きい事業所が必ずしも良いメンヘル対策をしているとはいえない。制度、体制はよく整っているが。むしろ小さい規模のところの方が、家庭的な温かい対応をしている。それはトップの理解による。

●仕事にやりがいを持って認められている人では月300時間も平気で残業している人もいる。しかしそういう人でも、知らず知らずのうちに不調になっていることがあり、その境目は月100時間ぐらいである。上司は気がついたらこまめに「たくさん残業しているけど体調は大丈夫?」と声がけすること。

●「下からのパワハラ」がある。新任の、部署を転任してきた課長に係長が細かく口を出し、嫌がらせをし、課長が「もう辞めたい」と口にするなど。

●辞めたあとの人からパワハラの訴えがあったときに、対応しないわけではない。

・・・など。


 学びになった部分とは別に、クレームを言うわけではないですが「自分自身の今後のために」、不満点も挙げておきたいと思います。

 メンヘル対策の1つとして講師の先生(女性・カウンセラー)が「コーチング」に言及されているのですが、他分野に言及するにしては認識があさすぎる。プロがきいたら怒るよ(きいてるけど)。


 この先生は「保健師さんのためのコーチング」という種類の学びをされているらしい。「コーチングは、相手の達成目標や到達点が明らかな場合に有効な手法となる」と言われています。
 近年メタボの人、糖尿病予備軍の人などへの栄養指導で、一方的にアドバイスしたり教えたりすることが効果を産まないことから、保健師さん看護師さんの新しい手法として「コーチング」が注目されています。そこでは、コーチングの中でも
「相手の目標―体重何kgとか健康を取り戻した状態とか―をビジュアライズさせ、現状とのギャップを認識させ、行動アイデアを相手自身から引き出す」
という、いわゆるコーチング・フローとかGROWモデルとかよばれるものを活用します。

 しかし、われわれマネジャーへの総合教育として「コーチング」をやっている者の目からすると、それは「コーチング」のごく一部にしかすぎません。

 「承認中心コーチング」を標榜する当協会の現役マネジャーとの間では、つねづね
「目標達成って、先に『承認』ありきですよねえ。それがすべてのベースで、それなしには『目標』なんて、出てきませんよ」
と、言い合っています。

 承認中心コーチングを受講された方はよくご存知のように、「承認」は挨拶、声かけ、相手の名前をよぶ、相手の健康状態を気にかけるなどのメンヘル上の重要な行動もカバーしていますから、「業績向上」の片手間にメンヘルの向上もやってしまうものなのです。
 それは直近の経験だけでもなく、これまでのすべての「1位マネジャー」のもとで起きてきたことです。

 
 どの分野の人も、自分の分野のカバーする範囲を広くとらえ、他人の分野を狭くとらえようとするものです。にしても、メンヘルの先生はコーチングを少し過小評価しすぎていないだろうか。よく知らないのに言及しちゃってないだろうか。

(これは、コンサルの先生にもよくあるのだ。中小企業診断士の養成講座になまじ「コーチング」がごく短時間で入っているせいか、診断士の資格を持っている人は聞きかじりの知識を口にすることが多い)

 私だったら、もし自分のセミナー中に他分野について言及するとしたら、例えばNLPもアサーション・アサーティブネスも、「コーチのための」といった狭いくくりのでない本式のセミナーを受講してから言及しますね。受講しましたけど。また心理学については、自分の扱っている行動理論が心理学のすべてだ、と思わせるような物言いはしていません。ほかに膨大なコンテンツがあることは知っていますから。

 あとこの先生がセミナー中に何度か会話例を自分で言ってみせて、「ほらこういうのがコーチングなんですよ」って言われるのだが、プロからみると、「すみません、恐らくうまくいきません、その会話は」というものです。そんなに自分の都合のいい方に引っ張っていけるものじゃありません。虫がよすぎです。


 こうしたメンヘルセミナーが盛んであると、メンヘルについての関心の高まりが逆にコーチングについての誤った理解を招く、結果的にコーチングの普及が遅れる、ということにつながりかねません。ということを危惧するので、主催者に抗議まではしないにしてもブログには記録するわけです。

 
 このところ「育てないで部下が育つセミナー」やら「NLPの営業コンサルの先生」やら、あっちこっちの人が「コーチング」について誤解を招くような物言いをし、本当にマジ迷惑している。なんでみんな自分のよく知らないことについて平気で言えるんだろう。よほどコーチングが怖いんだろうか。


 関連で思い出すのは、先日某所で講演をしたあとの懇親会で、メンタルヘルスを専門でやられているという女性の方から、

「コーチングが普及すると、メンタルヘルスは要らなくなってしまいますね」

と話しかけられた。私のスライドの「成果事例」の中で、「鬱休職者全員職場復帰」の事例が入っていたことなどに目をとめられたのだろうと思う。

 私は

「はあ…そうかもしれません」

とお答えするにとどめた。実は内心薄々そう思っているのだが正直に言ってはあまりに相手に失礼だろう、と思われた。しかしこの方は、

「私、本当にそう思います。一刻も早くいいコーチングが普及するといいですね」

と言われたのだった。


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 『パラレルな知性』(鷲田清一、晶文社、2013年10月)を読みました。

 タイトルにつられて買った本ですが新聞雑誌に掲載された時事問題に関する雑文をまとめた本でそんなに読むところは多くないです。

 ただ部分的に、例えばこんなフレーズ、

「要するに、専門家も非専門家もいずれも科学技術全体のあり方を見渡せないというところに、つまりは科学技術の自己制御がうまくきかないというところに、高度化した現代の科学や技術の問題がある。」

「ここに求められているのは、広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な『教養』ではなく、むしろ何が人の生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく営みとしての『哲学』である。ヨーロッパではこれが社会人としての必須のトレーニングとして位置づけられてきた。それをわたしたちはここで、『教養』と名づけたいと思うのである」

「1つのことしかできないのは、プロフェッショナルでなく、スペシャリストであるにすぎないのである。
 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロフェッショナルでありうるためには、つねに同時に『教養人』でなければいけないということである。『教養』とは、1つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということである。いいかえると問題を複眼でみること、いくつもの異なる視点から問題を照射できるということである。」


 こういうフレーズを、わかってるつもりだけど改めて読みたかった、のでしょう。

 ちなみに一番好きなフレーズは:

「・・・もっとも重要なことは、わかることよりわからないことを知ること、わからないけれどこれは大事ということを知ること、そしてわからないものにわからないままに的確に対処できるということである。複雑性がますます堆積するなかで、この無呼吸の潜水のような過程をどこまで先に行けるかという、思考の耐性こそが今求められている。それこそ逆説的な物言いではあるが、人が学ぶのは、わからないという事態に耐え抜くことのできるような知性の体力、知性の耐性を身につけるためでないのかと言いたいぐらいである。」


 わからないことに耐える。わからないままに前に進む。


 よのなかカフェもまた、異質の分野の人がぶつかりあいながら「わからないことに耐える」強靭な知性をはぐくむものでありたいと思っている。

 (だから、知らないことを知ったかぶり発言する見栄っぱりの人は来ないでいいのだ)

 
 よのなかカフェいつ再開できるかなあ。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp