今日は読書日記ばかり3本目をアップします。

 「人に教えるということ」の記事も最近シリーズ化しつつありますが、実はこれはルーツがあって、去年亡くなった実家の母は中学教師だったので、実家には中学の今でいうならカリスマ国語教師、大村はまの『教えるということ』があったのです。

 私が中学生ごろから、置いてあったと思います。

 中の文章は丸々忘れてしまいましたが、そこから受け取ったの大村氏の「教える覚悟」でした。


 それがどこか頭の中にあって、「人に教えるということ」のシリーズになっていると思います。
 自分は長いこと「教えるなんて嫌いだ、自分はそんな器じゃない」と言っていたくせにね。


 とりわけ大人に対するヒューマンスキル系の教育研修では、

「私は教えているんじゃありません、気づいてもらうことをしているんです」

という言辞はあちこちにみられます。

 ただ、それでは教える側学ぶ側どちらも責任を問われない、責任を引き受けていない、という趣旨のことも、わたしは著書やこのブログなどに書いてきたつもりです。

 そして、とりわけ「承認」という巨大な広がりと深さのあるコンテンツについては、「腰の引けた」伝え方では伝わらない、とも。


 その「私は教えていません」に対する、子どもの教育現場からの答えが、今回ご紹介する『教えることの復権』(大村はま/苅谷剛彦・夏子、ちくま新書、2003年3月)でした。

 時期的には、1998年から導入された「ゆとり教育」について、学力低下の警告サインが出始めたころです。

 ゆとりに対してつめこみが正しいのか、という議論はさて置いて、「教える」を再度標榜する大村氏の議論に耳を傾けてみましょう。


 れいによって印象的だったところの抜書きです:

大村:単元学習には非常に教師の力が要るわけ。この単元の目指すものはこれって決めて、そこへ向かって具体的に手を尽くさなければならない。これよさそうだ、これ楽しそうだなんてやっていたら学力低下になるのは決まっている。そんなやり方で、目標もはっきりしないのに、そのうえ子どもの希望に任せるなんてことをしたら、危ないですよ。まだ選ぶ目もない人に選ばせるわけだから。


 
 これは私が言ったら不遜にしか聞こえないでしょうが、中学教師の大村氏の立場でもこの言葉を言うのに当時は勇気が要ったことと思います。しかし真実です。より時代が下ると内田樹氏が『下流志向』で、教育の消費者になってしまった子どもたち、ということを言い出しました。

 そして、大人の世界でも残念ながら言える部分はあります。たとえば「承認教育」を行うか行わないかについて、多数決で決められることではありません。なぜならこの教育は従来の延長線上ではない成果を創りだしてしまうので、未経験者は誰もその未来を予測したりイメージしたりできないからです。それは多数決では選べない問題です。


大村:教師から問いを出して真実を聞きだすなんて無理なこと。子どもを知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい。
 私は、自分から問いを出して「このごろどんなふうですか」などと聞いて返ってくる答えのなかには、真実はないと決めていました。そうでなくて、私がいろんな話をしていて子どもも面白く聞いているうちに、思わず自分から自然に出てくる話、そのなかにピンピンと感じるものがある、それを感じとるのが教師の力じゃないの。

 

 これも深く頷く箇所です。私がこのブログを延々と8年間も書き続けることの理由の1つは、これです。身近なエピソードでも読書日記でも映画評でもあるいは自分自身の方針説明でも、とにかく私から大量の情報発信をしておくのです。すると、それを見ていた人は何かを感じてくれる。そして次回あったとき、関連でその人の心に浮かんだ思いをこちらから問われるのも待たずに話し出す。私は、その人の話題が最近の自分の記事のどれかとシンクロしてるな、と漠然と思いながら、でもその人から出てきた大量の思いを受けとめるのです。

 気持ちとしては、最近のどの記事の関連でこういうことを自分は思った、と前置きをつけてくださると本当は嬉しいんですけどね。でないとときどき相手の話が「見えない」ことがありますので。

 そして、「その力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい」というのは、恐らくそうした相手(大村氏の場合は、子ども)から出てくる思いをすくいあげることなしに「教える」作業をしてもダメでしょうと、そういう「一方的に教えるとか押しつける作業はダメ」と、ただ教えることの限界も言っているのだと思います。短絡的に、「教える」ことを復権させる、じゃあ一方的に立て板に水と教師がしゃべってていいか、と大村氏はそんな極端なことは主張していません。もちろん私もであります。


 
大村:戦後の一番の失敗は、先生方が教えることをやめたことにあります。教えることは押しつけることで、本人の個性を失わせると、そういう話がたくさん出たでしょ。そういうのがちょっとしゃれて聞こえた。(正田注:大人の研修の世界ではその流行は今も続いています)戦後の教育の大失敗ですよ。先生とは教える人でしょう。教え方が悪かったので詰め込みになったかもしれない、だけど詰め込みになってしまったことがまずいだけだったのに、教えることを手控えてしまって、あの頃から教師が教師とはなにをする人かというのを忘れたのではないかと思う。
 

夏子:サッカーでも野球でもいいですが、そういうスポーツをやるときには基本的な技術がとても大切だから、まずは、こつこつ走るとか基本動作を確実に覚えるとかいうような地味な練習を積むしかないですよね。一番いいフォームがすっかり身につくまで、素振りを黙々と繰り返すような部分です。コーチは、それこそ手取り足取りで、理想的なフォームを教えることに迷ったりしないでしょう。
 ところが、学校の先生方が勉強については、そういう基本的なことを教えるのに、スポーツのコーチほどには手取り足取りしていないような感じがありますね。
 


 はい、私は大いに同意します。「自分は教えない」というのは単なる逃げ、責任回避、だと思っています。教えるというのはそれ自体なかなか難しいことで、それが出来ないから「教えない」のではないか、と勘繰りたくもなります。でも大人のヒューマンスキル研修の世界でこんなこと言うのは少数派です。

 「おこがましい」のは、承知のうえです。そのおこがましさの重圧に耐えた人だけが本当に教える人として人前に立つことができるのだろう、と思っています。
(だから、私は1日研修が終わると翌日はほとんど倒れているのですが、普通の「教えない」先生とか「好き勝手な事歌ってる」先生と比べてなぜそんなに「疲れる」のか、多くの研修事務局の人にはわかっていただけないみたいです)

 
 
 ・・・と、本書についてはほとんど無批判に「そうだそうだ」と心の中で叫びます・・・


 もうひとつ、本書の主題ともこの記事の主題とも少し離れているのですが、私が「引っかかった」くだりがありました。

 
夏子:どんな職業でも、仕事のしはじめの頃には、上の人にコテンパンに叱られてギャフンということってあるじゃないですか。私も、おまえは根性が曲がってるから仕事がうまくできないんだ、と言われたことがあって、次の日仕事に行きたくないと思ったことがあります。そんなこと言われる筋合いはないっ、て腹が立ってね。もう打ちのめされるぐらいにきびしくされて、それでもなんとか奮起してやり直すと、一歩成長したり1つコツをおぼえるというのがある。だから上の人は、自信をもって駄目出しをするのでしょう。こんなので給料もらえると思うな、なんて言われながら歯をくいしばって仕事しているのだけれど、先生にはそういう場があまりないんじゃないでしょうか。まわりは子どもばかりだし。



 これも、今日では「パワハラ」の観点から語られそうなことを言っていますが大事なことのような気がします。
 大学まで22年間で学んだとはまったく異質な種類の学びの世界に入る、そのときにそれまで身に着けていた(と思っている)ことを一度解体してゼロから泥まみれになって、初めて習得できることってあります。 

 自分で自分にダメ出しをできる人はそう多くない。しかしそういう時自信をもって駄目出しをできる上司は今どれくらいいるだろうか。また、「ブラック企業」の影響か、最近では大学生に対してパワハラ・メンヘルの講義をするようになっているそうだけど、極端に「自衛」の感覚をもった若い人が、そうしたダメ出しに出あって初めて学習できることに対しても心を閉ざしてしまわないだろうか。

 ふう、考え過ぎでなければいいのですが。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp