こちらもわりあい「重い」記事なので「重い」のが苦手な方は読まないでください。もとより「軽躁」な人とは私もお話ししたいと思いません―


 1つ前の『成功する子 失敗する子』の読書日記の中で、アメリカでの「中退―大検」のコースについての記述が私にとって「重かった」と書きました。

 関連する思い出があり、でもそれをご紹介すると実際の大検取得者や、現在まさに「中退―大検」を検討している方はご気分を害されるかもしれない、ということも書きました。

 
 あくまで、自分の家族に関する選択の記録としてとらえていただけると幸いです。


 2011年10月の初め、私は二女の高校の近くの喫茶店で、担任の男の先生と養護教諭の女の先生と二女との4人で向かい合っていました。

 その年の6月、二女は鬱を再発症し不登校になりました。3か月ほどの重篤なトンネルの後、9月末にはタイミング良く東北・南三陸へのボランティアの旅に連れていくことができ、二女は生気を取り戻しつつありました。しかし大きな学校行事の続く時期なのでまだクラスに合流はできないと、主に学校の方の都合で再登校が延び延びになっていました。

 そのころ、二女は家で家族と衝突したはずみに、学校でともだちに身体のことで言われた悪口をしゃべりだしました。それは本人にとってかなり耐えがたい内容が含まれていました。
 それまでも理由はまた「いじめ」だろうと当たりはつけていましたが、具体的な内容を本人の口からきいたのは初めてでした。それだけ本人もつらいことと向き合える力を取り戻した、ということでした。

 わたしは娘の担任の先生に電話をかけ、「これは先生の方で解決していただかなあきませんなあ」と言いました。
 「このお電話だけでは詳しい事情はわかりませんが、一度お話をうかがいましょう」

 担任の先生は言い、そして会談が実現したのでした。
 学校側は担任の先生だけかと思ったのですが、養護の女の先生がついてきました。

 
 喫茶店での会談では、冒頭から養護の先生が早口気味に発言しました。

「中退は何も敗北だとか逃げだとかとらえる必要はないのよ。中退して幸せになった人はいっぱいいますよ。私個人的にも知っていますよ」

 養護の先生は主に二女のほうを向き、しきりに話しかけました。二女もそれに合わせて応答し、不登校の間に高校中退者向けの大検受験用専門学校のセミナーに自分で行ってみた話などをしました。

 話は奇妙に「中退」に向けて回っていました。

 私は癇癪玉を破裂させました。

「今日のこの席はなんのためにあるんですか!問題はクラスのいじめなんですよ!この子には学校に戻る能力も気力も、今はあるんです。あなたがた先生がいじめを解決してくれれば、この子は戻れるんです。それがあなたがたの仕事でしょう」

「なんで中退中退ってそんなにそそのかすんですか!こんなまじめな生徒が中退するってことをあなたがたは敗北ととらえないんですか!」

「あなた、今『ざまあみろ』って思ってるでしょう」

 私は奇妙にブランド物らしいラグジュアリーな服装やバッグで身を固めた養護の先生に向かっていいました。

「あなた前、養護室で『立派な先生のお子さんも不登校って多いんですよ〜』って、妙に嬉しそうに私に言ってましたよね。あなた『ざまあみろ』って思ってるでしょう。社会人教育とか管理職教育とかしてひとかどの立派そうな仕事をしている私の子どもが中退者になることが嬉しいんでしょう、優越感を持ちたいですもんね」

「そんな…」

 養護の先生は口ごもりました。(私は今でも、自分の言ったことは図星だったろう、この先生の服装も口調も、女の優越感の厭らしさを表現したものだったろう、と思っています)

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこのカウンセリングだかクレーム対応研修でそのにやにや笑いを憶えてきたんですか!人がひとり中退するって大変なことですよ。大変なことは大変なこととして、真剣な表情でやりとりしたらどうですか!」

 
 ここで担任のイケメンの先生が重い口を開き、沈鬱な口調で、二女がクラスメートから受けた悪口の内容をききたい、という意味のことを言いました。
 私の推測では、養護の先生はこのイケメンの先生のことを庇おうとしたのでした。クラスでいじめが存在したということを認めてしまうとイケメン先生の責任問題になってしまう。それより被害者の二女に無言で中退してもらい穏便に済ませたい、とこの人なりに気を利かせたつもりだったのでした。

 大津のいじめ自殺事件でいじめを積極的に掘り起こそう、という風潮になるより前の時期のことです。

 ただそれは先生同士申し合わせていたわけではなく、イケメン先生はそれなりに責任をもっていじめと向き合おう、と思ったようでした。

 
 いじめ/悪口の全容解明はその後も何度もの会談を要し、その後イケメン先生は別の学年主任の女の先生とともに何度もわが家を訪問してくださいました。私が問題提起するまでは、残念ながらイケメン先生は学校行事にかまけてうちの二女の存在を忘れていたようでした。調査の結果、いじめの「主犯格」のような女の子がいるのは確かだが、その子は家庭環境が複雑で、いじめをさせないように働きかけてもどうにもならない、と先生はいいました。

(私はもちろん、「じゃあ家庭環境が良くてしつけの良い子のほうが学校に通えなくなるなんて不公平じゃないですか」と文句を言いました)

 また、養護の先生と2年のときの担任の先生が「不作為」をやっていたこともわかりました。二女は中学時代からアサーションを鍛えていた子だったのでこの2人の先生にともだちから悪口を言われて悩んでいることも訴えていたのですが、2人ともそれを3年の担任の先生に引き継いでいなかったのでした。

 そしてその月の下旬、二女はやっとふたたび学校に通いだしました。あの喫茶店での会談から20日ほど後のことで、それは本当に卒業にぎりぎりのタイミングでした。3回の乗換のある片道1時間20分ほどの電車通学でしたが、二女はそれ以降休まず通いつづけ、クラスには戻らず別室登校を続けました。学年の先生方が入れ替わり立ち替わり別室に来て二女の自習をみてくださいました。そうして二女は比較的機嫌よく冬休みも春休みも不足した単位を補うため登校し、体育の実技のテストも1人で受け、そしてぎりぎり辛うじて卒業に間に合いました。

 厳密に言うとともだちが卒業した全体の卒業式の時点ではまだ出席日数が足りず通いつづけ、校長が「特殊な判断」で卒業させることを決め、それを告げられた私は学年主任の先生に肩を抱かれて泣き崩れました。そして3月の30日でしたか、学年最終日に近い春休みのある日、二女は「たった1人の卒業式」をさせてもらったのでした。
 
 はい、当時は「卒業」を公言することを禁じられていましたが二女は高校を卒業しました。そして、いじめの存在も校長は認めず、単に二女が周囲への配慮をしすぎるあまり不登校になった、と表現していました。やはりそれは大津の事件の前だったから、と言えましょう。

 
 そんなふうに、私は髪ふりみだして先生方と闘って二女の「高卒資格」を手に入れたのでした。

(喫茶店の会談の途中であんまり興奮して怒鳴ったものだから髪どめがとれてばさばさっと多量の髪が落ちました。相対していた先生方はさぞ恐い思いをしたことでしょう)

 
 そして。二女は「自分のために闘ったお母ちゃん」が泥臭くみっともなくて恐いと思ったのか、高収入で享楽的な父親のもとに行きました。


 なぜ「中退」を、いちどは二女のためにそのほうがいいのかと迷ったこともありながらいや、ダメだ、と思ったのか。

 恐らく、当時根拠はありませんでしたがそれは後々二女の人生に暗い影を投げかけるだろう、人生のどの節目をとっても、高卒ではなく中退なのはなぜなのか、高校に通いつづけることを選ぶことはできなかったのか、と自分を責めることになるだろう、と思ったのでした。人一倍勤勉性が高く、自分に厳しい性格の二女でした。

 そして今、前の記事にあるアメリカのGED取得者のその後のデータをみると、日本のデータはわかりませんがやはりあれで良かったのだ、最善を尽くしたのだ、と思うしかないのでした。

 二女はとりたてて部活を頑張ったほうでもなく学校時代大きな達成のあった子とは言えませんでしたが、2回にわたるいじめ―鬱―不登校を克服し、とりわけ義務教育でない高校で卒業まで自力で勝ち取った、という「乗り越え体験」をすることができたのでした。二女は「やり抜いた」のでした。


 私にとっても重たい記憶なので、このブログで吐き出したくなったのでしょう。

 私の血縁上の子どもたちは私の葬儀に来なくていいです。あなたがたの母を「勝間和代」と呼んで揶揄する父親の庇護のもとで、母のいない人生を自分で引き受けて生きていってください。




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