篠山市商工会様でまた「1位」をとられた、とうかがいました。


 今度は、「小規模事業者持続化補助金」の募集について、全県で一次募集90の枠で募集されていたものに、同商工会様で職員さんが次々と申請の提案を上げ、単独商工会で30件を獲得してしまったのだそうな。で「食いすぎると下痢するぞ」と言われたのだそうな。


(注:その後原田事務局長からいただいた詳しい情報によりますと、

「『小規模事業者持続化補助金』は平成25年度の補正予算で付いたもので、
1次募集の1次締切で、全国の商工会地域で約2500件(商工会議所分は別)の応募があり、2140件弱が決定した模様です。
そこで、兵庫県商工会連合会受付(県下の商工会分)の89件中34件が篠山市商工会の案件だったのです。
決定したのはその内88件。篠山市のは33件というのが実績です。」

とのことです。決定率からみて兵庫県全体も優秀ですネ)



 補助金の通達をいち早く見つけた職員さんからの情報共有、それに他の職員さんが次々提案を上げる、これは会員企業さんとの日頃のコミュニケーションで状況把握し、お勧めをしてできることだと思うんですが、そういうことができる。まあどれだけ働きものなんでしょうか、皆さん。

 いくつか前の記事で「『承認』で部下の心の目を開こう」「『承認』のある職場では1人ひとりが見えるもの、聞こえるものの量が多い」というお話が出ましたがそれを地でいくようです。

 2006年地銀支店長だった松本茂樹さんの職場では、「生体認証ICカード」がお客様の利益になるからと窓口の女性たちが競ってお勧めし、加入ランキングが支店内の電子掲示板に出て「1位」になると女子行員さんたちがキャーキャー手を取り合って喜んだ、なんていうエピソードもありましたが、それとも似てきました。


 経営支援のお仕事に対する研修は初めてだったんですが、こうなるのね、と思いました。



 同商工会様では「承認」「傾聴」「質問」「説明力」と、1回あたり半日でスキル1つずつ4回にわたる管理職研修をし、途中で個別面談をし、そのあとワールドカフェ2回をし・・・と近年では久しぶりに理想的なコースで取り入れていただきました。


 研修というものに二の足を踏みやすいこの時代、そういう形での導入を決断していただいた原田事務局長の思い切りの良さに感謝したいものです。



 と、いうわけで、「篠山の奇跡」は「承認」から離れない限りこれからも続くでしょうし、同様に「柏原さんの奇跡」「林さんの奇跡」も続くでしょう。プレッシャーかな。


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「・・・わたしの教えることは学んだかたのところで『化ける』んですよ」

と、あるところでつぶやきました。

「どういう化け方をするかは予測がつかないところがあるんです。でも化けるということがわかっているので、教え方を変えるわけにはいかないんです。一番化けやすいように、拡張性をもつように教えないといけない。

 だからわたしのすることは十年一日のごとく『伝統芸能』のようなことになります。変えられないので、わたし自身は進歩がなくて、これでいいのかと思います」


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 『池上彰の教養のススメ』(日経BP社、2014年4月)を読みました。


 「5限目 生物学 本川達雄」からの引用です。


本川 科学は、理論至上主義で、事実は単なる事実であって、事実の羅列は科学とは言いません。事実を説明する妥当な理論が提出されていない事柄については、いくら事実が積み重なっていても、正式には科学的真実としては認められない。事実よりも理論が主役。理論が事実を真実にする、これが科学のやり方です。

池上 「動物の消費するエネルギーは体重の4分の3乗に比例する」のは、まぎれもない現実なんですよね。その現実をもってしても、「なぜそうなるか」の理論が確立していないと科学じゃない・・・。なるほど、先ほどの「うるう秒」の話に似てきました。

本川 そこで私は、「生物」という現実をまず積み重ねて、なぜそうなっているのかは、たとえわかっていなくても、その現実を認めると、どういう世界がひろがるかと、イメージを湧かせて『ゾウの時間 ネズミの時間』などの本を書いたわけです。生物学は、理系の王道から言わせると、非常に中途半端な立場にいるんです。法則ではなくて、単なる経験則じゃないか、いろいろ変わった事実を集めて喜んでいる、切手収集と同じじゃないかと。
(中略)
 でも、現実とは、実際に存在するものですからね、否定しようがない。人間が科学を確立するよりはるか前から生物は地球上に存在し続けました。そんな生物という、揺るぎない現実を相手にするのが、生物学です。普遍化した理論至上主義だけでは成り立たない学問です。



池上 本川先生のお話をうかがっていると、ますます自然科学だけじゃなくて、社会科学、たとえば経済学でも同じような過ちを犯していることに気づかされます。すべての人間を合理的な利益追求のために行動する「経済人=ホモエコノミクス」と仮定して、理論構築してきた旧来の経済学の現実との遊離などはその典型です。



 たぶん、NPOの会員さん方はなぜこのくだりを引用したかおわかりいただけると思うのですが―、

 多くの組織論やモチベーション論、キャリア論で説明しきれない現象が起きているとき、

 わたしはそこで前提としている人間観のちがいというのをみます。残念ながらそういう議論はまだ経営学の世界では本格的に起きていないようです。でもわたしたちの実践経験から「これが間違いなく真実だ」というものがある場合―。

 そこで「現実をみる目」というものを、そして「客観的事実と認められるものは間違いなく事実だ―だからそれに立脚して話をしなければならない」という感覚を問われなければならないでしょう。


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 ひとつ補足すると、わたしのすることは基本的には変わらないのだけれど、ある部分では次の段階に入っているように思います。

 たとえば「この教育」が響くのはもともと優秀な人だ、ということがわかっているけれど、「この教育」がさらに広がるためには、その伝わった先の人たちが広げる担い手にならなければならない。

 というとき、どうも「この教育」の世界が居心地がいいものだから、その「外」へ一歩踏み出すのが億劫になる、という現象もあるように思います。

 わたしなどはどんなに侮辱されようと疑いの目を向けられようと、「外」へ普及することを担ってきたのですが。
(だから精神的には満身創痍なのですが)


 「この教育」の恩恵に浴したひとは、「この教育」のお化けのような効果を確信をもって話す人になっていただかないといけない。それは別に宗教でも迷信でもない。でないと次の人を幸せにはできません。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp