「権限と責任」という言葉の使われ方について。


 承認とかコーチングを導入するとき、「ええかっこしい」で「ボトムアップでなければならない」と思ってしまうリーダーは多いです。


 そういう方がよく発するのが「権限と責任」という言葉です。

 意味は、要するに「その件は担当に任せてます。私は知りません」ということです(笑)

 トップダウンの判断はしません、ということです。


 
 あまりにもそういう場面でこの言葉が利用(わるくいえば悪用)されるのをみてきて、わたしは「権限と責任」という言葉はべつの解釈をしたほうがいいのではないか?と思うようになりました。


 つまり、担当がこういうことについて判断能力がない、どうこうする権限もない、ということを「判断」するのはその上司またはもっと上層部の責任です。

(本来、「承認」なんかは組織の倫理レベルをどうするか、というトップダウンマターの問題だと思う。その大きな判断に基づいて研修が設計されターゲット階層なども設定されるのが正しい)

(「判断能力がない」ということの中には、例えば担当者が発達障害気味で抽象的な大きなことについての思考能力がない、あるいは現場への想像力がない、ということまで上位者が見極める、ということを含む。ちゃんとしてる一部の担当者さんには申し訳ないけれど現実に非常に多い。思考能力や想像力のなさは「本人が頑張れば何とかなる」と上位者は思っているのだが、それは大間違いなのだ)

 したがって、「権限と責任」ということでいえば、「担当に任せる」という判断自体が、自分の権限と責任を放棄することであり、ドラッカーさんの教えに反することになります。



 ああ変な頭でっかちのドラッカー信者のせいで苦労する。
 (本当は、彼らは多分信者でもなんでもなく、ただ自分の無責任がばれたくないためにええかっこしいで引用しただけなのだ。無責任だがIQと地位だけは高い人間はそういうことを言う)


 この記事はいつもの伝で「ふと考えたこと」の備忘録です。
 今後、わたしに対してこの「権限と責任」を変な使い方で使う人が出てこないように願っています。


 今年起きたこととは関係ありませんので、くれぐれも邪推されませんように。去年なんか今年よりはるかに悲劇的なことが起こったしそこの経営層の人が何人目かの「権限と責任おじさん」だったんだ。



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