珍しく大学生の子供が「家に物を取りに戻る」とメールしてきたのでその時間外出することにした。


 わたしが死ぬのを待っている人々がいる。このブログは彼ら彼女らにとって安否確認のツールである。

 安否確認とは、わたしの身を案じているわけではない。

 「まだ自宅が老いた母親の腐乱死体の臭いで満ち満ちていないな」と確認する。「葬式の出費はまだ要らないのだな」と。

 そういう使い方をしている人もいるのだ。

 できればそういう使い方の人たちにこのブログを読めなくしたいのに。


 わたしの側は彼ら彼女らの消息をまったく知らない。


 「心の理論」のない人にとっては、「自分が知っていることを相手は知らない」ことがわからないのだ。サリーとアンの課題。



 そしてわたしのほうも、積極的に知ろうとは思わない。どうせ「知りたい」と働きかければ不愉快な「ゲーム」の題材にされるだけだから。関心を持たないで過ごすほうが穏やかな心でいられる。
たまにひとに問われて困るぐらいで、知らなくてもさほど不自由はない。


 わたしの人生を通り過ぎた不愉快な若い人々、だった。わたしとは価値観を共有しない、こころの荒廃の典型のような人びと。もう教育をできる時期もとうに終わった。

 たぶん、「邪教」にたぶらかされたのだ。感謝をすると自分の隠してきた負い目があらわになる、と危機感をもった人による。


 感謝のない人とは、関わりたくない。

そしてひとを失うことなどもう怖くない。