4本ほど前の「自己啓発セミナー、自己啓発本」についての記事の中で、昔特ダネ記者だった話を書いた。


「広島のハタケヤマ、独自!!」

 東京のデスクが叫ぶ、電話口で。


 これも以前書いたことがあるけど、わたしの姿形を目の前にみていない人のほうが公正(fair)である。仕事をした結果とかプロセスをその通り受け取って「認めて」くれる。そしてわたしを目の前にみた人は…、


 電話で話していると普通にちゃんとした人なのに、対面で会って話すとイヤな人になっちゃう人多いなあ。
 

 容姿にそうとう問題のある人みたいだ、正田は。


 だから、「研修担当者Nさん」が長時間にわたり「サシ」でお話をしていて、一度も態度が崩れなかったのは驚異的でした。
 かれは担当者として「研修のなかでの正田」を正確にみて、そして歪曲なく正確に語りつづけてくれました。評価してくれました。


 これもなんというか、「不毛な押し問答」をして最後には頭を抱えているときの正田と、研修講師としての正田は当然キャラが違います。


 たぶんですが正田の研修に来てニコニコして語る講師の「正田先生」をまぢかにみた人は幸せな気持ちになっていると思います。またその後実際の「行動」までとり、それによってますます幸せになっていると思います。




 一方で「不毛な押し問答」の一方の当事者になった人は―、

 その後一生、正田のことを「優れた研修講師」と認識することはできないのでしょうね…、
そういうのは「選択バイアス」といいます。自分の選択は正しいと思いたい一心で、すべての反証から目を背ける。

 かわいそうだな。
 
 というのと、

 じゃあこの人はこれからの人生でずうっと「正しいこと」に目を背け続けるのだろうか、それはどんな人生になるのだろう、

 と索漠とした気持ちになる。


 先月、正田に失礼なことを色々言った人がいて、その人はその後も「間違ったことは言ってない」と意固地になって凝り固まってしまっているのだときいた。

 あたまが凝り固まって事実は何かということにも意識を向けられなくなっているときというのは、身体はどんな状態になってしまっていることだろう。


 たぶん、ほかの色んなことに対しても心と身体が開かれていない、部分的な認識しかできない状態になってしまっているのではないだろうか。


 過去に正田とトラブルを起こして物別れになった人と何かの拍子に鉢合わせすると、とても強張った、心を閉ざした表情になってしまっていることに気づく。いやわたしと会ったからじゃなくて、先方はわたしに気づいてないことも多い。


あー。
あとでひょっとしたら、と思った。
正田を面談室とかで間近にみた男性は、
「自分の話をきいてほしい」
と思っちゃうのかもしれない。
「そうですよねえうんうん、なるほど〜、おっしゃるとおり、お気持ちはよくわかります、それからどうされたのですか?」
って、共感的な口調とか表情で言ってほしいと思うのかもしれない。

そうしないから怒りが出ちゃうのかもしれない。

でもそれは有料のお客さんにしかしないですよ。

当方が言いたいことがある、要望したいことがある、
だからあえてアポをとって面談に足を運んだ。
あなたの話をお聴きするために行ったわけではない。
そして、先方が当方の知見により間違ったことを言われたらやっぱり反論する。
また、当方が「あれもしてきた、これもしてきた」と言って大量の資料も出しているのに
「何もしていない、よそと何も違いはない」
と言われたら、
いくら「否定してはいない」と言ってもそれは否定でしょう。
「ああ、正田さんはあれもしてこられたのですね、
これもしてこられたのですね」
と「行動承認」の形で話し、それを前提として次の議論をする、
それが「否定していない」ということだ。


その「行動承認」の部分がないから「不毛だ」と感じるんだな。

やれやれ、
「わたしの作る世界を拡げることはなんと難しいのでしょう」。

でもやっぱり「行動承認」決定的に大事ですね。


ヘイトスピーチ・・・。
わたしに何かできる余地ない。
社会に「テストステロン―ドーパミン連合」が溢れている。
女性に対する態度も、そうなんじゃないだろうか。


そして、これだけ「やってる」人に
「あれをしてない、これをしてない」(事実として、「やってる」ことまで含めて)
という人は、
たぶんそれも「依存」なのだ。
こんなに「やる」人なのだから、本人に何もかもやってもらえればいい、
と「過剰期待」をするという。
とっくに1人の人間ができることの限界を超えているのに。
みんなそんな人ばかりだ、珍しくはない。



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