きのうの記事の中で1つ「誤報」がありまして、
「一般財団法人承認マネジメント協会」の設立時理事・評議員・監事7名の内訳が

 「武術経験者2名」⇒「3名」に今は直っています。(注:その後また「2名」に修正)


 記事を書いてから急に不安になり、神戸大学の坂井先生にメールでお問い合わせしました。

「ひょっとして。とお訊ねしますが
武術経験者でいらしたりしないでしょうか?」


 するとなんと、

「実は武道家です。柔道3段です(小学校から大学1年までやってました。卒業後もたま〜に)。」

と坂井先生からご返信。

 えええ〜、でしたね。(^o^) ああ訊いてみて良かった。





 坂井先生はわたしのなんこか下のかたですがすっごい細身で中背で、いかつい武道家体格ではありません。目つきがするどいわけでもなく身のこなしもいかにもそれっぽい感じは全然出されてないんですが、

 ただ微妙に、「端然と」というのか、表現がむずかしいんですが身体の動きや眼の動きがむだがない感じとか座ったときの姿勢が収まりのいい感じがありました。

 お話される内容とか口調に「マウンティング」は微塵もなく。


 合気道とかが「あり」かな、と思ったんですけどね。

 というわけで男性4名のうち3名が武術経験者、ということになります。偏った団体だ。募集条件がおかしいんだと思います。


 Nさんが「すごい筋肉質の組織だ」と言われていましたがあたし以外の人は確かにそうですね。


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 今日は久しぶりに神戸ベンチャー研究会の第169回例会に行ってみました。

 これはもう1人の理事、松本茂樹先生のもう10年以上主宰されている会です。


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 また、恩師のことを考えました。

 わたしが中嶋嶺雄先生に師事したのは1986-88年、先生の49-51歳のときにあたります。

 その後先生は59歳で東京外大の学長になられ、65歳で退官。

 わたしが師事していた当時から、「大学改革」の急先鋒の論客でした。「二学部制にせよ。(語学の学部だけでなく)国際関係学部をつくれ」というのが先生の主張。また大学の府中への移転も。


 大学移転は先生の学長任期終盤に実現し(2000年)、学部新設(外国語学部を「言語文化学部」と「国際社会学部」に改組)はそのはるか後の2012年にやっと実現。



 それを経て、先生は2004年、秋田に「理想の人材育成」をするため国際教養大学を新設されトップダウン体制を実現します。先生の67歳のときでした。


 
 また思います。学内政治などに疎く興味もなかった学生時代のわたしでしたが、先生は師事していた当時、たぶん四面楚歌とまではいかなくても、学内の半数以上は敵だったのだろうと。


 そのなかでゼミは学内一ハードだと言われるのにもめげず学生たちが集まってきて、夏には先生のふるさと松本に合宿に行き、2年に1回は欧州旅行に行き、OBたちも含め代々続く学生たちとの密な交流がありました。


 ゼミはシンポジウムなどの雑用も多く、そして発表は先生の厳しいツッコミにおびえ(とりわけ同じ中国専攻のわたしはおびえていた。しかし2年間でいちどもツッコまれなかった。このブログにはよく厳しい上司風の人が出てきますが先生がそうだったわけではなくわたしの頭が作り出したフレディみたいな幻想です)



 うーんなんか考えがまとまらないなあ。





 2年前、先生の訃報を受けてOBが東京で急遽集まったとき、ある女性の先輩が言われたのが、

「先生は私の永遠の恋人でした(正確にこういう表現だったのかどうか、おぼえていない。大体こういう感じの言葉)」

 そうだなあ、わたしも今もこうして訃報がトラウマであり続けているしこのブログでも、「ご期待に応えられず申し訳ありませんでした」と泣きながら手紙を書いたこと、学長室から出版のお祝いのお電話をいただいたこと、離れて生きていてもものすごく感情を揺り動かすエピソードとして残っている。



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 ピケティ。
 素人には論証のプロセスを知るよしもない。
 でも結論部分は「当たり前じゃん、これ」って思う(こらこら)似たものをみたことがある。

 
 そして結局「わたしのできることをやり続けるしかない」と思う。

 あるべき姿を実現するのに、お金の措置を除いたら「これ」が一番近道なのではないか。だれかがそれを担いつづけるしかない。

 それはこの仕事に入ってから繰り返し問い直し同じところに落ち着く。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp