神戸、今朝も抜けるような青空。

 わたしは「1人でも多くの人が幸せであってほしい、いい人生を送ってほしい」と願っている。

 あくまでその立場から、最近また「不毛だ」と感じたことを書きますね。

 ここ2日間でもたとえばわたしを「正田さんという女性」という言い方をして「女性じゃありません人です」みたいに突っつかれ「失礼じゃないか!」と怒りだしたり、類似の不毛なやりとりがあり、

 そういう方のことは多分今後スルーするしかないのだろう、と思う。

 ただまたそういう方について気がつくのは、

 会話の中でわたしのブログに登場した言葉を使ったりするのだ、その方が。

 例えば最近でいえば「スタンダード」とか「地動説」とか「プラットフォーム」とかね。


 たぶん、これはわたしの想像だけれどずっと以前から薄々感じていることで、

 こういう方はわたしのブログの愛読者なのだ、実は。
 PCかスマホか知らないが毎日、気になって読み、反発をおぼえながらもこのブログの独自の見聞や発見や思索を無意識に学習してとりこんでいたりする。それでちょっと「得した」と思ったりしている。

 こんなに無料で情報量が多く、情報の質の高い読み物も本当はないんです。天下国家とかそういう大きなところは論じないですけどね。
 日常的な事柄について、新しいものの考え方のフレームワークを日常的に提供している、と思います。

 多分、特ダネ記者体質の正田の書くものをずっと読んでいたら、その人自身も発見が毎日多くなると思う。
 また論理的で問題解決能力の高い正田の書くものをずっと読んでいたら、その人自身も問題解決能力が高くなると思う。

 ごめんなさいね、傲慢なもの言いをして。


 でも本当、もう何年も出会う先の社会的地位の高いおじさまに対して感じてきた。
 「この人、無意識にあたしのブログで使った言葉や考え方を使っている」と。

 その話は先般の凄腕担当者Nさんとの対話でも出て来て、Nさんは「あるでしょうね」と同意されていた。

 (Nさんは125kgの巨漢で柔道三段者だけれど一方で非常に心の柔らかい、体内感覚を言語化する能力の高い人で、かれによると「正田先生のブログは毎日怖いものみたさでみる。『怖い怖い』と思って、人との葛藤があると一度閉じてしまうけれどまたもう一度開いてみる」ということだった)

 
 (そしてまたNさんによると、「正田先生のブログを読んでいると僕も以前よりものすごくものを考えるようになったし、考えたことを伝えるようになった」とも言われていた。こういうことをそれも男性で素直に言う人は確かに珍しいが、多分その通りなのだと思う)


 ・・・そして、思うのが「わたしのブログの本当は愛読者なのに反感をもって侮って、わたしに上から口調とかひどい態度をとる」というような、ねじくれた態度は、決してその人の人生のために良くない、ということ。


 本当はみなさんNさんのように「あなたのブログを愛読しています。うなずくところが多いです。あなたのブログのファンです」と言ったほうが、自分自身の中に一本合理的な筋が通るのではないか。


 生きているポジションは違っても、わたしはわたしの置かれているポジションで出来ることを精一杯やっている。それはこのブログを読めばおわかりになるし人として通じるものはあるはずだと思う。
 そのことにことさら目を背けていると、その人の人生は間違ってしまうと思う。ほかの正しいものにも心開かれなくなる。可哀想なことだと本気で思う。


 「汝の敵を愛せよ」なんていう高級なことを言うつもりもないですが―、

 以前こちらのブログの末尾部分に書いたこと

◇気づきにみちた日常を生きる―受講生様の幸福を祈って―『マインドフルネス 気づきの瞑想』
http://livedoor.blogcms.jp/blog/officesherpa/article/edit

 ここに、「敵を慈しむ」ということに関して、 「当分この境地にはたどり着けないであろうけれど、いつかあるかもしれない到達点として、書いておきました」なんてことをわたしは書いていますが、最近ちょっと部分的にそこに近づいたかな?と思いました。

 「可哀想。どうか間違わないで」と思うことが多い。

 わたしの大切な友人たちは、どうか「正田先生のブログの愛読者です」とさらっと言える人であってほしい。

 これも不遜ですけどねえ。



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