突然「ヘーゲル」を読みだしました。本来「承認」を語るのにヘーゲル避けて通れない、はずですがこれまでちょっと食わず嫌いしてきました。

 
 アカデミズム界にも静かなヘーゲルブーム、またそちら側からの「承認」ブームというのがあるようです。資本主義の再構築、という観点からも意義のあることでしょう。


 というわけで原典(邦訳書)と入門書解説書、とりまぜて少しずつ読んでいきたいと思います。

 まずは『法の哲学II』(中公クラシックス、Kindle版)。ヘーゲル51歳のほぼ完成期の著作。「承認論」はこれより前、30代のイエナ大講師のときに出て来たもので、この著作では比較的「さらっ」と触れられています。


 やっぱり言葉がむずかしいんですが(よくこんなに抽象に次ぐ抽象でものを考えられるものだ;;)、重要と思われるところを抜き書きしながら、例によって自分の感慨(ぼやき)を挿入していきます。


※なおこのブログの「引用」機能を使うとバックがグレーで読みにくくなるので、引用部分を太字表示にするという形式にしたいと思います


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 §185

 〔社会の緊急状態の調節者としての国家〕特殊性はそれだけでは、放埓で限度のないものであり、この放埓な享楽の諸形式そのものに限度がない。人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものではないから、人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し、これを悪無限的に追いつづける。ところが他方、欠乏や窮乏も同じく限度のないものである。この放埓な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。


 いきなり、きたきた、という感じです。
 緊急状態の調節者としての国家。(実はヘーゲル時代のドイツは統一ドイツなどというサイズのものはなく、零細国家に細分化されていたので、ヘーゲルがイメージした国家とは今の日本でいうとどのぐらいの単位のものかというと…、)

 要は、ほっておくと際限なく「弱肉強食」になり「格差社会」になりそうなとき、あるいは「悪貨良貨を駆逐する」になりそうなとき、行政が調節者になることは正しいわけです。


 えっ、我田引水すぎますって?でも教育において「弱肉強食」「悪貨良貨」という事態が起きることは、常識人になら想像がつくことじゃないですか。四字熟語多すぎますか。
 もう少しここを詳しくいうと、大人向けの教育について「ネタ」として取り上げる傾向が強まった、と感じています。極端なもの、「えっそんなものが」と目を引くようなものがメディアに載る、スタンダード/王道は顧みられない。しかし、実際の効果を上げるのはスタンダード/王道のほうなんですけどね、「ネタ」的加工をすればするほど、現実世界を幸せにする力は失われますね。どんどん平気で脇道にそれている。それを本筋に戻すのはもう見識あるところが英断でやるしかないでしょう。

 

 これに続く文章ではこんなことも言います。


 プラトンの国家は特殊性を排除しようとしたが、それはなんの役にも立たない。というのはこうした救助策は、特殊性を解き放って自由にするという理念の無限の権利と矛盾するであろうからである。
 キリスト教においては、とりわけ主体性の権利が対自存在の無限性と同じように芽を出した。しかし主体性の権利が芽を出した場合には、全体性はそれと同時に、特殊性を倫理的一体性と調和させる強さを手に入れなくてはならない。



 ここ1−2週間のうちにわたしは「公正(fairness)」と「平等(equality)」の違い、ということも女だてらに言ったのですが、ひょっとしてそれに近いことを言ってくれてるでしょうか。


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「欲求」について。のちのマズロー「五段階欲求説」に発展するような欲求の多様性についての視点があります。

§190


 動物の欲求は制限されており、それを満足させる手段および方法の範囲も、同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する。

・・・

 人間には、住居と衣服に対する欲求があり、また食物をもはや生のままにしておかないで、適当に調理し、その自然的直接性をこわさなければならない必然性がある。こうした欲求と必然性からして、人間は動物のように安閑と暮らすわけにはゆかず、精神としても安閑とかまえていることはyるされない。

・・・

 こうしてついに、満たされなければならないものは、もはや必要ではなくて意見ということになる。そして具体的なものをもろもろの特殊的な面に分割することこそ、まさに文化の一面なのである。欲求が多様化されると、とりもなおさず、むきな欲望は抑えられる。というのは、人間が多くの物を使用するときは、これだけはどうしても必要だというような何か一つのものに対する切望はさほど強くないからである。そしてこのことは、窮乏の度が総じてそれほど激しくないという証拠である。


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 そしていよいよ「承認」が出てきます。

§192

 欲求と手段とは、実在的現存在としては他人に対する存在となる。欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており、この制約は自他において相互的であるからである。欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた、諸個人の間の相互的関係の一規定にもなる。承認されているという意味でのこの普遍性が、個別化され抽象化された欲求と手段と満足の方法を、社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである。

 いかがでしょうか。

 個人と個人は欲求を満たしあうことで社会的関係をつくる。「承認する」ということの相互性。

 「当たり前のことを言っている」と思われますか?

 もしあなたが、拙著『行動承認』を読んだ方でいらっしゃるなら、第2章の

「わたしたちは『承認されないと満たされない』心に少しずつ穴の空いた存在です。満たす側になれますか?」

というくだりも想起していただけるかもしれません。

 あれはたぶんヘーゲル的世界では思考として当たり前のこと、しかし「コーチング」をはじめとする心理学の世界では当たり前ではありませんでした。

 というのは、心理学業界というのは、「コーチング」を含め、基本的に個人契約で専門家と個人が契約し、専門家がプロの仕事で個人の思いを受け止めることでご商売が成立してきました。

 また、リーダー研修にもある心理学系のセミナーというものも、現実社会のアンチテーゼ的に個人の自由自発性ということに奇妙に力点が置かれ、そこでは個人が戻った先の現実社会での相互関係ということは捨象した形で個人がねんごろに扱われました。「ご商売だから」とわたしなどはみていましたが、そこではとんでもないロジックの不備が入りこむすきがありました。


 そうした場や利害関係のもとでは、個人が教育を通じて進化して「与える側」になることで理想的な組織をつくる、なんてことは想定されていなかったんです。それができてしまうと専門家の仕事がなくなってしまうんです。だから教育のやり方が雑だった。

 だから、正田は特別高度なことをやっているわけではない。ただちょっと「コーチング」はじめ心理学業界の枠からはみだした思考をしただけです。それを生意気だ、なんて言わないでくださいね。

 ちなみに、某国際同業者団体を含むコーチングの世界では、「クライアントをいかに多数確保するか」がコーチ資格の基準となるので、「承認屋の正田」はある時期からその世界での資格ホルダーになることから降りてしまっています。「承認」習得によって、リーダーたちは多くの悩みから解放されてしまうので、わざわざパーソナルコーチングを受ける必要がないんです。儲からない仕事の仕方ですよね。


 これに続く『法の哲学』の文


 私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり、したがって他人の意見に従わざるをえない。しかし同時に私は、他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない。だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり、他人と繋がり合っているのであって、そのかぎりにおいて、すべて個人的に特殊的なものが社会的なものになるのである。


 これも当たり前のこと言ってますねー。心理学業界にどっぷり浸かっていると、すごく利他的なことを言っているようにみえると思います。あと某高齢者世代の方にとっても常識ではないかもしれません…


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 ほんとは、もっと引用したいんですが今日はこのへんで。

 この後はヘーゲル30代のイエナ大学時代の「承認をめぐる闘争」のあたりの思考をフォローしたいと思います。
 ちなみにヘーゲルが結婚したのは41歳だったそうですが、その前の30代はどんな青春だったんでしょうね…恋愛関係と「承認」に関する思索は関連しそうな気がしますけれど、そういう個人的なことは書きたがらないですね。
 あとヘーゲルってジャーナリストだった時期があるんですね。正田もときどき「罪刑法定主義」なんてことを書きますけれど、「罪と罰」についての思考トレーニングに役立ったことでしょう。

 
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 さて、正田が急にヘーゲル読みになったのは、なにも衒学趣味にはしって大所高所から語る偉そうな研修講師をやりたいわけではないんです。

 ただ自分でも以前から「修正資本主義」的なことをやっている、という自覚は薄々ありました。それは最終的に経営者、管理者にとって容易に行動できる教育プログラムでなければならないことに変わりはないのですけれど、あまりにも急激な(過激な、ではない)変化を起こす教育をやっているだけに、そのことの歴史的意味を知っておきたくなった、という感じです。

 なにも、研修や某高齢者世代との論争のなかで「ヘーゲルカード」を持ち出したからといって相手がひれ伏してくれるなんてことはないと思います。ただ自分が知っておきたいのです。


拙著『行動承認』を読まれた方で、もしそこに載っている参考文献を辿ってくださった方なら、それら1つ1つについて膨大な冗長な読書日記がアップされていることに気づいていただけるでしょう。本文中で「さらっ」と言っていることも、実はそれぞれの文献との大真面目な対話を通じて自分の血肉化した(と思っている)思索なのです。いずれ今の読書がそのように結実してお客様のお役にも立てることを願います。
ーただわたしの性格上、「まず文献と思索ありき」から今のリーダー教育というおこがましい仕事に入ることは恐らくなかっただろう。今のタイミングだということも恐らく必然なのだろうー


 2012年から13年ぐらいまで陽明学の学びの場に通いましたので、今度はヘーゲルもいいんじゃないでしょうか。


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 モーゼを扱った映画「エクソダス―神と王」をみました。
 これも格差社会を描いた映画、のように見えてしまいます。
 スペクタクルだったけれどそれ以上の感想は湧きません。カエルやらイナゴやら、CGなら出来るんだと思いますがリドリー・スコット監督ご苦労さま、という感じです。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会

 せっかくなのでこのほか『法の哲学II』からおもしろかったところを抜き書きしておきましょう。

 「農業従事者と商工業者の人格の違い」みたいなことに触れた箇所があります。前者は従属的で、後者はより自由の感覚をもっている、とヘーゲルはいいます。


§204

 〔商工業と自由の感覚〕商工業身分に属する個人はおのれを頼りとしているが、この自負は、法的状態に対する要求と最も密接につながっている。だから自由と秩序に対する感覚は主として都市で芽を出したのである。
 第一身分はこれに反して、ほとんど自分で考えるということをする必要がない。この身分が手に入れるものは、自然という他者の贈り物であるからである。自然への従属感がこの身分にあっては第一のものであり、この感情ととかく結びつきやすいのがまた、どうされようとそれを堪え忍ぶという他人への従属感である。だから第一身分はより多く屈従への傾向をもち、第二身分はより多く自由への傾向をもっている。



 感覚的には、わかりますよね…。

 ヘーゲルは学者ですから、当然「自由への傾向」をもった人に肩入れしやすかったと思われます。
 『法の哲学』はほんとうは『自由の哲学』と訳したほうがいいのだ、とあるネット記事にはありました。英語のrightに当たるドイツ語なのだそうな。
 「自由」という語、使うとややこしくなるからできればスルーしたい…。

 19世紀前半のこの時代の人にとって「自由」は啓蒙思想、啓蒙革命の流れで理解されたのだろう。

 21世紀日本では、「自由」は悪しき拡大解釈をされやすい、例えばスマホ全盛時代であると、19世紀の人が高次の「自由」の前提として想定したような「教養」が存在しない。いつまでも低次の「自由」になってしまう。


 ところで、学者が見落としやすい「自由でない人たち」。流動性の低い人たちと言い換えてもいい。
 前回のギリシャ危機のころ、「EUはなぜ失敗したのか」の議論の中で岩井克人氏がネット記事で言っていたことがわたしにはひどく説得力があった。
 「EU発祥の思想では、学者たちが『流動性の低い不易の人々』のことを見落としていた。流動性がもっと高くなると見込んでいた」
と。大いにあり得る、とわたしはうなずいたのでした。

 そして日本には、ヨーロッパ以上に「土地への愛着」の強い人が多い。



§115

〔法についての社会一般の知識〕法律について特殊な知識をもっている法律家身分は、しばしばこれを自分たちの独占と考え、玄人でない者は口を出すなという。物理学者たちもそうであって、彼らはゲーテが専門家仲間でなかったうえに、詩人であったという理由で、ゲーテの色彩論に気を悪くs田。しかしだれでも自分に靴が合うかどうかを知るために靴工である必要がないように、社会一般の関心の関心の対象であることがらについて知識をもつためには、専門家仲間に属する必要など、さらさらないのである。


 うん、法律の専門家のかたは、たとえば「本人訴訟」をイヤがりますね、日本でも。本人訴訟する素人に不利な判決になることが多いようです。判事も専門家が出て来たほうになびいちゃう。


 正田は心理学についても経営学についても専門家でないのにマネジメントを教える仕事をしていて、それいいのか?というツッコミもあり得るでしょう。決して専門のディシプリンを過小評価するつもりもありません。
 ただ現実に、例えば心理学の特定の研究室に属していたら今のフレームワークは生まれなかっただろうし、脳科学遺伝子学神経経済学まで援用したコンテンツをつくれなかったろう、それは過去に科学ジャーナリストだった経験をちょっと「悪用」しているかもしれない。

 恩師は「学際的(interdiscipline)」ということを言っていた人でしたがそれは言い訳になるのかどうか…。