ひきつづき、「ヘーゲル承認論」について入門書、解説書研究書、と読んでいます。

 とにかく言葉がむずかしいです。ヘーゲル自身言葉の定義を厳密にする人ではなかったようで、あたしそういう勝手なルールで引っ張る人すきじゃないんです、公明正大なのがすきなんですが。
 なので「超訳本」のようなものにも頼らざるを得ないです。


 いきなりお詫びしないといけないのは、承認はヘーゲルのオリジナルだったわけではないらしい、ということです。この当時の「ドイツ観念論」の中で流行りのような概念だったようです。

 だから、「世界初」と持ち上げると間違ったことになっちゃう。すみません。

 なお、「ドイツ観念論」は「観念」とついてると妄想的に抽象的なことばかり考えてる人たちなんだろうか、というとこの人たちが今の日本の法体系の基礎をつくったと思っていいでしょう。ドイツ法ですもんね、日本は。
 あとヘーゲルの左寄りの解釈をしたのがマルクスなので、ヘーゲルとマルクスは一味だ、ヘーゲルは共産主義者だ、と思うとそれは間違いです。ヘーゲルは左寄りにも右寄りにも解釈できる余地があり、ヘーゲル承認論を「資産分配」の問題として曲解したのがマルクスなようです。たぶんマルクスはストレングスファインダー「公平性」か「規律性」の人だったんだろうなあ。



 ドイツ観念論においてヘーゲルに先立って承認の問題を扱ったのはフィヒテである。ところで、フィヒテが他者の問題や相互人格性の問題に着目するようになったのは、カントにおける人格の共同の思想によって啓発されたためである。また、シェリングも一時期フィヒテの影響のもとに承認について論じており、ヘーゲルはこれを念頭においていたとも考えられる。このようにして承認の問題は、ドイツ観念論全体に伏在しこれを貫流する基本テーマである。ヘーゲルはこのテーマを明るみに出し、展開させたといえよう。(『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』高田純、未来社、1994年、p.304)

 
 だそうです。ああこの人の文読みやすくて助かる。あ、これは超訳本じゃなくて研究書です。

 ドイツ観念論って何?というと、もうWikiでみてください、というかんじですが、

 要は、「承認論」に何人かの「お兄さん格」がいて、お互い切磋琢磨してというかカイゼンをしていたらしい。ヘーゲルはその中で後世に最も有名になった存在みたいです。

 上の文の中に出てくる人の生没年を挙げると

カント(1724-1804)
シェリング(1775-1854)
フィヒテ(1762-1814)
ヘーゲル(1770-1831)

 そうですか、シェリングのほうがヘーゲルより5歳年下だったりしますね。親しかったかどうか知らないけれどシェリングが何か発表するとヘーゲルが「なにを!」と思っていた可能性はありますね。

 なので「承認論」が出てきたのはヘーゲル30代のときでありますが個人史的に何かあったというよりは、同時代の人との切磋琢磨でもまれてきた、結構対抗意識マンマンだったかもね、というかんじです。

 そして主な先輩格としてフィヒテがいたと思っていいようです。


 本書の記述にしたがい、それぞれの人の主張を短く言うなら…。

カント:道徳的共同体
フィヒテ:自由の相互制限
シェリング:自己の自由を制限するのは自我
ヘーゲル:部分的自己否定による他者肯定。家族から経済、国家へ承認の及ぶ範囲を広げる


 これだけでは当然わからないので、もう少し詳しくみてみましょう。
 
 フィヒテは『学者の使命』で、自我と他我との関係を「概念にしたがった相互作用」「合目的的共同(相互性)(ゲマインシャフト)」ととらえているが、これはカントの道徳的共同体(「目的の国」)を念頭においたものである。したがって、フィヒテの承認論はカントに連なる面をもつ。カントがいう道徳的共同体は、もろもろの人格が共同の道徳法則にしたがって結合することによって設立され、そこでは、もろもろの人格は相互に「目的自体」として尊重しあう。カントは人格としての相互承認を道徳関係の基本においているといえる。(同上 p.306)

 フィヒテは、カントが人格的共同の問題を正面から扱っていないことには不満であった。
(中略)
 (フィヒテにおいては)他我が自我を承認するのは、自我もまた他我を承認するばあいである。このように、承認は自我と他我とのあいだで相互的におこなわれる。(同上 pp.306-309)



 ・・・と、フィヒテは「自我と他我の承認関係」を「自由の相互制限」とし、その関係を「法」だと言った、ようです。


 ここでわたしは、はるか以前、2007年に自分が「人と人との関係は風船プールのようなものだ」と書いたことを思い出しました。
http://c-c-a.blog.jp/archives/51071914.html#more

 意外とわたしって、ドイツ観念論的な人だったかも。こらこらうぬぼれるな

「自由の相互制限」についてはヘーゲルはフィヒテにあとで盾ついているようですが、個人的には共感するものがあります。
 この「風船プール」の文章も、どういう背景があって書かれたか考えてみると、心理学系のセミナーに行ってそこの論法により自我がブワーっと拡張した感じの人をみたときに、「これじゃ自分個人は満足でもはた迷惑だわ、社会はこれの集積じゃうまくいかんわ」と思って書いた記憶があります。

 心理学系セミナーはそのように、人々を甘やかしおかしくさせる要素があり、だから「承認研修」以外の心理学系セミナーを受けたことありますよ、なんてのは何の自慢にもならないんです。


 うーん、あたしも何百時間もそういうセミナー受けてきてますから既に相当おかしな人間ではありますけどね(もし「心理学系セミナーを受けたから、自分はえらい」という論法の人がいたとしたら、その人より100倍あたしの方がえらくなっちゃうんですけどね、だからそういう論法はやめときましょうね)。小学生の頃から論語荘子唐詩漢詩史記といった漢籍、それに啓蒙思想やら(これは漫画の影響かも)読む宙二病な小学生でしたから、心理学に対してかなり免疫ができていた可能性はあるんですね。「その論法おかしいやろ」とつねに批判思考が起こりましたね。

 そういうほうの貯金が子どものころから「ない」人は、大人になって心理学に出会うと「かぶれる」かもしれません。甘やかしてくれますからね、心理学は。「きもちいい」ですからね、はしたないけれどドーパミンが出ますから性欲が亢進した状態と一緒ですからね。その代わり倫理的におかしくなっても知りませんよ。


 フィヒテにおいては、まず他我がその自由の自己制限によって自我を承認するといわれたが(正田注:それはフィヒテ先生ちょっと「虫のいい」考え方じゃございません?)シェリングにおいては、まず自分の活動を制限するのは他我ではなく自我である。(同上 p.311)


 だそうです。ここはちょっとシェリング先生に共感しますね。「与える側になれますか?」のあたしとしては。


 さて、いよいよ、じゃあそれに対してヘーゲル先生ははどう考えていたか、というお話です。


 ヘーゲルにおいては、自己の否定はその自由の部分的制限と同一ではない。自己の否定は自己の肯定に転化される。ヘーゲルによれば、承認の弁証法的構造は、「個人が他人のなかで自分を自立的なものとして直観する」ことにあるが、これが実現されるためには、個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない。個人は他人のなかで自分の個別的あり方を否定することによって、普遍的なものとして肯定される。また、個人が利己的であるかぎり、他人と対立しており、他人の否定によって自分を肯定しようとするが、個人が普遍的なものに高まるときには、他人を肯定する。このように、他人における個人の自己否定をつうじて他人における自己肯定がえられるのである。このように、承認は自分にたいする肯定的かつ否定的な二重の関係を含むと同時に、他人にたいする二重の関係を含む。


 めっちゃ抽象的な文章で、なんか例示してよ、という気分になりますが。
 「個人はその利己的、排他的あり方を克服しなければならない」
 これは、思春期〜青年期から中年期にかけての個人のこころの成熟の推移を思うと、なんとなく理解できる気がします。
 わたしたちは他人を否定することによって自分を肯定する心理、って残念ながらあります。わたし個人についていうと思春期、青年期はもとより30代ぐらいまでそういうのが残っていた気がします。倫理的に悪い他人を考えることによって善であろうとする自分を肯定する、みたいな。
 でも今、メディアで誰かの「悪」を好んでほじくり返すのをみていると、わたしだけじゃないんだなと思いますが、むしろ生涯長きにわたって他人を軽蔑することでやっと自分を肯定できる、ゼロサムの人が多いんじゃないかと思いますが。
 そういう相対関係の中で自分を肯定する、という段階を脱して「他人を肯定する」ことと「自分を肯定する」ということが無理なく両立するようになったのは30代後半以降だった気がします。

 そして、リーダーたちは「承認」実践者になることを通じて、自分のナルシシズムを程よく抑制できるようになる、ということはこのブログで繰り返し言っています。「他人はすごい」と感じたり言ったりすることは「オレ1人がすごい」という唯我独尊を抑制することになるんです。もともと攻撃的でナルシスティックなリーダーたちへの教育として大事な要素であろうと思います。




 ヘーゲルでは「家族愛」と「承認」をリンクしてとらえているのが大きな特徴のようです。そこから、経済、国家に「承認」の範囲を広げていきます。法思想の中核に「承認」の概念があります。


 フィヒテにおいては自我と他我が対立的なものと理解されるために、自我と他我との相互承認も、自由の相互制限という消極的なものとみなされる。
(中略)
 フィヒテにおいては法が承認関係と特徴づけられているが、その妥当範囲は限定されている。
(中略)
 これに対して、ヘーゲルはより広く承認の実現を家族、経済社会(市民社会)、国家に求める。法的承認が形式的、外的であるのに対して、家族、経済、国家においては実質的承認が実現されることをヘーゲルは重視する。ヘーゲルにおいては、承認は、たんに自他が自由を妨害せず、これを許容するという消極的なものにつきるのではなく、承認の根本は、自他が協力して生活を保障しあうことにある。
 後期ヘーゲルにおいては、法は、狭義の法、道徳、人倫(家族、市民社会、国家)を包括している。法のこれらの段階は形式的承認から実質的承認の高まりを含意している。
 


 いかがでしょうか。
 「家族」、わたしには過去のものとなりましたが、やはり大事でした。「承認」という概念とお付き合いして10数年、途中に迷いがなかったわけではないのですがそういう時、やはり「家族」という最小単位はわたしにとって「承認」で運営できる、実体のあるコミュニティであり、そこで生まれるダイナミズムは次の段階、企業体にも当てはめたくなるものでした(そしておおむねうまくいってきました)

 ほかの記事で触れたいと思いますが、ヘーゲルがいう「承認をめぐる闘争」、あるいは何かの事件があり被害と加害が存在するとき、被害とはなんぞや、と考えた時、それは個人(たとえば家族のメンバーのだれか)の「承認」がほかのだれかによって損なわれたときであり、それを回復することが正義、という道筋で単純に考えられました。子ども同士の喧嘩の仲裁も基本、その考え方でしていました。


 そういう実体験による検証がなかったら、わたしはこんなに長くひとつの概念に固執していられなかったでしょう。とりわけ実務での成功体験が少なかった時期には。


(繰り返しますが実績としては「12年1位」です)



 本書『承認と自由』は、この部分だけでなくやはり「家族と承認」「愛と承認」の記述も大変興味ぶかいので、もう何度か引用させていただきたいと思います。


100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp