このところまた「傾聴教」の人たちと接して違和感を感じたことを備忘録として書いておくと、

 この人たちは「ものに驚く」ということがない。

 人の話を聴いて、「ええっ」と飛び上がったり、「大変だ」と感じたり、「大変勉強になります」ということがない。


 ほんとうは、わたしたちは人の話を聴くなかで、自分の細胞が全部入れ替わるぐらいすごい体験をすることがあり得るのだ。


 以前にも書いた、「特ダネをとるコツは?」のひとつの答えが「ものに驚くこと」だということ。従来自分の知っていた知識経験の中に収まりきらない、従来の序列をくつがえしてしまうものに出会うことがある。そのとき、驚きを驚きとしてきちっと知覚できるか。ひょっとしたら不快体験かもしれないその感情をちゃんと受け入れ、そして次の段階の思考をできるか。

 まあ、これがちゃんとできる人は記者さんでもほとんどいないんですけどね。みなさん自分の「想定内」のことしか聴こうとしません。


 でも、「傾聴教」が具体的にどんな研修の仕方をしているのか知らないのだが、みていると彼ら彼女らは、驚いたほうがいいところで驚かない。
 「それはすごいことですね」
と言うべきところでそう言わない。


 以前にもどこぞで「傾聴研修」を受けてきたらしい高校の養護教諭の先生を怒鳴りつけたことがあった、

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこの『傾聴研修』でそれを習ってきたんですか!真剣な話のときは真剣な表情をしなさい!」

と怒鳴りつけたのだが


―その後結局この養護教諭の先生の見立てや筋読みは完全に誤りであったことがわかり、いじめ被害者の側であったわたしの子供は養護の先生の勧める自主退学を免れ卒業までこぎつけた。ほとんどの先生からみて「いい子」であり「守ってやるべき側」であった―

―「見立てる力」というものについては、すごく難しいが別の記事で触れたいと思う。全部で何が働いているのかわからない。わたし個人にとっては、記者経験、翻訳者経験や母親経験、あるいは幼少期からの読書経験いろんなものが役立っているが結果としては「12年1位」と、「業績向上の山」を築いている。このことはきちんと踏まえたうえで議論していただきたいものだと思う―


 いろんな体験を経て、「傾聴教」は、「他者への見下し」を教えているのではないか?と思う。

 カウンセラーさんから教わるばあい、実は先の養護教諭の先生のように援助職の人にも結構「邪悪」な心根の人がいるのだが、クライエントつまり話者を最初から見下しているばあいがある。

 とりわけカウンセラーでない一般社会人に「傾聴」をわざわざ教えにくる先生というのは、「傾聴」をできない一般人への見下しから入っているのではないだろうか。


 そしてとりわけ「クレーム対応のための傾聴テクニック」を教えたり学んだりするときそうなりやすい。表面的にほほえみ、表面的に共感しながら傾聴をすると、クレーマーは機嫌を直してこちらの言うことを聴いてくれる、みたいな。

 それは「人が人を『操作』することへの歪んだ期待」ともいえる。

 多いんだなあ、心理学を「いいものだ」という人の中に、その「操作したいという歪んだ期待」の人が。



 上記の高校の養護教諭の先生のように、そもそも「傾聴」をする側のスタンスが間違っている場合には、それはとんでもない「不敬」である。
 クレーマーがクレーマーでなく正義の側だったらどうするんだ、ということはそこではいつまでたっても考慮しない。(なのでわたしは緊急避難的に怒鳴りつけた)


―カウンセラーさんの仕事では、基本的に「内省を迫られる場面」というのはないのだ。
 ついでにいうと研修講師も内省のない人が多く、かれらの人格をかっこいいと思って真似すると内省のできない人ができてしまう―


 そして、「12年1位」のわたしは言ってしまうが、仕事というものは実績や事実に基づいて思考し、お客様のためを考え抜くのが仕事である。この基本から外れたら間違う。カウンセリングは、心を病んだときの緊急避難である。


 以前に「脳画像診断医との対話」の中での質疑、

「右脳だけを鍛えたらどうなりますか」
「簡単です。妄想的な人になります。何もやらない人になります」

というやりとりも、想起されたい。


 「行動に価値を置く」は、価値があるのである。



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