関東の某大学医学部付属病院のお話。
このブログではめったに時事問題を直接とりあげないんですが、ある意味「典型的」だと思うので…。
「承認教の正田」は、この事件はこうみる、というお話です。
問題の男性医師自身が悪いことは、論をまたないです。たぶんこのブログによく登場するある種の知性の偏り、
「セルフモニタリング能力低」
「ミスの認識力低」
「内省力低」
という問題です。
いっぽう、それを「10人死亡」になるまで放置してきた組織の問題については。
いくつかの要因があるでしょう。わたし的には、
1.「ものに驚かない精神」
2.性差別/性バイアス
3.相互批判をしない気風
です。
1.ものに驚かない精神 については、1つ前の記事をはじめこのブログで何度も触れました。「12年1位」の正田も今もずうっと「これ」の被害に遭い続けています。
「えっ」「おやっ」「むっ」という感覚。情報に接して自分の細胞が入れ替わるような感覚。膝から下がぴくっ、と動くような感覚。
…が、ない奇妙なフラットな感情状態。
ストレングスファインダーでいうと「×××」が関わっていそうだ、という話も以前に書きました。
たぶん、「10人死亡」になる前の段階で、報告相談めいたものはちょこちょこあっただろう、常識的に。
しかし「黙殺」されてきただろう。
「1人死亡」の段階も、それでも由々しきことですが、「6人、7人、8人、9人死亡」ということになるともう、話が大きすぎちゃう。「なんで、2人3人の段階で予防しなかったんだ」という話になり、不作為を責められるのが怖さに再度不作為をする。この段階になると「隠ぺい」と言ってもいいと思います。
それはまだむしろ「理性的」(でもほめられないけれど)な反応だが、それ以前に、
「8人?イヤだ、そんなのすごすぎて信じられない、きかなかったことにしたい」
そういう「感情的」というか「感情不全」の反応があるようだ。と「12年1位」をいくら言っても信じてもらえない正田はおもいます。
要は、サイズの小さい知性の人同士自分たちの想定内の情報をチャラチャラやりとりしているのが心落ち着くのに、感情のメーターが振り切れるようなサイズの情報が来てしまうと、「思考停止」になり、「ききたくなかった」「言ってきたこいつが悪い」となる。「なかった」ことにしちゃう。
「妄想的」で「知的怠惰」の人たちが、大きなサイズの情報に対しては「感情的拒否」を起こす。あ、多いんですよ社会的地位の高い人で、現場から遠いとか遠くなった人の中に。
「ものに驚かない精神」が起こす殺人。
「10人」の後半ある時期からは、それの繰り返しだったのではないかと思う。
2.上記に関連して、たぶん、「性差別」「性バイアス」的なものが関わっているだろうなと、この問題解決能力の低さの裏側に。
なんでそうつながっちゃうの?と思われると思いますが、
恐らく、報告相談めいたものがあったとき、それはくるとしたら「ナース」からだろうと思います。患者家族は、その医師がそんなことを繰り返しているとは気がつきにくい、ナースだったら気がつく。
どこに相談するだろうか、診療科長とか学部長病院長かそれに準じる人たちでしょうかね。看護師長にまず言って、師長からその先はそういう人たち。
そのとき、「ナース」に対する医師からの差別意識とか、もっというと性差別意識が出るだろうと思います。
人は、自分が見下している人の言うことはリアリティをもって聴けない。
今どきのナース、きれいにお化粧して髪も薄い色に染めて、という人が多いですけれども、それを悪いとはいいません。外見がどんなでもナースの多くは責任感当事者意識の高い人たちだと思います。問題は、やはり社会的地位のある男性たちが、彼女たちのお化粧した顔、リップを塗った唇、甲高い声によって伝達される情報をリスペクトしないという問題であります。
とりわけ、話の内容が男性の医師を告発する内容であると、「けしからん!(ナースが)」という意識が先に立ちやすいでしょう。いえあたしは全然「共感」しませんよそういうの、バカだ、と思ってますよ。
ほんと、冗談じゃなくそういうのが現実に日常的にあります。問題解決能力の低さの裏側に。中1の子の殺人事件も、母子家庭で保護者がお母さん1人だったのが問題解決にマイナスに働いたかもしれない、と思ったりしますもの。ドスの効いた腹式の声で「そのにやにや笑いをやめなさい!」なんて怒鳴れるお母さんはそう多くないですよ。そうして子供さんの命を見殺しにしちゃったかもしれないです。
女の人の言葉をリアリティをもって聴けない。昨今、どうもそういう風潮が以前より強まっているような気がします。まかり間違えば人を殺しちゃう感性です。
(逆にだから、「承認研修」を女性講師の正田から受けるのは、マイナス点ではなく恩恵なんです。「女性が有益な情報をもってくる」と認識することができ、あらためて「女性」についての研修をする手間が省けますから)
(拙著『行動承認』では、わざと「だ、である」調の文章を一か所入れて、「物事を認識し判断する力に男性も女性もない」と最終章で種明かししたりしました。でもそんなことをわざわざやらないといけないぐらい、「女性は判断力が低い」という迷信がまかり通っています)
1.2.の問題は「傾聴教」の人は「傾聴の問題だ」と言われるかもしれませんがあたしは「承認の問題」ととらえます。「承認教」では、聴き手も運動体ですから、聴いても何もしないカウンセラーさんじゃないですから。また「承認教」では、相手をリスペクトしますしまっとうな社会人で判断能力もある相手のもってくる情報もリスペクトしますから。それは自然とそうなるものなんです。
3.あと相互批判不在の問題。
お医者さん業界は相互批判しない、のは以前は有名な話で、医療過誤訴訟の弁護士さんは原告側に立って証言してくれるお医者さんを探すのに苦労してました。1990年ごろ。今は、状況は変わってますかどうか、業界の風雲児的に発言するお医者さんはちらほらいますが。
たぶん今回も、院内でも話が表に出にくかったと思いますが、表に出ていたとしてもちゃんと批判する同僚はいなかったんじゃないでしょうか。
あたしは、批判しないのは無責任だとおもってます。人の命とひきかえにできることじゃない。
このブログの読者のかたは、このロジック理解していただけますでしょうか。
目の前の同僚を批判することがけしからんか、患者さんの命をそまつにすることがけしからんか。
****
さて、また蛇足で自分の仕事に引きつけて書きますが、
これも、あたしが「承認大事だ」というとかならず「ほかのことも大事じゃないか」という反論が出るわけですが、
「ほかのこと」をやって無効だったときに「承認」を入れたら「がん」と業績が伸びたんです。
そういうのを、今年が2015年だからもう10年以上やり続け、結果の比較も出続けてるわけです。
詳しくいうと、例えば他研修機関で研修を受けて「傾聴」「質問」を一生懸命1年ぐらいやり続けてそれでも業績が低迷していた人に、しばらく見て「足りないのは『承認』だな」と思って「『承認』だいじですよ、部下が求めているのはそれですよ」と言ってあげてツールも提供してあげて、そしたら右肩上がりで業績が上がった。半年ほどで1人当たり生産性で90位から50位代へ、そして目標達成率は1位へ。
その「右肩上がり」以前に「傾聴と質問」をどれくらい一生懸命やっていたかというと、プロコーチの真似して部下1人1人に週1回パーソナルコーチングみたいなことを電話でしていた。かなり徹底してます。でも本人さん「他者否定」が強かった人なので、そういう性格のまま「傾聴と質問」をいくらやっても部下は苦痛なだけなんです。だから業績が上がらなかったんです。
ー 経営者管理者は、そういう過去の方式では結果が出ないとわかったら割合方式の転換を納得してやっていただきやすいです。問題は中間に入るひとたちが面子にこだわることですー
だから、「傾聴とか質問」「だけ」で何かができる、と思うのは幻想なんです。
「承認」は「がん」と業績が上がりますが「ほかのもの」は「ほとんどゼロ」に等しい成果なんです。多少はあってもプラセボ程度です。
経済活性化をしようと本気で思ったら、どっちがいいんですか。
そのたぐいのことは枚挙にいとまがなくて。2003年ぐらいからそんなことやってます。
そういう、あたしは「ほかのことも大事じゃないか」という人に対しては「当方はエビデンス出てますから」と、いとも冷たい言い方をします。本来はお客様が幸せになることが、エビデンスうんぬん以前に大好きな人間なんですけどね。
「ほかのこと」を一生懸命やってるのは、あたしからみると「周回遅れ」なんです。PDCAを回し始めてもいない、幻想妄想のたぐいなんです。「未知のものに期待する」って、ドーパミンが出て「楽しい」ことらしいですけどね。子供の遊びをしてるわけではないので。
傾聴セミナーの中で絶頂感恍惚感を得て、「あの喜びを否定しないで!」と言ってるようなものです。あたし心理学より倫理のほうの先生だから、絶頂感与えるのは上手じゃないんです、丁寧にしみじみ言って論理的に順序立てて納得させるほうの講師なもので、ごめんなさいねテクニック不足で。
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp” target=”_blank” title=””>http://abma.or.jp
このブログではめったに時事問題を直接とりあげないんですが、ある意味「典型的」だと思うので…。
「承認教の正田」は、この事件はこうみる、というお話です。
問題の男性医師自身が悪いことは、論をまたないです。たぶんこのブログによく登場するある種の知性の偏り、
「セルフモニタリング能力低」
「ミスの認識力低」
「内省力低」
という問題です。
いっぽう、それを「10人死亡」になるまで放置してきた組織の問題については。
いくつかの要因があるでしょう。わたし的には、
1.「ものに驚かない精神」
2.性差別/性バイアス
3.相互批判をしない気風
です。
1.ものに驚かない精神 については、1つ前の記事をはじめこのブログで何度も触れました。「12年1位」の正田も今もずうっと「これ」の被害に遭い続けています。
「えっ」「おやっ」「むっ」という感覚。情報に接して自分の細胞が入れ替わるような感覚。膝から下がぴくっ、と動くような感覚。
…が、ない奇妙なフラットな感情状態。
ストレングスファインダーでいうと「×××」が関わっていそうだ、という話も以前に書きました。
たぶん、「10人死亡」になる前の段階で、報告相談めいたものはちょこちょこあっただろう、常識的に。
しかし「黙殺」されてきただろう。
「1人死亡」の段階も、それでも由々しきことですが、「6人、7人、8人、9人死亡」ということになるともう、話が大きすぎちゃう。「なんで、2人3人の段階で予防しなかったんだ」という話になり、不作為を責められるのが怖さに再度不作為をする。この段階になると「隠ぺい」と言ってもいいと思います。
それはまだむしろ「理性的」(でもほめられないけれど)な反応だが、それ以前に、
「8人?イヤだ、そんなのすごすぎて信じられない、きかなかったことにしたい」
そういう「感情的」というか「感情不全」の反応があるようだ。と「12年1位」をいくら言っても信じてもらえない正田はおもいます。
要は、サイズの小さい知性の人同士自分たちの想定内の情報をチャラチャラやりとりしているのが心落ち着くのに、感情のメーターが振り切れるようなサイズの情報が来てしまうと、「思考停止」になり、「ききたくなかった」「言ってきたこいつが悪い」となる。「なかった」ことにしちゃう。
「妄想的」で「知的怠惰」の人たちが、大きなサイズの情報に対しては「感情的拒否」を起こす。あ、多いんですよ社会的地位の高い人で、現場から遠いとか遠くなった人の中に。
「ものに驚かない精神」が起こす殺人。
「10人」の後半ある時期からは、それの繰り返しだったのではないかと思う。
2.上記に関連して、たぶん、「性差別」「性バイアス」的なものが関わっているだろうなと、この問題解決能力の低さの裏側に。
なんでそうつながっちゃうの?と思われると思いますが、
恐らく、報告相談めいたものがあったとき、それはくるとしたら「ナース」からだろうと思います。患者家族は、その医師がそんなことを繰り返しているとは気がつきにくい、ナースだったら気がつく。
どこに相談するだろうか、診療科長とか学部長病院長かそれに準じる人たちでしょうかね。看護師長にまず言って、師長からその先はそういう人たち。
そのとき、「ナース」に対する医師からの差別意識とか、もっというと性差別意識が出るだろうと思います。
人は、自分が見下している人の言うことはリアリティをもって聴けない。
今どきのナース、きれいにお化粧して髪も薄い色に染めて、という人が多いですけれども、それを悪いとはいいません。外見がどんなでもナースの多くは責任感当事者意識の高い人たちだと思います。問題は、やはり社会的地位のある男性たちが、彼女たちのお化粧した顔、リップを塗った唇、甲高い声によって伝達される情報をリスペクトしないという問題であります。
とりわけ、話の内容が男性の医師を告発する内容であると、「けしからん!(ナースが)」という意識が先に立ちやすいでしょう。いえあたしは全然「共感」しませんよそういうの、バカだ、と思ってますよ。
ほんと、冗談じゃなくそういうのが現実に日常的にあります。問題解決能力の低さの裏側に。中1の子の殺人事件も、母子家庭で保護者がお母さん1人だったのが問題解決にマイナスに働いたかもしれない、と思ったりしますもの。ドスの効いた腹式の声で「そのにやにや笑いをやめなさい!」なんて怒鳴れるお母さんはそう多くないですよ。そうして子供さんの命を見殺しにしちゃったかもしれないです。
女の人の言葉をリアリティをもって聴けない。昨今、どうもそういう風潮が以前より強まっているような気がします。まかり間違えば人を殺しちゃう感性です。
(逆にだから、「承認研修」を女性講師の正田から受けるのは、マイナス点ではなく恩恵なんです。「女性が有益な情報をもってくる」と認識することができ、あらためて「女性」についての研修をする手間が省けますから)
(拙著『行動承認』では、わざと「だ、である」調の文章を一か所入れて、「物事を認識し判断する力に男性も女性もない」と最終章で種明かししたりしました。でもそんなことをわざわざやらないといけないぐらい、「女性は判断力が低い」という迷信がまかり通っています)
1.2.の問題は「傾聴教」の人は「傾聴の問題だ」と言われるかもしれませんがあたしは「承認の問題」ととらえます。「承認教」では、聴き手も運動体ですから、聴いても何もしないカウンセラーさんじゃないですから。また「承認教」では、相手をリスペクトしますしまっとうな社会人で判断能力もある相手のもってくる情報もリスペクトしますから。それは自然とそうなるものなんです。
3.あと相互批判不在の問題。
お医者さん業界は相互批判しない、のは以前は有名な話で、医療過誤訴訟の弁護士さんは原告側に立って証言してくれるお医者さんを探すのに苦労してました。1990年ごろ。今は、状況は変わってますかどうか、業界の風雲児的に発言するお医者さんはちらほらいますが。
たぶん今回も、院内でも話が表に出にくかったと思いますが、表に出ていたとしてもちゃんと批判する同僚はいなかったんじゃないでしょうか。
あたしは、批判しないのは無責任だとおもってます。人の命とひきかえにできることじゃない。
このブログの読者のかたは、このロジック理解していただけますでしょうか。
目の前の同僚を批判することがけしからんか、患者さんの命をそまつにすることがけしからんか。
****
さて、また蛇足で自分の仕事に引きつけて書きますが、
これも、あたしが「承認大事だ」というとかならず「ほかのことも大事じゃないか」という反論が出るわけですが、
「ほかのこと」をやって無効だったときに「承認」を入れたら「がん」と業績が伸びたんです。
そういうのを、今年が2015年だからもう10年以上やり続け、結果の比較も出続けてるわけです。
詳しくいうと、例えば他研修機関で研修を受けて「傾聴」「質問」を一生懸命1年ぐらいやり続けてそれでも業績が低迷していた人に、しばらく見て「足りないのは『承認』だな」と思って「『承認』だいじですよ、部下が求めているのはそれですよ」と言ってあげてツールも提供してあげて、そしたら右肩上がりで業績が上がった。半年ほどで1人当たり生産性で90位から50位代へ、そして目標達成率は1位へ。
その「右肩上がり」以前に「傾聴と質問」をどれくらい一生懸命やっていたかというと、プロコーチの真似して部下1人1人に週1回パーソナルコーチングみたいなことを電話でしていた。かなり徹底してます。でも本人さん「他者否定」が強かった人なので、そういう性格のまま「傾聴と質問」をいくらやっても部下は苦痛なだけなんです。だから業績が上がらなかったんです。
ー 経営者管理者は、そういう過去の方式では結果が出ないとわかったら割合方式の転換を納得してやっていただきやすいです。問題は中間に入るひとたちが面子にこだわることですー
だから、「傾聴とか質問」「だけ」で何かができる、と思うのは幻想なんです。
「承認」は「がん」と業績が上がりますが「ほかのもの」は「ほとんどゼロ」に等しい成果なんです。多少はあってもプラセボ程度です。
経済活性化をしようと本気で思ったら、どっちがいいんですか。
そのたぐいのことは枚挙にいとまがなくて。2003年ぐらいからそんなことやってます。
そういう、あたしは「ほかのことも大事じゃないか」という人に対しては「当方はエビデンス出てますから」と、いとも冷たい言い方をします。本来はお客様が幸せになることが、エビデンスうんぬん以前に大好きな人間なんですけどね。
「ほかのこと」を一生懸命やってるのは、あたしからみると「周回遅れ」なんです。PDCAを回し始めてもいない、幻想妄想のたぐいなんです。「未知のものに期待する」って、ドーパミンが出て「楽しい」ことらしいですけどね。子供の遊びをしてるわけではないので。
傾聴セミナーの中で絶頂感恍惚感を得て、「あの喜びを否定しないで!」と言ってるようなものです。あたし心理学より倫理のほうの先生だから、絶頂感与えるのは上手じゃないんです、丁寧にしみじみ言って論理的に順序立てて納得させるほうの講師なもので、ごめんなさいねテクニック不足で。
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp” target=”_blank” title=””>http://abma.or.jp
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