以前に「傾聴研修」について「具体的にどんなやり方をしているかわからない」と書きましたが、「わかる」範囲でいうと、わたし自身が「承認マネジメント研修」の2回目に使う「傾聴」の教材があります。


 これもいい加減なものではなくて、ある大学の心理学の先生から了解をいただいて使用させていただいているものです。それもご夫妻でこのタイプの研修教材を多数作ってきている、アイデア夫妻。
 たぶん、その世界でもかなり精巧にPDCAを重ねてつくられているほうのものです。


 AさんBさんに分かれ、それぞれが8種類のカードを手に持つ。計16種類のカードを印刷する。
 そして「8通りの傾聴」をやってもらう。かなり反復練習の要素が入ったハードなもの。

 そのカードで指示しているのは、ネタバレ残念ですが、こういうものです。

 「悲しかったこと、情けなかったことを話してください」
 「腹が立ったことを話してください」
 「うれしかったことを話してください」
・・・

 「感情とそれにまつわるエピソード」を話してもらい、最終的に「傾聴における共感の大事さ」を体得する仕組みになっています。


 うーんと、それがいけないとはいいません。
 自分が実際に使っているものですから。

 でも、人間観からいうと「不完全」なものだといわざるをえません。「承認」の補助的なもの、「承認研修」で基本的人間観をつくったあとにそれを補うもの、という位置づけなら、やっぱりいいでしょう。わたし自身は、「傾聴」を教えることは教えるが(しかもかなり技能としては徹底して教えるが)、やはり「道具だ」と割り切っているところがあります。


 これ、おわかりになりますか?



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 わたしは友達の少ない人間なんですが、数少ない交友範囲の中に世間でいう「大経営者、名経営者」という人がいました。

 これも自慢したいわけではありません。文脈上、わたしがつくってきた人間観、というものに触れざるを得ないからです。

 今年で87歳になるその人は、「江田島の海軍兵学校」を経験した(ご本人が3年生のときに終戦)数少ない生き残りの人です。

 自伝なども出ていますが、そこで行っていた強烈な訓練の日々は、もちろん体力のない現代っ子のわたしなどには到底体験しえないもの。
 そしてもちろん現代に持ってきようのない教育ではありますが、「あの日々が自分をつくった」とその人は言われます。
 その人は終戦後には職を転々とする鬱屈した日々があり、きっかけがあって起業し、それからもとんでもない七転び八起きを繰り返し…。
 つい先年は、米ハゲタカファンドが自社の株主総会に送り込んだ人を怒鳴りつけて撃退する、という快挙をしました。


 現実に目の前にいるのはひょうひょうとした「素朴」な老人であります。普通の人と変わらない体のサイズの。

−「素朴」な顔つき、ということは伊丹敬之氏の経営者論の中に出てきますが、旺盛な外界への好奇心とナルシシズム抑制の態度として大事なことであろうと思います―

 そうした人との対話を繰り返す中、同じような体のサイズの中に詰まっている圧倒的な知性のキャパの存在に触れることが幸運にもできていました。「経験の質」の明らかに違う人がいるのです。おとしよりだからとか功成り名遂げた人だからそうなのではない、同じ80歳超の年齢の人でも「経験の質」の高い、巨大な知性の持ち主でいくら話しても飽きない人とそうでない人がいます。


 また、こうした人たちは「承認」が「大事なものだ」と「先験的に」知っている人たちでもありました。だからずっとお付き合いできたんです。ただそうした人たちでさえも、「承認か、傾聴か」というレベルの話になると「わしゃ、そんなことまで知らん」と「お手上げ」状態になるんですけどね。


 わたしにとっては一方でこうした人たちとの交友があったから、一方で明らかに心を病んだ人を援助する目的の「臨床心理講座」に通って傾聴を学ぶ、ということをしていても人間観の軸がブレなかったと思います。

 自分より圧倒的にサイズの大きい知性がある。その人の経験してきたことと到底同じ経験はできないけれど、畏敬の念をもって追体験し、学ぶ。

 これはだから普通の「傾聴研修」の枠の中ではおそらく学べないことです。
 そしてその人の経験知の大きさをはかり知る作業というのは、年齢が基準なのではなく、丁寧に分析すると「行動承認」に近いことをやってきたと思います。

 臨床心理講座でも「畏敬と尊重」を繰り返し言う武田建氏のもとで学びましたが、それはわたしにとっては、
自分をはるかに上回る知力体力をもつ人に対しても(想像力を働かせて)受け止め、またこころを病んだ人悩みを抱えた人も受け止め、と非常に広いレンジにこころを動かす作業を意味しました。
 

 そうしたわたしにとっての「暗黙の前提」が、しかし現代の「傾聴研修」ではほとんど共有されていない可能性があります。その人の奥行きを感じることなく、とても貧弱な人間観にたって傾聴をしている。

 ともすればその場の「悲しかった」「うれしかった」的なこと「だけ」が大事なことであるかのように。

 それらが大事ではないとはいいませんが、このところ会話の中で
「正田さんは12年1位を作ってきましたね」
という「行動承認(事実承認)」の部分がまったく不在のまま会話をすすめる人々をみたとき、

「なんだこれ!?」

と首をかしげたくなるのです。

 その場の感情についていう、

「それはお気の毒でしたね」
「それは残念でしたね」

とかの応答だけが大事なんでしょうか。

 もしそれだけが大事なことだと思っていたら、『行動承認』最終章にある親の看取りはできなかったでしょう。

「今痛い?」「つらい?」「苦しい?」
だけしか言えなかったでしょう。

「あなたはこんな風に人生を生きたね」
という形の看取りはできなかったでしょう。


 感情は確かに大事ではあるんですが、
 「感情が何よりも大事だ」と位置づけると、前にも書いたけれど行動しない「不作為」が増えてしまいます。

 詳しくいうと、人の感情の中でもっとも強力で影響力が大きいのは「不安感」「恐怖」なのです。生存のための根源的な感情ですから。良い感情はそれほど力をもつわけではないのです。

 もともと日本人は不安や恐怖の感情が強いけれど、何か新しいことをする前に必ず不安や恐怖の感情が頭をもたげる。そのとき、
「これは単なる気の迷いなんだ、あのとき決めて約束したんだから、やるんだ」
と思うか、それとも
「こわくなった。やりたくなくなった。感情は何よりも大事なものだと教わったから、この『やりたくない』という感情を大事にしよう」
と思うか。


 もし後者のほうを優先したら、仕事の世界の約束とか義務、責任の世界はガタガタになってしまいます。で正田の経験上も「感情が何より大事」と意識づけられた人はドタキャンが多かったのです。「理性」は感情に優先して大事なことなのです。


 財団になって「承認マネジメント協会」という名称になったのは、「マネジメント」という少し「統制」の匂いのする言葉を使わないと今の時代職場運営はできないな、という予感が働いたということがあります。


 だから、カウンセラーさんはメンタルヘルス時代なので自分の出番だと思って「感情が大事だ、共感が大事だ」と言うかもしれないが、わたし的にはNOです。
 そして、「行動と成長」という軸を大事にしたほうがいい。その中に人の幸福感もちゃんと入っています。

 2007年ごろのメンタルヘルス白書には、職場のメンヘル問題の解決策としてちゃんと「承認」が入っていて、あれは正しかったと思うんですけどね。今の人はあれを見てないんですね。


 また、武田建氏も1970年前後の論考で、自分自身カウンセラーであるにもかかわらず「青少年のキャンプリーダーには『傾聴』『共感』を教えないほうがいい」ということを言っていまして、あれも「先験的に正しい」のだと思います。
 これまでの経験で、「傾聴」を学んだ人が紛争解決の見立てを間違えやすいことを考えると、彼ら彼女らは共感しやすいほうに共感して、例えば自分と同じ属性であったり、多弁で自己主張の強いほうに共感してしまうので、ものを考える軸を誤ってしまうのだろうと思います。目先の感情に流される。そういう間違いをしてはいけない、という歯止めが「傾聴研修」にはないんではないでしょうか。


 「まさか」と思うことでも、教育を施すときに「暗黙の前提を共有していない」ことが今の時代、大いに起き得るのです。




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp