ここ数週間でブログに書いた以外にもたくさんのお出会いと感動、感激、感謝の場面がありました。


 諸般の事情でなかなかそれを言葉にできずにいます。本来のわたしであればその方々の人となりについて、文脈について、リスペクトを込めて延々と書き綴るところです。


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 「バーチャル」になることのほうがはるかに簡単なこの時代において、「行動承認は真実ですね」というお言葉があちこちで聴けたのは、むしろ奇跡のようなことでした。


 せっかく一度伝えることができても、すぐ次の情報次の情報に押し流されていく現代です。


 


 「正田は生意気だ、傲慢になっている」
という声をきくときもあるけれど、

 わずか1回「経済団体主催セミナー」をさせていただくために、何回「自団体主催の事例セミナー」をしてきたことだろう、この12年。

 「セミナー」でなく「事例セミナー」と言っていることに注意してください。セミナー研修の実験室の場や、専門家との個人契約の会話空間の中で人の心にあれこれ手を加えるのは、技術的には簡単なことなのです。
 それに基づいて「組織」について仮説レベルのことを言うことも。

(「実験室の会話」という言い方は、行動理論家でアメフト常勝監督の武田建氏もよくしていました)


 そうではなくて、「事例セミナー」というのは、ほかの意味でも聡明なリーダーたちが一定期間確信をもってやり続け、その結果組織に無理なくよい方向への化学変化を起こし続け業績が向上した、それが続出した、ということです。

 …そういうのは「先験的にわかっている」タイプの人には一々言うまでもないのでしょうけれど。


 はたらく人たちの「現場」にひとつの手法が正しく落ち、よい方向への持続的な化学変化を起こし続けるためには、セミナー研修個人契約等の「実験室」を成り立たせるのとは質の異なる思考が要ります。多数の方式を横断的にみたうえでの効果発現メカニズムの見極めと副作用への配慮、そして教授法の工夫が要ります。それらの結実が「12年1位」とか「事例セミナー7回」になっている、ということです。


 それら事例セミナー開催のためにどれほどの労力と私財を投じてきたことだろう。そしてそれでもバーチャルな人々には「ぴんとこなかった」ことだろう。「これが決定打だ」とは考えず、腰の据わらないまま次の手法次の手法を追い求めてきた、アトム型自己観の人々が「永遠に拡大し続ける世界」を追い求めるように。

 それは、自分個人の幸福とか成功を考えたら本当にばかばかしい労力でした。生まれ変わったらもっと別の、人に侮られない仕事をしたい。

 それでも、「この手法」を伝えることでお客様に作ることのできる経済的精神的幸福には替えられないのです。


 
 「この手法」に親しんだあとの人の口から、よく「承認って、当たり前のことですよね」という言葉がきかれます。

 「この手法」で現に自分の会社を幸せにしている人でもあったりするのですが、その言葉はことわたしには、「承認欠如」の言葉として残酷に響きます。

 「当たり前」ではないはずです。上の世代から継承された価値観に当たり前に流されていたらこの人の会社の成功はありえなかったし、わたしは率先してそれに異を唱えるものとして普通の人なら浴びないはずの迫害や非難を浴びてきました。

 そして先にも書いた「1回の(あなたが参加した)経済団体主催のセミナーのために何回の事例セミナーをしてきているか」という問題であったり、またこの情報の多い、ともすれば「実験室レベル」の話に流されてしまいそうな時代に、ブログやメルマガで絶えずあの手この手と切り口を変えながら「この手法」にリーダーたちの心を引き戻しブレさせないようにしていること。

 「承認」がいくら再現性を持って生物学的その他あらゆる視点から正しいものであっても、わたしがその作業をしていなかったらこの人はブレていただろう。


 また、「教授法」の問題―、
 わたしは「弱い」と言われることがあります。過去に無数の心理学系のセミナーの類をみてきて、上手だと言われるそれらの先生方の手法とは意識的に一線を画してしまったところがあります。
 要は、
「実験室ではいくらでもディープなことエクストリームなこと非現実的にポジティブなことは言えるし、できる。でも現場に落ちるには何が大事かをみなければならない」
ということなんですが。
 逆に「正田の講師ぶり」を過去に高く評価いただいた英国の倫理学の教授とは、実は向こう式の「授業の相互評価」を担当する先生でもありました。そこで論理性客観性や「フェアネス」を担保いただいたようなものですが、それはさておき、最近ある受講生のリーダーの方から言われたのは、
「心地いい空間だった」
ということでした。これもなかなかに癖のつよい一家言ありそうな方だったので嬉しい評価でした。

 わたしなりに、自分が現場を預かるリーダーだったとして、こういう「決定的だ」と思える教育コンテンツに出会うとき、それをどんな先生にどんな口調で教わりたいと思うか。

 それは強引に押し流すタイプのものではないと思います。大風呂敷を広げたり、講師のナルシシズムが前に出たような強気なスタンスではなく、教えられたものであっても自分の判断を働かせたうえで「とりにいった」と感じるものでなければなりません。

 だから、リスペクトを基調とした一見こちらが「弱い」と感じられるような口調を維持しています。

 それを「弱い。この人ダメだ」と思うか、「いや、こういう語り口を介して真実に出会うことができてラッキーだ」と思うかは、その人の元々の頭が「バーチャル」か、それともこのブログが読者として想定しているところの「タフな実務家」かによると思います。
 その語り口を維持するがゆえに、実務家ではないタイプの人々からの攻撃にも遭ってきました。


ーここまで書いて気がつきました、これは二律背反の話なのだなと。
実務家に訴えかけたければ淡々と、「相手に判断させる」語り口で話せばよい、そうではないほうの人たちには「夢をみさせてあげる」あるいは「少々の矛盾をものともせず強気で押し切る」口調で話せばよい、あとのほうの話し方をすると実務家タイプの人たちは最初から「これは自分とは関係ない」と思ってきいているのでどのみち大きな波乱は起きないー

ー実務家タイプの人に語りかけるセミナー、研修をそうではない人も混じっているところで質疑も含めて成立させるにはどうするか?
そこは事務局の方々にやり方を一考していただきたいところでありますー



 だから、「これって当たり前ですよね」というひとは、自分が「これは真実だ」と直感できた理由であるところのその教授法が、講師の自己犠牲とひきかえのものであることを見落としています。


 わたしの心と身体の無数の痛みの上に、自分の人生を諦めた生き方の上に、その人の会社組織の成功や生き残りは載っています。
 それがわからない人は…。それは謝金とかの問題ではないのです。


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 と、嘆き節のような内容の日記になってしまいましたが、、

 このところお出会いする、非常に世慣れた方々が、ここ数か月のわたしの決断の意味を行間から理解してくださることが、有難いと言わざるをえません。

 一度言葉にまとめておきたく思いました。

 その方々にはむしろ言うまでもないことなのかもしれませんが。

 深い感謝を込めて。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp