さて、「ヘーゲル承認論」の「承認の原型は『愛』だった」というお話からすこし間があいてしまいました。

 あのお話で止めておくと簡単でわかりやすかったかもしれないですね。

 でも「ヘーゲル承認論」のもっとも有名なところは「その先」にあります。
 
 「承認をめぐる生命を賭けた闘争」そして「主人と奴隷の弁証法」です。


 もし「承認研修」をきっかけにこのブログの読者になってくださった方ですと、ヘーゲルのこのあたりの議論をブログでご紹介していると、「なんだこれ!?」と「引いて」しまわれるかもしれません。

 研修でしたお話とは似ても似つかぬお話ですし、「主人と奴隷」などは現代の何のメタファーなんだろう?と思われるかもしれません。


 当協会の「承認研修」では、ヘーゲルの考えた「承認」からはだいぶ趣がことなっていて、行為としての「承認」を扱います。そこでは現役マネジャーが実践に落とし込みやすいように「行動理論」の要素が入っていたり、「ミンツバーグのマネジャー論」の考え方も入っています。でお蔭様で「これは実際にできるようになるなあ!」と言っていただけます。ヘーゲルは「承認」が「ない」状態からどうやって「ある」状態にするか、という教育プロセスのところは考えなかったですからね。


 とりあえず今回の記事では、現実との橋渡しをあきらめてできるだけヘーゲルが考えた通りにたどってみたいと思います。

 ここでは、とうとう入門書の『はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣+西研、講談社現代新書、2014年3月)をテキストに使います。


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 わたしたちは「自己意識」を持って世界と向かいあっています。しかし自己意識は他者関係のなかでは絶対的な自己であることができないのです。

 

「自己意識が本気で『自己自身』たろうとすれば、『相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る』という態度をとることになる」(前掲書p.63)

そこで「承認のせめぎあい」という状態が起きます。


「他者がいる場面では、自己意識は、自分こそ世界の『主人公』であるという意識を保てない。そこで、自己の『主人公性』、つまり絶対的独自性を保とうとすれば、自己こそ世界の中心であることを、自分だけでなく他者にもまた認めさせることが必要となる。

 この試みは、これを極端にまで追いつめるなら、他者との命を懸けた戦いへの意志として現れる。」(同、p.64)


 
 と、「承認をめぐる生命を賭けた闘争」となります。


 「ところが、もし実際に戦いの結果相手を殺してしまえば、はじめに意図されていた自己の自由の承認という欲望は、達せられない。死を賭して戦いあうことは、双方が自己の絶対的『自由』を守ろうとする意思の証しではあるが、相手が死んでしまえば、勝利者の『自由』を”承認”する他者はいなくなるからだ。」(同、p.65)

 と、戦って勝った人は負けた人に「承認される」ことをめざすのです。相手を死なせてしまうと、「承認」してくれる相手がいなくなります。そこで敗者を隷従させつづける奴隷制度のはじまりが起こります。あくまでヘーゲルがそう言っている、というお話です。

 ―ここは、「承認研修」がめざすところの「上司による部下への承認、そこから展開する認め合う組織」とは逆の、「上司はつねに部下に承認されている」という構図ですね。自然の重力にしたがうとそうなってしまいますね。

 そしていよいよ、「主(Herr)と奴(Knecht)」(主人と奴隷)の弁証法が出てきます。


 「承認をめぐる死を賭した戦いの結果、人間は主と奴に分かれる。両者の関係はつぎのようだ。

 まず戦いに勝利した主は、奴に対して絶対的な『自立存在』を保つ。つまり奴に対して絶対的な威力、『死によって脅かす威力』を振るい、このことで奴は主のために労働することを余儀なくされる。これが主の奴に対する関係の第一面だ。」(同、p.66)


 死を怖れた側が自分の自立性を放棄し服従し、奴隷になるのだと。

 すごく極端な話のようですが、べつのテキストによればこれは現代というより古代諸大国の始まりを言っていると考えればわかる、と述べています。古代ギリシャ、古代ローマ、あるいは秦漢・・・などを考えればいいのでしょうか。



 ここで、「労働」というものの重要さもヘーゲルは言っています。


「じつはこの関係において、潜在的には、かえって主のほうが非自立的であり、労働によって物(自然)に働きかける力を育てる奴のほうに、本来の自立性の契機が存在していることが、やがて明らかになる。

(中略)

 奴は自然(物)に労働を加えてこれを有用な財に形成し、生産する。この行為はまた、自分の欲望を抑制し、代わりに技能を鍛えることで可能となる。またそれは、人の生産と能力の持続的向上につながるものだ。

 この労働の能力こそ人間の自然に対する支配の本質力であり、奴は労働を通して力を身につけ、そして自分がこの本質力をもつことを直観してゆくのだ。」(同、pp,67-68)



 労働を通じて聡明になれる、というのは、数年前に流行った「意志力」や「ワーキングメモリ」の知見でこれらの能力は後天的に鍛えることができる、と言っていることを思えば多少はわかる気がします…


 さまざまなテキストをみるとヘーゲルやはりフランス革命(19歳の時)の影響は大きかったようです。当時大学内で「自由の樹」を植えてお祝いしたとか、ナポレオンのイエナ大学侵攻では「世界精神の勝利」と言ったとか、ラディカルな世界観のもちぬしです。

 ところが、1770-1831年の間生きたヘーゲルが構想したものは近代自由主義社会そのもので、階級社会の従属関係から法によって所有権を保障される(=法による承認)平等な社会への移行をいちはやく構想した人なのです。

 フランシス・フクヤマは1992年に書かれた『歴史の終わり』の中で、近代自由主義社会こそが人類史の終着点だ、人類史は最終的にもっとも矛盾の少ないほうが生き残るとヘーゲルは予見したと述べています。
 それはベルリンの壁崩壊直後の本だということを考えて多少割り引いて読まないといけないかもしれませんが。

 フクヤマによると、

「ヘーゲルにとって人類史の原動力とは、近代自然科学ではなく、また近代自然科学の発展をうながした無限に膨らみ続ける欲望の体系でもなく、むしろ完全に経済とは無関係な要因、すなわち認知(=承認)を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)にあった」。(『歴史の終わり』(上)、三笠書房、p.228)
 
と、ヘーゲルの「承認をめぐる生命を賭けた闘争」「主と奴」の歴史観を全面肯定したのでした。

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 「承認をめぐる闘争」のところは、現実世界のあれこれを考えると正直、書くのがしんどかった部分です。
 そして本来はもっと原文(訳文)を引用しないといけないのですがやはり難解で…。


 現代はたとえば「自由主義社会」からはじき出された若者がISに取り込まれ、そこで自爆テロに従事させられるという、悲惨な現実があります。その「自由主義社会」はヘーゲルの構想したものと比べてどうなのだろうか、とも思います。
 

 現代のヘーゲル研究者ではA・ホネットという人が有名で、この人は「承認論」を「再配分」や「フェミニズム」の問題とも関連づけているようです。


 この人の文章も結構難解なのです。さあご紹介できますかどうか…。



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