『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)という本を読みました。


 だいぶながいこと「ヘーゲル承認論」をお休みしてしまいましたが、「承認論」が現代ヨーロッパを中心に、「格差是正」「フェミニズム」など社会問題解決の文脈で語られるようになっているようで、ほんとはそれをフォローしたい(でもドイツ語は読めないし、訳文も言葉がむずかしいのでしょっちゅう投げ出している)


 本書は、教育学で「人間形成(ビルドゥングの訳語)」と「承認」の関係を扱います。

 ややこしいのは、現代ドイツにホネット(『承認をめぐる闘争』の著者)というヘーゲル研究の大家がいて、そのホネットの承認論をヴィガーという本書の著者が研究している、という「入れ子構造」になっていることです。

 かつ、やっぱり文がひとつひとつ難しくて、「この一文がきれいに全体の要約になっている」という書き方をしていないので、このブログでよくやるような抜き書きがむずかしい。正確に文意がとれているかどうかも自信がもてない。

 そのなかで比較的わかりやすい文では、たとえば:


「誤解のないように付言すれば、ヴィガー氏が『承認』を教育目的とするような議論を展開していないということは、彼が人間形成にとっての『承認』の意義を軽視しているということを意味しているわけではない。他者からの『承認』によって自らの人生の意味が変容してしまうほどに、私たちの生は『承認』によってあきらかに左右されている。ヴィガー氏による議論の根底にあるのは、そのような『承認』の意義に対する揺るぎない確信である。だからこそ、ヴィガー氏は、他者による「承認」と社会に適応していく側面がどのようにかかわっているのかをつぶさに読み解こうとするのである」(p.12)



 うんうん。まあ「承認は大事なものだ」ということは言っていますね。

 「ヘーゲル承認論」を読んでいて困るところは、そこでは「承認の有効性」が最初から所与のものとして語られてしまうので、いきなり「がん」と地平が上がっていて、普通の「承認」という言葉すら知らない人とかもっと他のものがモチベーションを左右するだろうと思っている人と対話するのに苦労するということです。本書もやっぱりその例にもれません。ぶちぶちぶち。まあ現代ドイツの教育学者が大真面目に議論しているから有効なんだ、と思うしかないのでしょうか。

 従来、「例示がない」のが難でしたが、本書のあとの方では、「少年へのナラティブ・インタビュー」などがでてきます。
 ヴィガー氏はナラティブ・インタビューを人間形成研究における手法と位置づけますが、そこでは「承認」がよりよい方向に作用したと思われるようなエピソードばかりではありません。

「「承認」を得ようとして非行と呼ばれる行為に接近したり、人生が暗転したと感じられたりするような事例も取り上げられている。「承認」というテーマが織り込まれた過程としての人間形成は、けっして肯定に捉えられることばかりではない。挫折や悩みなども人間形成の一側面であり、「承認」と深くかかわるできごととみなされる。」(p.12)
 

 よい方向への変化ばかりではなく、わるい方向への変化も「承認」の影響とみなせる、というのでした。あまりこの視点はなかった。しかし考えてみるとわが国では、「承認欲求」の暗黒面を描く文献が一時期溢れ、承認欲しさに「いじめ」「非行」に走る若者を取り上げてきたと思います。そしてそちらが先行してしまったので、「承認」そのものにダークイメージがついてしまっていました。本当は、いつもいいますけれど大人の人格の人が「与える」承認は、とてもいいものです。


ヘーゲルは一番はじめ、『精神現象学』において「承認」を提起しました。
 本書によれば、


「…『精神現象学』では、個人と共同体の関係が初めて前景に現れてくるのは、「理性」章においてである。そこでは、生命という全体の一部であるという自覚を得ながらも、欲望の対立のなかで強者と弱者へ階層分化しつつ相互に存在を承認しあう「自己意識」の段階を越えて、各構成員の単純な「我あり」の確信に立脚した不平等な相互承認から、客観的真理である「われわれである私と、私であるわれわれ」としての相互承認(共同体の設立)へと意識は高まっていく。」(pp.37-38)



 これもわかりにくいですねえ…(わかります?)

 思い切り我田引水的な解釈をしますと、
 不平等な相互承認、ということでいうと、先の記事でもとりあげた、「地位の高い人は既に地位からくる『承認』を受けている」。一方、部下たちにはそれは「ない」ものなので、そのままだと「不平等な承認」ということになってしまう。地位の高い人が意識的に「承認」の「与え手」となれば、地位の有無をこえて組織の一体感が出てくる、ということになります。いいのかなこの解釈。


 このあと本書にはナラティブな語りによる「事例解釈」が出てきます。17歳の少年、家庭的に恵まれず学業成績も振るわず暴力的傾向もあった、そういう少年に対するインタビュー。そこで恋人の死や尊敬する武術の師匠の死などの出来事を経て、彼が「人間形成」していくプロセスが語られます。彼のばあいの「人間形成」は、「自己規律化」という変化になります。(pp.57-67)


 本書には「行動承認」に関連するような記述もあります。後学のためにそこもちょっと抜き書きしておきましょう。


「総じて、差異の承認あるいは承認の教育学的要求(vgl.Rosenbusch 2009; Prengel/Heinzel 2004)は、理解しやすいが、あまりにも十把一絡の状態にある。それらの規範は明確ではなく、その根底にある対立はあきらかにされていない。一方で、他の人格の自立に対する尊敬の要求は、追体験でき、近代の法的関係において基礎づけられている。他方で、それは、あらゆる教育的行為とすべての人間形成過程が、まさに、知識や熟練した技能、態度や確信や行動にみいだされた状態の受容と承認を目標とするのではなく(vgl.Ricken 2009: 88f.)、それらの変容を目標とする限り、先の要求は、一面的であり誤解を招きやすい。むしろ、承認されるべきことの事実に関する説明と根拠づけ(そして場合によっては、十分に吟味すること)が求められる。その際、考えなければならないことは、行動動機と相互行為状況に関する、歴史的な可変性、社会的な制度設立、個々人の決定可能性である。」(pp.81-82、黄色は正田)



 …わかりますか?わたしは正直、黄色にした最後の2センテンス以外はよくわかりません。しかし自分にわかる都合のよいところだけ抜き書きするのはアンフェアかなと思って前のほうの文も抜き書きしたわけですが…、

 最後の2センテンスは、「承認するには根拠が大事だよ(行動承認)」ということと、「ビジネスプランなんかを承認する(GOサインを出す)ときは周辺状況もよく勘案しようね」といっているように読めます。


 その後にくる文章。

「承認が成果のともなう行動やうまくいったコミュニケーションを含意する限り、承認の願望や承認を目指す明確な努力は、失敗の経験や壊れたコミュニケーション関係を問題にする。そして、コミュニケーションの目的あるいは対象へ向けた承認が生じたかどうか、実際的な失敗や失敗したコミュニケーションの問題とともに失われた承認の問いもまた取り扱われるかどうかが、あきらかになる。」(p.82)



 これもわかったような、わからないような。原文のせいかなあ訳文のせいかなあ。ヘーゲルの時代の哲学者の文章がなぜ難解だったかというと、哲学書を読むことは当時の知識人や貴族の子弟の高級な楽しみであり、「高級感」をかもし出すためにあえて難解に書いてあった、とどこかで読んだことがあります。現代もそういう伝統に縛られなければいけないのかどうか。


 さて、ホネットの承認論です。

「ホネットは、承認の三形態―愛、法、社会的価値評価―において、一方では「さまたげられていない自己関係の可能性」(Honneth 1994: 8)に対する構成的な条件をみている。だが、他方で、『承認をめぐる闘争』の焦点として、軽んじられた経験を発生させる「社会的コンフリクトという道徳的倫理」(Honneth 1994: 8)もおいている。」(p.83)


 これをもう少し詳しくみていくと、

「私は、ホネットの理論的努力を、次に述べる根本思想の基礎づけの試みであると理解している。承認は、人間のコミュニケーションの基本的な道徳的内容であり、その意味において、社会構造や相互行為のさらなる発展の動因でもある。(中略)承認の動機は、「うまく切り結ばれた自己関係に到達するために」(Honneth 1994: 220)、自己実現に対する人間の関心、主体の「アイデンティティ要求」(Honneth 1994: 106)、相互主観的な承認への依存に、人間学的な根をおろしている。(中略)ホネットにとって、承認は、「社会的実存の基礎メカニズム」(Basaure u.a. 2009: 154)であり、総じて、社会に対して構成的である。「社会的統合の相互承認の型への依存は、変化しない。このことは、私にとって、まさに形式人間学的テーゼである。先鋭化していえば、私たちは、相互承認のメカニズムやある特定の型を越えて規範的統合が作用しないような、生存や生き残りに長けた社会の形をまったく想定することはできない」(Basure u.a.2009: 154)」(p.84、黄色正田)



 承認の三つの異なる形態である、愛、法、社会的価値評価。
 「軽んじられること(ミスアハトゥンク)の三つの形態は、この三つの承認形態に対応している」と本書はいいます。

「軽んじられることの三つの形態とは、暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪である。暴力的抑圧とは、身体的な虐待において、「自己の固有の身体を自律的に自由に用いること」(Honneth 1994: 214)に対する尊重が奪われることである。権利の剥奪とは、規定的な法の所有からの排除において、「道徳的な責任能力における認知的な尊重」(Honneth 1994: 216)が奪われることである。そして、尊厳の剥奪とは、文化的な格下げにおいて、社会のなかに織り込まれた自己実現の形態に対する「社会的同意」(Honneth 1994: 217)が奪われることである。ホネットは、「肯定的な自己理解のなかでの人格が傷つけられること」(Honneth 1994: 212)を通して、軽んじられる経験のなかに、「社会的抵抗やコンフリクト、すなわち承認をめぐる闘争へ向かう動機」(honneth 1994: 213f.)をみている。その意味において、ホネットの承認論は、「道徳的経験のダイナミズムに基づいて、社会闘争を説明すること」(Honneth 1994: 225)を要求する。」(pp.84-85)


 
 このあたりの文章は、むしろわかりやすいのではないかと思います。「軽んじられる」は、「承認欲求」という言葉や概念を知らなくても、だれにとっても不愉快な経験です。
 1つ目の「暴力的抑圧」は、戦争や、よくある虐待やいじめや、介護の現場での「拘束」の問題なども連想しました。
 3つ目の「尊厳の剥奪」は、1つ前の記事に出てくる「開会あいさつを頼まれなかったからとふくれてねじ込んだ」大学教授氏などもそうですが、もっと共感しやすい例としては、職場のLINEいじめなどもそうでしょう。

 このような社会的コンフリクトはすべて「承認の不在」として説明することができ、またそこで失われた「承認」を回復しようとしてさまざまな対立や闘争が起こります。被害者が回復しようとするのは自己への「承認」なのです。

 こちら側からの「承認」についての説明は、すごくわかりやすい。
 ただ、そうした悲劇的な文脈でばかり「承認」を語ると、やはりイヤなものとして意識されやすいですね。わたしは「承認」が「ある」風景の、活気ある躍動的な風景のほうをなるべく多く語りたいとおもいます。それがいわば人の性(さが)というものに逆らわない状態です。


 さて、このような「わかりやすい」承認不在の状態から「承認」や「人間形成」を説明ことにそれほど大きな意味はない、という見方もあるわけです。
 
 
 ジープという別のヘーゲル研究者は、この点でホネットとは違う立場をとります。

「ホネットは、軽んじられることの形態―暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪―を、承認の回復へむかう闘争の動機として説明している。それに対して、ジープは、次のように問う。軽んじられることの形態は、自己生成にとって、必要不可欠なのかどうか。「愛の確認、自律という法の承認、ある共通文化の維持への寄与や成果に対する価値評価への依存は、個人を抵抗力のない傷つきやすいものにする―だが、この傷つきやすさとその克服は、固定した自己尊重の人間形成にとって、必要不可欠なのだろうか?」(Siep 2009a: 195)


 前半の問いはある意味もっともかと思います。
 現代の「承認」されてたちどころにイキイキ働き出す若い子たちは、もともと「ほめる教育」の下で育ってきて、軽んじられた体験などないのかもしれない。それは幸せなことだ、と思います。
 一方、差別でも戦争でも、過去のイヤな記憶が残っている間のほうが良い状態を維持しようという努力も続けやすいわけで、最近のアメリカの黒人差別の事件などをみていると、差別を憎む力が弱ってきているのかな?と思ったりします。

 そして後半の問い、例えば若者は「承認依存」になってしまっていいのか?

 こういう問いを発してしまいたくなるのはすごくわかるんですが、わたしは、過去の「承認マネジメント」の世界で起きたことの経験からこのように答えたいです。

「子供や若者はもともと生物として『承認欲求』の強い存在である。仕事に入った若者に関しては、上司が初期には『承認』によって導き、次第に本人が仕事そのものと格闘するようになる。若者の目的は自然と仕事の完成度や、『お客様の喜び』といった、『上司の承認』とは別のものに移っていく。それも『承認』の供給元が交代しただけに過ぎないともいえる。」

「いずれにしても他者からの評価をまったく度外視した仕事というものは存在しない」




 次の文は、依然わたしは理解できているかどうかわかりませんが、前半の「まとめ」的なものです。


「ヘーゲルは、自我と他我の相互行為の関係の問題を、個人と共同体の関係とつなぎあわせ、自我と他我のパースペクティヴを自己―他者―我々の関係の理論パースペクティヴへずらしている。したがって、承認は、三つの極の関係である。承認の相互関係と地平的関係は、常に、直線的で垂直的な承認関係に埋め込まれている(vgl.Mesch 2005: 355)。制度の秩序と課題、および、規範体系の調節と要求は、承認関係の境界と形態、内容を規定する。すなわち、それらは、承認のコンフリクトと承認の闘争に対する基盤である。したがって、承認は、実践的関係とコミュニケーションの構成的要素として理解される。それゆえ、承認は、ある内容と目的ではなく、むしろ、多様な内容と目的をもちうるのである。第一に、失敗や軽んじられること、期待やコミュニケーションの失敗は、まず、承認それ自体が、実践的な目的に関することであり、場合によっては、抵抗に対して闘争しなければならない条件である。したがって、「承認をめぐる闘争」は、正常な事態ではなく、社会的な相互作用の境界事例なのである(vgl.Siep 2009a: 197f; vgl. Wigger/Equit 2010; Equit 2011)。」(p.94、黄色正田)


「すなわち、人間形成論に対していえることは、承認論の体系を取り出すことでもなく、承認論の目的規定を読み取ることでもない。経験的に内容豊かな人間形成論は、制度的要求、社会的規範、個人の野心や戦略の克服との連関の具体的な分析とかかわりあうべきである。人間形成論は、また、承認論が内容的にではなく構造的に内包している相互関係の規範を志向しているだけではない。その意味で、教育学的に提案された人間形成過程は、権力と依存によって特徴づけられ、そのなかで承認は常に、アンビヴァレントでありうるような非対称的な相互行為と関係において遂行される。最終的に、人間形成は、自己自身、他者、世界と人間の関係として、把握される。それゆえ、自己意識の構成は、他者の承認を通して、人間形成のある(重要な)側面だけを把握する。したがって、人間どうしの関連は、道徳的、社会的、自然的世界において発生し、自分自身との関係は、道徳、社会的なもの、自然の世界と互いにかかわりあって形成された成果でもある。」(同)


 ふーふー、やっぱり文章がむずかしいから少し長めに引用してしまいました。私がもう少し賢くなったときに正しく理解できるように。

 まあおおむね、「人間は他者との相互作用で成長する」という意味のことを言っているのでほっとしますね。アメリカですかね、一時期「外発と内発」とかめんどくさいことを言ったのは。あのフレームワークを使う人と話すのは疲れるんだ。


 ここまでが本書のほぼ前半部分です。後半は、承認論をもうちょっと進めるのに加え、ドイツにおける教員養成の問題なども取り上げています。

 少しつかれたので本記事を(上)として読書日記を二部構成にしたいと思います。(下)はまた今度。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与