さて、今日の記事は正田のアホみたいに真面目な性格が書かせる、1つ前の記事についての補足です。


 1つ前の記事「ある少女の転落と『承認』、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)」では、ヤニカというドイツ人の少女の非行に至った過程に「承認欲求」と「承認の不在」がどうかかわったか、というお話を書きました。


 こういうお話は世間にごまんとあるはずで、ひょっとしたら承認欲求の極端に強い性格が犯罪とか非行に関連づけられる、なんていう結論がいずれ出るかもしれません。

 いっぽう。

 当ブログでは従来あまりご紹介しなかったタイプの話なのでそこそこインパクトはあったかもしれませんが、やはりこのタイプの話を紹介することは誤解を招くおそれもあり、今後はちょっと控えようかと思います。


 といいますのは、何度も書きますように、2011-13年ごろに出た世間の「承認欲求本」で「承認欲求」と「若者の非行」を関連づける言説というのは既に出尽くしたぐらい出ているからであります。そうした書籍に出てくる「承認欲求」はグロテスクであります。

 そちら側からばかり「承認欲求」を語っていると、まるで「承認欲求」が非行に走る少年少女にだけ特有の危険な性質のもの、というふうに見えかねません。

 恐らくその文脈の上に、昨年の有名な心理学本の「承認欲求は満たされると思うな」という、悪者扱いしているかのような記述があり、それを読んだらしい人の「僕には承認欲求はありません(注:正田の観察では本当はありあり)」という言葉や態度になったのだと思われます。

 しかし、それは非常に偏った見方です。

 3つほど前の記事に書きましたように、「承認欲求」は「食欲」と似ていて、適切に満たしている限りよいものです。まれに極端に強い「承認欲求」の持ち主がいて、問題行動につながる、そういう時にだけ意識されやすいですが、本来そんな極端なものではありません。だれしも程度の差こそあれ「承認欲求」はもっていて、普通は常識的な範囲に収まっています。そしてだれにとっても、「承認欲求」は「良い仕事をしよう」というモチベーションになります。むしろ、「自分には『ない』」などと自分に言い聞かせやせ我慢をしていることのほうが、問題が多いです。それこそ問題行動につながったり、こころを病んでしまうかもしれません。

 
 ですので、「問題行動に走ったとき初めて『承認欲求』に注目する」という態度自体をやめたほうがいいのです。
 それは、まかない係の怠惰ゆえに飢餓状態に追い込んでいるようなものです。

 普通に「与える」ことを習慣化してしまえば、ほとんどの人は良い方向に行き、学業成績が上がったり有能になります。少数の例外として、ますます欲求がこうじてエスカレートしてしまうタイプの人がいるだけです。

 「承認欲求」は、決して、虞犯少年少女だけが持ち合わせているものではありません。
 この記事を読んでいるあなたにも必ずありますから、安心してください。
 

 なので今日の記事はほとんど、3つ前の記事「長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について」の焼き直しのようなものですが、

 「ヤニカ」の事例のインパクトのために、このブログが慎重に避けてきた「承認欲求」に関する誤解を招いてしまうと非常にもったいないことになるので、あえて再度この記事を書きました。


 「承認」は、「普通に」与えましょう。「与える承認」は非常に大人の行為で、美しいものです。

 欠乏状態は異常なので、つくらないよう努力しましょう。また、常識的な範囲の「承認欲求」をやせがまんすることもやめましょう。
 



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 追記:
 でもまた思いました、
 正田は時々立ち回り先で人様からひどいことを言われることがあるんだけどあれはどういう心理なのだろう?と考えたとき、その人は「ヤニカ」の状態なのだなあ、と思いました。自分を承認してくれない学校を全否定しているのだなあと。
 正田が象徴する「承認」の「学校」のような世界では、「承認」の実践者のマネジャーたちが奇跡のような成果を手に入れ、かつ正田から心からの賞賛を受けます。
 「承認」の実践者でない人はそのような賞賛は得られません。実践者がもらう賞賛の甘美さを知っている傍観者の人たちは、そこで「承認されない」気持ちを味わいます。学校で「ダメ生徒」のレッテルを貼られたような。あるいは「その他色々」に分類されたような。
 そこで、その人たちは自己イメージを守るために、「学校」や正田を全否定することで仕返しをするのです。
 正田なんにも悪いことしてないのに。
 そういうことが続いてきたから正田は疲れちゃったんだなあ。
 
 こういう読み解きのツールになるから、「ヤニカ」のエピソードがあったことはわるくないですね。