「内発的動機づけ」がまたリバイバルブームなのでしょうか。

 NPOリーダーのためのブログでエドワード・デシの「内発的動機づけ」が紹介されており

 http://npotips.seesaa.net/article/52577385.html

(正田は元NPOリーダーのくせにこの記事を知らなかった)

 きのう話をされたNPO関係の人はこれを金科玉条にしているのかな、と思いました。

 ググってみると有名な自己啓発セミナー会社のサイトにも「内発的動機づけ」は大きく載っております。ちなみに正田は自己啓発セミナーが差し違えたいぐらい嫌いであります。


 エドワード・デシの『人を伸ばす力』については、当ブログでは2011年暮れに読書日記を書いています。れいの『報酬主義をこえて』とのからみです。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51781122.html


 要は、「外発・内発っていう分け方自体にあんまり意味ないよね」というのと、「内発的動機づけが一番好きな社会人は、大学の先生とかの一人作業で仕事する人なんじゃないの?」というものです。例によって、「大学の先生は自分たちのことを研究するのが好き」なのです。


 正田は、例えば子供や若者が新しく何かに習熟する時、初期には指導者からの励ましや褒めなどの「外発的動機づけ」の出番が多く、次第に習熟すると作業そのものの手ごたえが楽しくなり報酬系が活性化されるので、いわゆる「内発的動機づけ」の状態になるだろう、報酬系を回すガソリンが交代するだけの話だ、それでも外発的動機づけの仕事はなくなるわけではない、というようなことを過去に書いていますが、

 ちょうどこれと同じことを、1991年に国内の研究者が言っています。

 https://kaken.nii.ac.jp/d/p/03610044


 デシが『人を伸ばす力』を書いたのが1996年だったが、その5年も前に国内ではこういう研究がちゃんとなされていたのです。

 ほらね、正田ってあんまり間違わないでしょ?

 ・・・あと、デシのファンの方には申し訳ないですが英字のWikiでデシの扱いは小さいですね。行動理論家たちに比べてはるかに小さいです。行動理論は、初期のスキナーの頃には一部確かに同意できない主張もありますが例えば学習された無力感やポジティブ心理学のセリグマン、アサーションや系統的脱感作法のジョゼフ・ウォルピ、模倣学習理論のバンデューラなど、良心的ないい心理学者を輩出していますよ。


 身近な人の例としては、あるアーチスト(音楽家)の知人がいました。彼女は難病を抱えたアーチストとして学校関係にも講演兼演奏会をするのですが、子供たちに「夢はある?」と問いかけ、「今の子は夢がない」と嘆いていた。自分は小学校の時から「アーチストになる」という夢を持っていた、と言いました。

 それについてわたしは多少批判的に、「夢をもつとき、普通は身近な人からの褒めや励ましがあって自信をもったから夢をもったのではないだろうか。何もない状態で夢を持てただろうか」とぶちぶちブログに書きました。

 すると彼女は新しく思い出したようなのでした。

 その次の講演兼演奏会で、「私を褒めてくれた学校の先生がいた」と彼女は言いました。
 他に取り柄のなかった私のピアノの演奏を褒めてくれた。
 通信簿で彼女の音楽が4か5か微妙なとき、ほかの成績のいい子の5をつけかえて私を5にしてくれた。

 その後お母さんの勧めもあって、彼女は中学時代に「演奏家になりたい」と心に決めた、といいます。


 そういう、記憶の改ざんのような現象もあいまって、何しろ「内発」「自己決定」「目標を持つ」などは快楽物質のドーパミンの仕事なので、刺激がきついのです。いっぽう信頼する先生やお母さんにほめられ励まされたのは、たぶんオキシトシンやセロトニンのマイルドな喜びであり、ドーパミンに比べると記憶に残りにくいのです。でもたぶんオキシトシンが出たからドーパミンも出たのです。


 わたしがなんでこんなに「内発と自律」のモチベーション論に神経をとがらせるのかというと、それが主流になってしまうと、まず「権力者の怠慢」が起こるからです。モチベーションを喚起するような上司・先輩からの介入が不要だ、ということになってしまうからです。
 そして、権力者の側はちょっとほっとくといくらでも怠慢になれるのです、古今東西。

 かつ、地位の低い人たちに関しては、目標や夢を持つことができるのはとりわけ日本人では少数派なので、(平本あきお氏の「ビジョン型と価値観型」のフレームワークに割合わたしは同意するほうです。わたし自身は価値観型だと思います)目標を持つことができた人だけが「勝ち組」になり、残りの人は落ちこぼれる、ということになりかねない。

 たとえば貧困問題の解決のために何をすべきか。ごくまれに夢や目標をもって、アメリカンドリームみたいに貧困層から成りあがった人がいるとする。では、すべての貧困層の人が夢を持って立志伝中の人になることが解決になるのでしょうか?社会の構造的な問題を何とかしないといけないのではないですか?自己責任論にまでなっちゃいますよね。私リバタリアンじゃないので。

 また、社会福祉的には、昨日のパネルディスカッションでどなたかいみじくも言われたように、「寝たきりのおとしよりにどう夢を持たせられるのか。それを家族介護している人もどう夢を持てるのか」というのもあります。認知症の人では前頭葉が縮小する、実行機能がなくなるのですから夢とか計画どころではありません。でも自分の「尊厳」を感じる力は残っているのです。もちろん不幸にも災害に遭った人も同様で、夢を持つどころではない精神状態の時期が長いでしょう。
 


 色々ありますが、1つ前のブログ記事を借りてお客様のご協力をいいことに、「あんたら内発と自律方式でこれと同じことやってみろよ」と思います。現実に「効く」ほうを使ったほうがいいじゃないですか。


 で、「承認方式」では「内発と自律」は全然要らないのかというと、あります。ちゃんと組み込んでいます。

 相手の「内発と自律」が存在するならそれを尊重するのが「承認方式」です。

たとえばわたしの最初の子は誰に似たのか「じぶんで〜!」とか「やーだ」が口癖の我の強いおこさまでしたが、彼女の「内発と自律」を尊重して延々と自分でお着替えするのを手を貸さずに待ちました。その子は高校ぐらいからリーダーになりました。二人目の子はそんなに「じぶんで〜!」が強くなく手が止まることも多かったので、もう少し手伝ってやり、でもできるだけ最小限にして自分でやることを多くしていました。本人たちにとってはそれは「内発と自律」でしたがこちらからみると彼女らの「内発と自律」を「承認」していたわけであります。

 以前ヘーゲル承認論の中で「間主観性」という概念に触れましたが、人はその人の主観だけで生きていけるわけではないのです。主観に即していえば「内発と自律」、しかしそれを「承認」してくれる他者がいなければ「内発と自律」を発揮することはできないのです。

 内発的な動機というと、たとえば「価値観」というものがあります。人を思わず知らずある行動をとるようにプログラミングしているもの。(自閉症の人では、それは「常同行動」という形をとります。)


 「相手の価値観を尊重せよ」は、「承認マネジメント」にもちゃんと組み込んであります。

 ただ、企業活動ですから働き手の側もその企業の価値を尊重しないといけません。というか、本来はその企業の理念に共感して入ってくるのが筋です。

 ある程度仕事に習熟した働き手には仕事を任せ、相手の内発的自律的働きにゆだねることも承認。

 ちょうどきのうのお客様のところでは、2年目の若手クンが「〇〇をしましょうか?」という言い方から「〇〇をやります」という言い方に、「承認」後に変わった、というお話も出ました。「承認」によって「内発」「自律」も育つ、というのは以前から明らかだったことです。大学の先生ってこういうことを知らないんでしょうか。

 目標を持つ力がついてきたら目標を設定させることも承認。

 何か文句あります?


 なので、「承認マネジメント」と「内発と自律」は、「含む、含まれる」の関係なんです。ごめんなさいね。あたしの方が大きくて。「内発」は大事なことではあるけれど、指導者が「大事だ」と頭に入れておけばいいことで、「内発さえあれば外発は要らない」「アメとムチ」などという論の立て方は大変おかしなことなのです。



 自己決定感とか自己有能感とか、「モチベーション」に関わる用語は色々あります。でもどれもドーパミンがらみの概念です。いっぽう承認マネジメントの世界では、独特の「みていてくれるんだなあ」という感覚があります。拙著『行動承認』で初めて出てきましたが、その後の研修でも繰り返されています。まだ、学術的な名前はありません。

 この「みていてくれるんだなあ」の感覚に、どなたかかっこいい名前をつけていただけないものでしょうか―。
ひょっとしたら経営学史上に名前が残るかもしれないですよ?



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与