『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(広井良典、2015年6月、岩波新書)を読みました。

(すみません、最近読書日記の長文化が続いています。今度はワード18pになりました。ご容赦ください。)

 現代を「第三の定常化社会への移行期」と規定する著者の最近の集大成と位置づけられる本。

 コンパクトな中に非常に多数の分野、多数の研究群を渉猟しながら大きなパラダイムを浮かび上がらせ、そして日本のすすむべき未来(緑の福祉国家/持続可能な福祉社会)を提言しています。

 この著者の近年の著作『コミュニティを問いなおす』『創造的福祉社会』『人口減少社会という希望』などの集大成であろうとともに、著者自身の科学への関心をも盛り込んだ、とあとがきでは述べられています。

 内容的には新書何冊か分を集約している感じで非常に多数の話題が登場するので読みやすい本とは言い難いのですが、さっと読んだだけでも主張が明快に抵抗なく頭に入ってくる、というのは、恐らく著者の簡にして要を得た「文体の力」と、所々に出てくる「ブレードランナー」「インセプション」などの映画の話題、手塚治虫の「火の鳥」など、サブカルチャーからの引用がありイメージが喚起されやすいことなどからくるのでしょう。けっして衒学趣味的な読後感は持たれないでしょう。

 ―「文体」に関しては、ヘーゲル哲学の晦渋を極めた文体に泣かされた身としては有難さが身に沁みますね。

 たぶん、当ブログの長い読者の方は、本書の時代認識と未来への提言について、直感的に同意される方が多いと思うのですが、それが全体としてどういう論考から成っているのか、というところを少し丁寧にフォローしてきたいと思います。
 
 では恒例の抜き書きです。今回は引用多数となります。(引用下線)

 人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と「定常化」の時代の交代として把握することができ、次のような三回のサイクルがあったととらえることができる。(pp.1-2)
第一のサイクル:現生人類(ホモ・サピエンス)が約20万年
第二のサイクル:約一万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟
第三のサイクル:主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期
 これについて本書ではアメリカの生態学者ディーヴェイの世界人口の長期推移についてのモデルを提示しています。グラフから、ほぼそうした曲線を描いているのがわかります。

 こうした人間の歴史における「拡大・成長」と「定常化」のサイクルは、人間の「エネルギー」の利用形態、あるいは「人間による“自然の搾取”の度合い」から来ると本書はいいます。狩猟採集の場を各地に求めてホモ・サピエンスは地球上に広がり、そして狩猟採集のみでは十分な食料確保が困難になったとき、約一万年前に農耕を始めた。そして共同体的秩序や階層や格差が生まれた。
 農耕段階が資源・環境的制約にぶつかって成熟・定常化すると、ここ200〜300年の工業化の時代に入る。(pp.3-6)

人間の歴史の中でのこの第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるというのが、本書の基本的な問題意識となる。(p.6)

 そして、「思想」の誕生。「人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれた(p.7)と本書はいいます。「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」という現象。第一のサイクルの中で加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が約5万年前に一気に現れた。第二のサイクルでは、現在に続く「普遍的な原理」を志向するような思想が地球上の各地で“同時多発的”に生まれた。すなわちインドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、中東での旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などがそう。最近の環境史という分野では、この時代、これらの地域で農耕と人口増加が進んだ結果として、森林の枯渇や土壌の浸食等が深刻な形で進み、農耕文明が最初の資源・環境制約に直面しつつあったといいます。本書は、仮説と断りつつも、「これら普遍思想(普遍宗教)の群は、そうした資源・環境的制約の中で、いわば「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導くような思想として、あるいは生産の外的拡大に代わる新たな内的価値を提起するものとして生じたと考えられないだろうか」と提起します。定常期とはむしろ豊かな文化的創造の時代だ、とも(p.7-9)。

 そこで、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や、第二サイクルで生まれた普遍宗教に匹敵するような、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか という問題提起にもつながります。(p.10)

 このあとは今後のシナリオとして2つの両極端が示されます。

 超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義。言い換えれば拡大・成長と定常化と。この2つの方向性がせめぎあいながら、21世紀は定常型社会への移行の世紀となるだろう、本書の大きな見解としてはそうです。

 前者・超(スーパー)資本主義は、「21世紀は『第4の拡大・成長』の時代となるはずだ」というビジョンに基づいています。著者は、「そのような技術的な突破の可能性があるとしたら、以下の3つが主要な候補として考えられると思う」と、第一に「人工光合成」、第二に「宇宙開発ないし地球脱出、第三に「ポスト・ヒューマン」とその候補を挙げます。(ただし著者自身はこれらに懐疑的であるとも述べます)

 ―このあとの「ポスト・ヒューマン」論では、「共同主観性」という、以前ヘーゲル承認論の中でわたしが引きつけられた「間主観性」の概念に似たものが出てきたり、「ソーシャル・ブレイン」が出て来たり、子供のころ親しんだ荘子の「胡蝶の夢」が出て来たりして楽しめました。先月ぐらいに「全部わたしの妄想なのではないだろうか」と言ったばかりですね。「共同幻想」というのは「会社の理念」もまさしくそういうところがあるのですが。

 このなかでおもしろい記述としては、AI(人工知能)に関する記述をひとつご紹介しておきましょう。

 …逆手をとって、AIと人間(ないし生命)を“融合”させていけばよいではないか。そして、AIのすぐれた面(上記のような情報処理能力の速さや記憶容量の大きさ)と人間のすぐれた面(生存への志向とそこから派生する世界の「意味」づけ、あるいは他者との共感能力等々)を組み合わせれば、いわば“最強の存在”―それを「人間」と呼ぶかどうかは別として―が生まれるはずではないか。(p.15)

 ―人間のすぐれた面として、「生存への志向とそこから派生する世界の意味づけ」としているところが興味ぶかいですね。「共感能力」については、ひょっとしたら近い未来に機械に代替されるかもしれない、という気がしています。人間の中にもそれが低い人は多いですし。

 ―さあ、前提の「おさえておきたいこと」のところだけで随分長くなってしまいました。やっと本論にまいります―

 資本主義とは、なにか。
 本書は、「純化した把握」として、
  資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム」と呼びます。

 「市場経済=悪」ではない。資本主義と市場経済が異なる点は何かというと、それは最終的に「拡大・成長」という要素に行き着くのではないか、と。(「G(貨幣)―W(商品)―G’(貨幣)」)資本主義は「そうした(量的増大を志向する)経済活動を広く社会的に肯定するシステム」だ、とも呼びます。

 こうした資本主義精神を象徴するものとして、第二サイクルから第三サイクル、すなわち定常から拡大へ移行した時期に登場したバーナード・マンデヴィル(1670-1733)という思想家の「質素倹約といった個人のレベルでの“美徳”は社会全体の利益にはつながらない、逆にこれまで道徳的に悪とされてきた、放蕩や貪欲といった行為、一言でいえば限りない私利の追求という行為が、結果的にはその国や社会の繁栄につながり、また雇用や経済的富も生み出す」という主張があります。(pp.28-34)

 では、マンデヴィルのいうような放蕩や貪欲、私利の追求はその後の時代でなぜ可能になったのでしょうか。わたしたちの属する「第三の拡大・成長」期すなわち(近代)資本主義と呼ぶものの中心は、自然資源の圧倒的な規模での開発と搾取という、食糧・エネルギーの利用形態の根本的な転換にあった、と本書では言います。
 ここでは二つの次元が関係し、すなわち

(1)「個人―社会」の関係……個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理【個人の独立】
(2)「人間―自然」の関係……人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理【自然支配】
と言います。(pp.36-37)

 さて、こうした資本主義は、実は「科学」―正確には「(西欧)近代科学」―の基本的な世界観や態度と同じ構造をもっているのではないか、と本書。

 17世紀の「科学革命」以来の「科学」は2つの基本的特質をもっていた。すなわち、
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」


 こうした特質は、「資本主義の2つの次元」として上記に挙げた要素と重なる、といいます。いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)」という、共通の世界観や思考から派生した営みであると。(pp.38-40)

 このあとは資本主義の歴史の概観になります。お詳しい方は飛ばして読んでいただいたらいいのですが、ジョン・ステュワート・ミル(1806-1873)は19世紀半ばに「定常状態」論を提起しています(『経済学原理』1848年)。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったといいます。
 そして20世紀、ケインズの登場。ケインズは、経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の「需要」であり、しかも人間の需要は政府の様々な政策によって誘発ないし創出することができる、これにより不断の経済成長が可能であると主張しました。人々の需要や雇用という、市場経済ないし資本主義の“根幹部分”を政府が管理しまた創出することができるという、これは資本主義の根本的な“修正”と言えるものです。国家あるいは政府の政策目標として「経済成長」が語られるようになったのは比較的最近のことであり、第二次大戦後のケインズ政策の時代だったといいます。また経済成長の指標である、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)も世界恐慌後のこの時代につくられました。「“GNPの起源”としての世界恐慌」と言うこともできます。
 一方で近年のブータンの「GNH(幸福総生産)」をはじめとする様々な幸福度指標、またスティグリッツやセンといった経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行するなど、「豊かさ」の指標に関する動きが活発化していることについて、本書の解釈は:

 ちょうど世界大恐慌がGNPという新たな指標を要請し、それがケインズ政策と連動していったのとパラレルに、現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(pp.45-51)


 次に、「科学国家=アメリカ」と「福祉国家=ヨーロッパ」というコンセプトが出てきます。

 ケインズ政策的枠組みにおいて、他国に比べて「科学研究」への公的投資に圧倒的な力を注いできたのが第二次大戦後のアメリカであり、他方、社会保障を通じた再分配に優先的なプライオリティを与えてきたのがヨーロッパであったと言える。象徴的に、前者を「科学国家」、後者を「福祉国家」と呼ぶことが可能であるだろう。(p.53)

 
 
外的な限界と内的な限界。ローマ・クラブによる「成長の限界」(1972年)はミルの定常論に次ぐ、第二段階の定常経済論と位置づけることができ、それは工業化の資源的限界という歴史的局面と呼応していた。これを“外的な限界”とすると、同時に“内的な限界”という状況も起きた。すなわち、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるということを想定し続けられなくなるという限界。
(p.56)

 80年代以降には2つの動きが起こり、「成長の限界」論がいったん“後退”する。その動きとは、
情報技術の展開とも一体となった、アメリカが主導する金融の自由化とグローバル化
いわゆるBRICsに象徴されるような新興国の台頭と工業化
しかしそうした新たな展開(特に 砲、少なくともいったん明確な形で破綻したのが2008年のリーマン・ショックだった、と本書。(pp.57-58)

 ここまで駆け足で現代までの直近の状況をみてきましたが、今後を展望するための思考材料として、著者は「地球規模での少子化・高齢化の進展」を挙げます。中国をはじめアジア諸国でも高齢化と少子化は進行し、国連推計では世界人口は2100年には109億人で、2050年時点の人口推計は96億人と、21世紀後半はほぼ定常状態に入る。「21世紀はむしろ“高齢化の地球的進行”が進んでいく時代なのであり、それは自ずと人口の成熟ないし減少を意味する」と本書は述べます(pp.60-61)

 このような今世紀後半の展望を本書では「グローバル定常型社会」と名づけたり、国際政治学者の田中明彦の言葉を引いて「新しい中世」と呼んだりしています。(pp.62-63)

 さて、先にみたアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化は、この時期における科学・技術の新たな展開、すなわち情報技術とが文字通り“両輪”の関係であった、と本書。
 私たちが生きる今という時代はいわば「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべきである。(p.66)

 このあとリーマンショックに絡めて「期待の搾取」、また「観念の自己実現」という概念が出てきますが詳しくは割愛。後者から導きだされるのは、人間の経済とは、その基盤にある貨幣を含めて主観的な(共同)幻想ということになり、まさに“脳が見る(共同の)夢”になる。経済学者の西部忠は、そのような現在のシステムを改変していくためには貨幣そのもののありようを変えていくことが原理的に必要であるとし、それを踏まえて「コミュニティ通過」(ローカルな地域をベースとし、自立循環型の地域経済を確立するような、利子を生まない貨幣)を提案します。(pp.66-76)

 こうした、経済における期待や観念と現実の乖離をどう考えたらいいか。ここで本書は、

  ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか
と述べます。
 個人・共同体・自然をそれぞれ市場経済・コミュニティ・環境とリンクさせたピラミッ
ドの図が示され、最下層の「自然/環境」に着陸させる矢印があります。

 さて、近年「脳」と「意識」をつなぐ研究が脳科学の方から盛んにおこなわれているよ
うです。私はうっかりこのあたりの文献を積読して読みそびれているのですが、本書では
アントニオ・ダマシオの主張、「事故や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生
まれる『原自己(protoself)』があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といった
ものを考えることはできないという議論を紹介します。こうした脳科学の側からの人間認
識が、「市場経済をその土台にあるコミュニティや自然につないでいく」という方向、すな
わち「脳」をその土台にある「身体」に“着陸”させるような方向ともつながるものだ、
と本書は主張します。
 これは著者のかなり以前にさかのぼる「私(自己)の重層構造」という理解にも対応し
ているとします。
A 個人の次元:“思考する私”(=反省的な自己ないし自我)
B 共同体の次元:“コミュニティ的な存在としての私”(=他者との関係性における自己)
C 自然の次元:“身体的な私”(=非反省的な自己ないし個体性
)(pp.80-81)

 という、私流の造語では「自己の身体性」というお話になるのでした。これは、デカルトに限らず哲学書を読んでかならず突き当るフラストレーションと同じで、「思考する私」が、「身体性」から離れて思考しているときその思考の結論を正しいと認めてよいか?という問いにもつながるでしょう。現代のわが国の少壮哲学者にもそれを思うことがあるな。

 さて、第II部「科学・情報・生命」では、

 科学国家アメリカ。戦後アメリカは軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきました。たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIH(国立保健研究所)の予算が締めています。ところが、主要先進諸国の医療費の規模と平均寿命をみると、アメリカは医療費の規模(対GDP比)が先進諸国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆にもっとも低いという状況があります。;">つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りのするものとなっているのです。著者は、日本版NIH構想のような動きがいわゆるTPPとも一体となり、アメリカのような私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化など、アメリカの医療システムの“悪いとこ取り”とも言うべき事態が進んでいくことを危惧します。(pp.84-91)

 ところで、医療や健康をめぐるテーマを考えていくに当たって「社会的(ソーシャル)」な要素や側面が重要になってくるということを、近年の諸研究が示唆しています。これは19世紀に成立した「特定病因論」という考え方から、それだけでは解決できないうつや慢性疾患に対応するために新たに発展したものです。「社会疫学」という分野は、「健康の社会的決定要因」という基本コンセプトに基づいています。(pp.92-93)

 そして私がここで注目したいのは、このように、「個人」あるいは個体というものを単に独立した存在としてとらえず、他者との相互作用を含む社会的(ソーシャル)な関係性の中でとらえたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動といったものに焦点を当てるような研究が、近年、文・理を含む様々な学問分野で、“百花繚乱”のように生成し発展しているという点だ。(p.94)

 ここでは、『共感の時代へ』のドゥ・ヴァールやオキシトシン研究のポール・ザック、ソーシャル・ブレイン研究など、当ブログでおなじみの著者や文献名が出てきて嬉しくなります。

 こうした諸科学は、「独立した個人」というものを基本に置き、また(経済学などでは)そうした個人は“利潤の極大化”を追求するという個体中心のモデルを想定した近代科学のパラダイムとは異質な要素を含む、科学の新たな方向性を示すものととらえることができるだろう、と本書。
 関係性や人間の協調性等への注目といった点自体を含めて、そうした科学や知のあり方(ひいてはそこで提示される人間観や自然観等々)の全体が、その時代の経済社会の構造変化や環境等によって大きく規定されているのではないか(p.97)

 そこで再度17世紀のマンデヴィルの例を引き、
 およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか(p.99)
という著者の考察が述べられます。

 近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(同)
 さらに一段進めた考察として、
 「情報」を含めてこうした科学の流れは、(略)近代科学が上層の「個人」のレベルから、その視点や関心を中層のレベル(情報やコミュニティ、個体間の関係性に関するレベル)にシフトさせてきたととらえることができるだろう。(p.101)
と、述べています。
 
 このあとの章では自然観や生命観にまつわるかなり深い議論が出てきます。(pp.103-115)
・ニュートンが代表する、機械論的自然観。(ニュートン自身は彼の古典力学の「力」について、キリスト教の神と結びつけて理解していたという)
・またデカルトが代表するような、「人間と人間以外」との間に本質的な境界線を引く立場。
・続いて、「生命と生命以外」に境界線を引く立場。ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュ(1867-1941、「エンテレヒー」という概念を唱える)がその代表で、ドリーシュは生命には因果論的把握に還元できない“目的性”をもつ、とした。物理学者シュレディンガーの「生物は負のエントロピーを食べて生きている(無秩序から秩序を生み出している)」という議論がそれに続く。
・最後は、非生命―生命―人間をすべて連続的なものととらえる見方。ベルギーの化学者イリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学に関する議論が代表。非生命にも秩序形成(自己組織化)がみられるとする。「それは、自然そのものの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開していく中で生命、人間(ないし精神)といった存在が生成していったととらえる、いわば一元論的な世界像とも言える。」(p.112)

 ここで著者は、上記の4つの立場のうち、1つめと4つめは実は「共通しているものがある」と述べます。ニュートンらの機械論的な把握なのか、森羅万象は生命も非生命も一元的であるとするアニミズム的把握なのか。
 “機械論ですべてを説明しようとしていったら、人間と人間以外、あるいは生命と非生命の境界線がなくなり、新しいアニミズムに回帰していく”というのが現代の科学において生じつつある状況ではないだろうか。(p.115)

―ここまで読んでわたしは、つい、最近の自分のモチベーション論を化学物質の話に置き換えたり、人の能力低下の状態を「脳のどの部分が縮小したから」と説明したりする議論の癖に思いをいたしました。機械論的一元論良くないのかな、と思うこともあったが実はかまわないのカナ。

 次の段階の議論。本書は、これまでの近代科学の本質的な特質には2つの柱があるとします。
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」
(p.116)

 するとこれからの新たな科学のありようを考えるとしたら、両者について、近代科学が前提としたような方向ではないあり方が可能性として考えられる、とします。すなわち、人間と「自然」「共同体」それぞれの関係性であります。
・(1)については、人間と切断された、かつ単なる支配の対象としての受動的な自然ではなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然という理解。また、一元的な法則への還元ではなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に注目するような把握のあり方。
・(2)については個人ないし個体を共同体的な(ないし他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性(generativity)を含む長い時間軸の中で位置づけるような理解。また要素還元主義的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方。
(p.120)


 ―ここで述懐:正田のマネジメント論というか、「人、物、金」の人に特化したマネジメント上の困り事に対応するやり方というのは、上記の「(1)については」の後半、多様性や個別性に徹底して着眼する。それはおおむね「正解」なようで、困り事は大概直ってしまう。たんに今までにない視点でものを考え、今の時点であまり有名ではない物差しを使うせいでもあると思うが―、

 デカルト的な人間中心の自然観からアニミズムへ。
 近代科学はある意味で、”新しいアニミズム”とも呼ぶべき自然像に接近しているともいえるのである (pp.122-123)

 ただしそれは、かつてのアニミズム的な自然観への単純な回帰ではない。(略)近代科学の機械論的自然観が展開をとげていったその先に、つまり自然や生命についてのより分析的あるいは俯瞰的な把握をへた上で、アニミズムと高次のレベルで循環的に融合していく、ともいうべき姿である(p.123)

 いよいよ、“解決編・提言編”ともいうべき、第III部に入ります。

 ここで提示されるグラフはいきなり暗澹となります。所得格差(ジニ係数)の国際比較。我が国はOECD加盟22か国で上から5番目と上位にあります。アメリカ、イギリス、スペイン、ポルトガル、日本です。下位にはノルウェー、アイスランド、デンマークと北欧諸国がきます。日本は1980年代頃までは大陸ヨーロッパと同程度の平等度だったが、その後徐々に経済格差が拡大し現在の状態になったのです。

 若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底には構造的な“生産過剰”がある、と本書。モノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは“より少ない人数で多くの生産を上げることができる”ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。結果として、“生産性が上がれば上がるほど失業が増える”という逆説的な事態が生まれているのだ。(pp.126-131)

 楽園のパラドックス。(ローマ・クラブが1997年に公にした「雇用のジレンマと労働の未来」による)
 過剰による貧困。生活保護の受給世帯全体が増加しているが、「高齢者世帯」「傷病・障害者世帯」「母子世帯」「その他世帯」の区分のうち、若者などを多く含む「その他世帯」の割合が顕著に増加している(1997年の6.7%から2012年には18.4%に増加)。さらに、過重労働によりストレスや過労や健康悪化に悩まされる。
 現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような事態が一層強まっていくだろう。(pp.132-134)

ここからは提言となります。
 “過剰”という富の生産の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題が互いに絡み合う形で存在している、という現状認識を踏まえ、本書は
(1) 過剰の抑制―富の総量に関して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
 を提言します。

 (1)の例としては近年のヨーロッパにおける「時間政策」を挙げます。そこでは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり“時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとします。

 「時間政策」は「余暇消費」増、創造性の向上、健康増進、失業率削減や貧困是正にも寄与する、地域活性化・コミュニティ再生にも寄与する、など多くのメリットがあると本書は言います。

 著者自身は「国民の祝日」倍増を提案してきたそうです。本音では休みを取りたいが「空気」の支配する職場では休みがとりづらい、そうした日本人の実像に照らした苦肉の策といいます。

 さらに一歩進めて、スピードをゆるめる「時間環境政策」というものも本書は提言します。生物学者の本川達雄(『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者)は、人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピードになっている(同時に縄文人の40倍のエネルギーを消費している)、しかしそうした時間の速さに現代人は身体的にもついていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間にとっての課題であると主張します。「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」(本川)進化医学という分野でも同様に、「遺伝子と文化(スピードも含めて)」のギャップ―人間の身体が適応できないほどに人間が作った環境が大きく変化したこと―が多くの病気の根本原因だというそうです。(pp.136-143)

 「過剰の抑制」に絡めてもうひとつ、「生産性」の概念の転換も本書は提起します。「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)」。かつては“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。現在は“人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。そこで「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要だと本書。

 経済的なインセンティブとしては1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策がとられるようになり、例えばドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」がそう。環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容。(pp.144-146)

 ここで福祉や教育という対人サービスの領域がもっとも“生産性が高い”領域として浮上する、と本書では言います。おやおや本当カナ。これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、「労働生産性」という物差しでは“生産性が低い”となるが、労働集約的であるということは“人手”を多く必要とする、それだけ“雇用を創出しやすい”ことを意味するのです。

 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。(pp.147-148)

 そしてこうした方向への転換は、市場経済にゆだねていれば自然に進んでいくものではなく、北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠になる、と本書は述べます。(p.150)

 提言編・次に「再分配の強化・再編」について。
 社会保障、社会的セーフティーネットの整備というのは資本主義の末端部分から根幹部分へ順次、分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった各時期の“危機”に対応する形で進んでいったと本書は言います。そこで今後展望されるのは、「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」であろうとも。
 著者の従来からの提言と重なりますが、次の3点を重要な柱とします。
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」の保障の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
 
 ここで、例えば相続の問題にも触れられます。「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」が無視できないほど浮上している、と現状認識を述べ、

 個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は、“自由放任”によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。(pp.160-161)

 人生前半の社会保障として「教育」があります。わが国は教育に対する公的支出が少なく、私費負担が多いというデータ。GDPに占める公的教育支出の割合を国際比較すると、一位のデンマーク(7.5%)のかノルウェー、アイスランド等北欧諸国が上位を占める一方、日本のそれは3.6%で、先進国(OECD加盟国)中で最下位という状況が5年連続で続いている(OECD加盟国平均は5.3%)。特に日本の場合、小学校入学前の就学前教育と、大学など高等教育における私費負担の割合が高いことが特徴的で、これは「機会の平等」を大きく損なう要因になっていることだろう(就学前教育における私費負担割合は55%(OECD加盟国平均は19%)、高等教育における私費負担割合は66%(同31%、以上2011年のデータ)。(pp.161-162)

 これは戦後の教育改革が存続する中で格差の累積や“世襲”的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう、と本書。「日本社会は、いわば放っておくと“固まりやすい”社会であり、」という記述があり、これはまったくその通り、とわたしも思います。変に「変えたくない」が強く出る。高齢化、長寿命化すると前の世代が決めたことを益々変えられなくなるかもしれません。

 またここに見られる「教育コストを公的に負担したがらない性格」は、企業研修にもまったく同じ現象があり、皮肉なことに国際平均との間の差の数値もよく似ています。「欲しがりません勝つまでは」を教育に関してやってしまっています。

 さらに社会保障の「世代間配分」に関しては、日本は社会保障全体の規模は先進諸国でもっとも「小さい」部類に入るのに、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいというデータが目を引きます。日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国でありこれらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴があります。高齢者の「世代内」にも大きな格差があり、全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で“逆進的”な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっています。(pp.163-166)

「ストックの社会保障」という概念。
 「所得」つまりフローの格差より「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差のほうが大きい。

 実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.311であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査、2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。(pp.168-169)

 土地所有に関してヨーロッパでは土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であるなど、「土地公有」が一般的なのだといいます。ここから、本書では今後は資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であるとし、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当を挙げます。(p.171)

これについてピケティの『21世紀の資本』では、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」そして「起業家は金利生活者に転身するのが不可避となる」と述べています。それは資本主義の終焉または自殺行為であるとし、それを回避するために「資産の再分配」が要請される。本書の記述によれば、「つまり資本主義的な理念を存続するために、社会主義的な対応が必要になるというパラドキシカルな構造があり、これは「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだとします。(pp.172-173)

 第8章「コミュニティ経済」。ここはほぼ過去の著作少なくとも1冊分の考察が収められている「濃い」章です。
 「ローカル‐ナショナル‐グローバル」という横軸と、「共」「公」「私」の原理の縦軸。
一般的には、
「共」〜コミュニティ →ローカル
「公」〜政府 →ナショナル
「私」〜市場 →グローバル
と対応するとします。
 しかし、16世紀前後からのプロト工業化、産業革命期以降の本格的な産業化ないし工業化の中で生じたのは、“「共」も「公」も「私」も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される”という事態だった、といいます。「国民経済」という意識あるいは実体が前面に出ることになり、「産業化(工業化)」の“空間的な広がり(ないし空間的ユニット)”は、ローカルよりは広く、グローバルよりは狭かったのです。「金融化=情報化」の時代に入ると、その最適な空間的ユニットはグローバル・レベルに移りました。(pp.177-185)

 そこで今後の展望は、
(1) 各レベルにおける「公‐共‐私」の総合化
(2) ローカル・レベルからの出発
という2点が重要になるだろう、と本書は言います。
 なぜなら、
 ポスト情報化・金融化そして定常化の時代においては、いわば「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向をもった人々の欲求が新たに展開し、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していくことになる。これらの領域はその内容からしてローカルなコミュニティに基盤をおく性格のものであり、その「最適な空間的ユニット」は、他でもなくローカルなレベルにあると考えられるからである<。(pp.185-186)

 ここでまた日本の社会資本という観点からみると、明治以降の日本における様々な社会資本の整備は、鉄道や道路などの社会資本が、徐々に普及しやがてその成熟段階に達するという「S字カーブ」として示されています。鉄道、道路、そして高度成長期後半には廃棄物処理施設、都市公園、下水道、空港、高速道路など“3つのS”があります。
 これら工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、いずれも「ナショナル」な空間範囲に関わるものでした。しかしそれらはすでに成熟・飽和状態に達しており、今後大きく浮上する“第四のS”があるとすれば、それは情報化・金融化の波でありグローバルな性格を持つもの。その後にくる“第五のS”としては、福祉(ケアないし対人サービス)、環境、文化、まちづくり、農業等、「ローカル」な性格の領域だろう、と本書は述べます。「言い換えれば、経済構造の変化に伴って、いわば問題解決(ソリューション)の空間的ユニットないし舞台がローカルな領域にシフトしているわけで、(略)“地域への着陸”という方向が今求められているのである。」(pp.187-190)

 地域においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済という展望は従来から著者の著作に繰り返し現れ「コミュニティ経済」と名づけられます。イギリスの経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐNEFという団体が2002年、「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱しています。
こうしたローカルなコミュニティ経済が比較的うまく機能しているのは、ドイツやデンマークといった国々だそうです。多くの都市で中心部からの自動車排除がなされ「歩いて楽しむ」ことができゆるやかなコミュニティ的つながりを感じられるような街があり、座ってゆっくり過ごせる場所があります。
 著者自身は「私見では」と断り、コミュニティ経済の例として「(a)福祉商店街ないしコミュニティ商店街、(b)自然エネルギー・環境関連、(c)農業関連、(d)地場産業ないし伝統工芸関連、(e)福祉ないし「ケア」関連 などを挙げています。(e)の例としては千葉県香取市の「恋する豚研究所」の試みを挙げます。(pp.190-197)


 著者自身がここ数年進めている「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」。

 ドイツではエネルギーの地域自給を目指す「自然エネルギー100%地域」プロジェクトというものが進められており、2012年現在でそうした自然エネルギー100%地域は74で、ドイツの面積全体の28.6%、人口では2000万人(24.2%)に及んでおり、なお急速に拡大中であるといいます。
 自然エネルギー拠点の整備というテーマはローカルな地域コミュニティの再生という視点とリンクしなければならないと著者は考え、そして「神社」「鎮守の森」に着眼します。全国の神社の数は約8万数千で(お寺もほぼ同数)、コンビニの約5万よりずっと多い。神社は単なる宗教施設ではなく、「市」が開かれたり「祭り」が行われたりするなど、ローカルな地域コミュニティの中心としての役割を担っていた、といいます。こうした鎮守の森と、自然エネルギー拠点の整備を結びつけ、福祉や世代間交流などの視点も総合化して進めていくというのが「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」です。

 そしてこうした試みは実際に進んでいて、岐阜県と福井県の県境にある石徹白(いとしろ)地区という場所で、地域再生機構というNPOが小水力発電を通じた地域再生事業を進めています。そこはかつて白山信仰の拠点として栄えた地域であり、「小水力発電を見に来ていただく方には必ず神社にお参りいただいています」というのだそうです。
 鎮守の森以外にも、学校、福祉・医療関連施設、自然関係(公園等)、商店街、神社・お寺なども、自然エネルギー等とうまく結びつけコミュニティで循環する経済を築いていくことがポスト成長時代の日本における中心的な課題になるだろう、と著者は言います。(pp.200-204)

 ここで、「緑の福祉国家」「持続可能な福祉社会」というコンセプトが出てきます。

 資本主義が様々なレベルの格差拡大と過剰という構造的問題を抱えていることへの対応として、
(1) 過剰の抑制(2)再分配の強化・再編(3)コミュニティ経済の展開
という3つの方向があり、(1)〜(3)を含んだ全体を「緑の福祉国家」ないし「持続可能な福祉社会」という社会構想と本書は位置づけます。

 「福祉」と「環境」を結びつけて論じることは奇異に、また理想論にみえるかもしれませんが、おもしろいことに両者には一定の相関がみられるようなのです。

 本書p.211のグラフでは、ジニ係数を縦軸、環境パフォーマンス指数を横軸にとったとき、メキシコ、トルコ、アメリカ、韓国、日本は同一グループに属し図の左上に位置します。「高ジニ係数、低環境パフォーマンス指数」のグループです。また図の右下には格差が相対的に小さく、環境パフォーマンスが良好な国があり、スイスやドイツ、北欧などがあります。

 ―このグラフは大変興味深いですが、このブログには図表は引用しません。見たいかたは本書をお買い求めくださいね―

 なぜ、こうした相関が起こるか。前者の諸国では、おそらく競争圧力が高く、再分配への社会的合意も低いので、「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるのだろう、と本書。  逆に後者の「格差小、環境パフォーマンス良」の諸国では、
競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体をお拡大しなければ幸せになれないという発想ないし“圧力”は相対的に弱くなるだろう。

 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。(pp.209-213)
 
 −このあたりは力のこもった記述であり少し長く引用しますね−

 日本の抱えるマイナス要素。わが国では、経済格差は大きい部類に入り、労働時間も長く、「社会的孤立度(家族や集団を超えた人とのつながりの少なさ)」も先進諸国の中でもっとも高く(世界価値観調査での国際比較)、年間の自殺者がなお2万5000人程度存在する(2014年)、「人生前半の社会保障」も不十分である一方、国の借金は1000兆円を超え先進諸国の中で突出した規模になっている。
 それらの根本的な背景として、日本においては、(工業化を通じた)高度成長期の“成功体験”が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から(団塊世代などを中心に)抜け出せず、人と人との関係性や労働のあり方、東京‐地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカ―日本―アジア」という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型のモデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。(p.214)
 
 さて、最終章では、「市場の失敗」、手塚治虫の「火の鳥」の生命観、文化の多様性、エピジェネティクスなどの話題が出てきますが、最終的に
「『ポスト資本主義』の社会構想が求められているということと、生命の内発性や「関係性」、多様性・個別性に関心を向ける新たな科学のあり方が様々な領域で“同時多発的”に台頭していることはパラレルな現象なのである」と本書は述べています。

 本書の主張としてはこれでほぼ大団円を迎えていると思いますが、わたしの個人的な興味で、「思想」のもつパラドックスのところも抜き書きをしておきたいと思います。

 “第二の定常化”の時代に生成した枢軸時代/精神革命の諸思想、仏教、儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学など。共通していたのは特定の民族や共同体を超えた「人間」あるいは「人類」という観念を初めて持ち、そうした人間にとっての普遍的な価値原理を提起したという点にその本質的な特徴がありました。それぞれ風土的環境を反映した特徴はありましたが、「普遍性」への志向という点は共通していました。またある意味でいずれも「幸福」の意味を―たとえばキリスト教の愛、仏教における慈悲、儒教やギリシャ思想における「徳」―といった形で説きました。
 さらに、これらの諸思想は、「普遍性」を“自認”するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていました。
 つまり、およそ思想というものは、自らの考えの「普遍性」を自負し主張する度合いが強ければ強いほど、互いに両立が困難になるだろう(これは象徴的には“複数の普遍”は可能か、という問いの形で表現することもできる)。(p.238)
 現代のような時代においては、キリスト教とイスラムの対立を含めて、普遍宗教同士が互いにそのままの形で共存するのはきわめて困難な状況になっている。(p.239)

―耳の痛いところです。正田がときに狭量な記事をブログアップするのは、自分的には妙な邪教のたぐいが正田の領域を侵してきた場合はやり返す、それもその邪教がとりわけ弱者に対して優しくない、と判断したときにそうするのですが、じゃあ副作用のない「普遍志向」のよその思想が出てきたときにちゃんと仲良くできるんだろうか。そもそも正田は狭量な人間なんじゃないだろうか。


 本書の提唱する望ましい「地球倫理」は、第一のポイントとして、「エコロジカル」を挙げます。

「地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)。

 ―これは、学生時代「国際関係―地域研究」ゼミに籍を置き、「地域研究」がいかに学際的な学問であるか、実際に勉強したかどうかは別にして「こんこん」と恩師から説かれたわたしにとっては、いささかなつかしいフレーズでありました。

 もう一つのポイントは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」。それは自然信仰が重視する生命や自然の内発性に関心を向けるということにもつながります。フランスの精神医学者ミンコフスキーの「生命との直接的な接触」という言葉が出てきます。
 もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(pp.240-243)
 
 ―抜き書きは以上であります。丁寧にロジックを押さえながら読めば、著者自身が丁寧にさまざまな議論を踏まえながら論をすすめているおかげもあり、さほど突飛なとか理想論に走った結論部分ではないように思います。

 ―わたし個人は21世紀の初め(もう15年も過ぎてしまったが)の現時点において、アカデミズムの立場での責任感ある論考の仕事と大変興味深く読ませていただきました。

 ―さて、「承認」は「地球倫理」というところまで格上げされるというシナリオはあるのでしょうか。いちおうそういうのを頭のすみに置いて最後のほうの文章を読ませていただいた不遜なわたしであります。拙著『行動承認』の末尾部分で生命活動と「承認」について身近な出来事に絡めて書いたのと、最近はまた個人的に少し「生命との直接的な接触」ということもこころみています。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与