注:ここで扱う「学者さん」とは最近このブログに登場された方のことではありません。


 つれづれなるままに。

 「学者さんはなぜ正しくものを考えられないのか」
 
 これは特に、わたしに関わりのあるとみられる経営学とか経営教育学の分野について感じることですが、
 彼らの一人のブログをみていると、

「業績数値化」

というプレッシャーがあるらしい。

 論文を何本書いたとか、大学院生を何人獲得したとか。

 (実は、これを書いているのがわたしの天敵、「研修内製化」を提唱している当の大学の先生ご本人だったりする。消されるかもしれないから書いておくと7月30日付の記事である。だから「ベンダー排除―内製化論」のよって来る動機は自明なのだ。社内講師志望の人を大学院生として囲い込むことなのだ。たぶん本人さんも自分の動機はそこなのだと自覚はしていないだろうが、なんという利己主義の独り勝ち理論(笑)さすが団塊ジュニア。)


 そして最近のブログを見ていると、この人は「ものさしは幾らでも多数ある」という趣旨のことを書いていらっしゃるようなのだが、これは要は「iPS細胞に対抗するSTAP細胞的なものを論文数作成のためにいくらでも作り出せる」と言っているのにひとしいのではないのでしょうか。まあどうぞやってください、国の研究費使って。

 わたしは、自然科学分野の研究でもある一つの理論に収斂することは珍しくないことなので、価値のある理論は大きく価値づけすればいい、と思うほうです。もちろんそれしかないと思う思考停止はいけませんが。過去のこのブログで取り上げた経営学の本『世界の経営学者は何を考えているのか』でも、「理論のインフレ」という現象に言及しています。しかしそれは必要悪で仕方ない、と思わず、良識のある知性は「重要なもの」と「その他色々」をきちんと切り分けることが必要です。前にも書きましたよね、栄養学のスタンダードと、納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいの関係って。この人、最高学府のくせに要は納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいに際限なく惹きつけられる知性なんですよ。もっと三流大でやるならわかるんですが。
(そういう人に限って大学名を冠した自分のメルマガを発行したりするんです笑)

 学者さんがオリジナリティを追求するということを宿命づけられている限り、例えば学者さんが100人いてうち1人が正しいことを言ったら、残り99人は間違うことを運命づけられる。だから学者さんの集団に石を投げたら、99%の確率で間違っている人に当たる。「学者さんを見たら間違っている人だと思え」と思うのが正しいのかもしれない。正しい人を探すのは本当に難しい。彼らは自分の生存のために際限なく珍説を開陳し、「まだ確立されたものは何もない」と言い張る。自分の分野で確立されたものができてしまったが最後自分は確実におまんま食い上げになる。


 もちろんこの分野に研究者はうじゃうじゃいらっしゃるわけだが、わたしはこれまで何人かアクセスしてみた結果、この人たちとお付き合いすることに倦んでしまっている。ナルシシストで嫉妬ぶかくて、当協会の出してきた研修実績を認めようという気などさらさらない、簡単に言えば口惜しいから。中には女性のわたしにとんでもない汚い嘲り言葉を言った人もいた。そんな人たちをおだてたいとは思わない。彼らはやるべきことをやらない怠慢な人たちなのだ。


 ここで余談:他分野の例を挙げると、発達障害や自閉症のお子さんの療育指導の方法でTEACCHという有名な手法があるが、その中でも有名な「構造化」という手法は、まだ本家アメリカで検証されていないという。しかし「構造化」はとっくに津津浦浦で使われているし、体感的に有効なのは自明な手法である。たぶんあまりにも有効なので、学者たちが「無力感」で検証するのをサボってしまったのだと思う。それは反知性主義というような問題ではない、学問が無力だっただけの話だ。


 わたしが「この人ダメだな」と思った人は大体本当にダメになる、明らかにおかしなタイトルの本を書いたり良識ある人の吟味にたえないような底の浅い議論をするようになる。過去に「ほめる教」の教祖の1人と仲良くなった知り合いの学者さんが、急に発言の中に「ほめる」という言葉が増え、加えてわたしに対するメールに小バカにしたトーンがまじり、そしておかしなタイトルの本(うち何冊かは読んでみたがやっぱり中身も本当に変だった)を書くようになった。「ほめる」と「おかしくなる」がどう関連しているのかわからない。ただわたしは研修副作用のシリーズの一環で「幼児化か、老化か」という記事を書いたが、ある種の研修に暴露して幼児化したような状態になった人の脳の状態は、幼児化とも言えるが老化とも言える。何か、理性のタガが外れてしまったような状態になる。

 よくわからないが「承認」だと脳の可動域が広がるのだが、「ほめる」だと逆に狭まる気がする。

顔も「悪相」になる。テストステロンードーパミンが行動原理になった人の顔はそういうものだ。なぜ「ほめる」という本来いいことをやっているのにテストステロンードーパミン連合になるんだろう。すべてをバカにしちゃった感じ。


 お客様に「研修後、時間がたつと『承認』の理解が『ほめる』とか『感謝する』とかの部分的な理解に変質してしまって後退してしまうことがあるので気をつけてください」とメールする。

 このお客様は良くわかっていらして、「例の表」をラミネートして受講生さんに配ってくださっていた。


 いまだ、出口のみえないトンネル。

 敵だらけ。昨日の友は今日の敵。
 

 去年、「仲間」とよんだ人を全部切ってしまった。「仲間」になど期待できない、自分の思考の跡しか信じられない。
 たとえ「手伝いたい」というオファーがあったとしても、
 どんな醜い世の中をわたしが闘いながら生きていて、手伝うということがどんな泥沼の戦場に自分自身も身を置くことになるとわかって言っているだろうか。自分自身も手ひどく汚されるかもしれない、と知っているだろうか。また対立相手を斬るという汚れ仕事をしなければならないということをわかっているだろうか。


 ああまたネガティブなことを書いてしまった。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与