今年は色々と事情があって、「研修営業」ということをしないことにしています。

 企業の人事とか研修担当者の方に頭を下げて「承認研修を採用してください」とお願いすることをしないことにしています。先方からご依頼があったときだけ、お仕事をする。殿様商売。

 だから、「内製化批判」のようなことも書けるのかもしれないです。


 わたしは「承認研修」で人々が幸せになるのを見すぎてしまいました。それは動かしがたい現実です。

 だから、ほとんどの人事とか研修担当者の方々とお話するのが苦痛です。「選ぶのは当方だ」とばかりにふんぞり返って、いかにもほかの選択肢も考えてるんだ、という空気を匂わすところへ行ってプレゼンするのが辛いのです。かれらの妄想がわたしの知る現実より「上」だ、高級なものだと考えているのをみるのが辛いのです。わたしのことを「オーラのない女だな」という目でみるのが辛いのです。


 「承認研修」の価値を露骨に鼻で笑う人もいます。また、アポには応じ続けるのですが、採用はしない。情報収集だけのためのアポだと思っている。

 後者の人とみられる、とある大企業の研修担当者との会話。先方が「謎かけ」のような話を振ってきました。去年ぐらいに実際にあった会話です。



担当者「例えばうちで最近出た部下からの不満で、『上司が色々なフォーマットを要求してくるから面倒だ。統一してほしい』というものがありました。各部署の月次の予算達成の状況を報告するフォーマットが、上司ごとにばらばらなフォーマットを要求する。見たい指標が違うらしい。部下にとってそれは煩雑だ、と映るようだ」


正田「詳しい状況がわかりませんが、部下がどれくらいの仕事量を抱えている中でその上司の要求に応じているのでしょうか。
 ひょっとしたら、『臨機応変』に対応するのが苦手だ、という部下の方なんでしょうか。
 あくまでひとつの答えですが、そうした月次の報告というようなのはいわば『雑用』ですが、そうした『雑用』は今、細かくタスク化して障害のある方に集約してやってもらう、という流れがあります。(注:かなり大きな規模の会社で、ここでいう『各部署』も数百人規模である)そこでそういうきめ細かい、上司1人1人ごとに報告する指標を変える、というような作業はその方々の手に余る、という話になるかもしれません。統一フォーマットで報告してもらい、上司のほうが譲歩する。すべての指標を盛り込んだフォーマットを作るとか、特別に見たい指標には上司が自分でアクセスするとか。」


 すると質問をした担当者氏は怒ってしまい、

「そんな障害をもった人がいるなら話は別ですが、うちにはいませんので」

という。

 そうなんだ、おたくの会社にはいないんだ。すばらしいですね。

 で、ここの会社にはめんどくさいのでもうご訪問しないことに、わたしはしました。有名な食品メーカーさんですけどね。まあ、こういうのも歴史の一コマなので記録しておきます。


 まあ、わたしのこの時の答え方も不完全で、こういう考え方もあります。

 「特別な指標をみたい上司」が、「ごめんな忙しいのに無理いって。頼むよ」と可愛げのある態度で「お願い」をしていればまた話は違ったかもしれないです。いかにも当然という態度で命令するから反発されるかもしれないのです。要は「承認」の問題です。とっさにはそこまでの可能性について答えられないものですが、わたし的にはそれは当たり前すぎる答えなので―。(え、当然それはやっていらっしゃるわけですよね?)


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 嬉しかったこと。

 このブログを5〜6年前からみていたというある読者の方とお話することができました。

 その方は、

「発達障害と思われる部下を先生のブログでヒントを得て『行動承認』で成長させました」

と、体験談を話してくださいました。

「タスクを細かく割り、承認することで達成感を持たせました。20代後半、それまで成功体験がなく転職を繰り返していたという部下はそれで一気に自信を得、自ら診断を受けて障害者手帳を取り、さらには結婚もしました。今は幸せに暮らしているときいています。この部下のあまりの変容ぶりに、自分はやりすぎたのではないかと思うぐらいでした。

 だから正田先生とこのブログには感謝しています。そういう人はいっぱいいるんじゃないかと思う、ただ忙しさに紛れて感謝を届けられないのだと思う」


 えっどんな気持ちだったかって?
 嬉しいに決まってるじゃないですか(*^_^*)


 だから、わたしはこのブログで「発達障害」と、ストレートに言葉を書くことをためらいません。たとえ批判を浴びても。結果的に当事者の方が幸せになれるんです。

 ―でも、「幸せになる」というのがこの方のお話のようなレベルにまで幸せになるということは想定していませんでしたけれど。「仕事で自信をつけた結果すすんで診断を受けた」というところは、何日か前のブログ記事での「承認の作る幸福感がイヤなことと向き合う勇気につながる」という話に通じるかも―


 この読者の方がまたいわく、

「『行動承認』は、すごくシンプルだけれどすごく難しく、そして『できるようになる』と、今度は『当たり前』になってしまい、有難みが薄れ、感謝がなくなってしまう。
 でも『当たり前』だと思って感謝がなくなったとたんに『落ちて』いく、そういうものですね。

 だから、繰り返し確認しないといけない、自分が『行動承認』という形でできているかどうか。

 月に1回ぐらい、ちゃんとできているかどうか確認するためだけの集まりがあればいいと思う。仏教の法会などのように」


 そうなのかもしれません。
 
 この方の言われたように、一度承認の恩恵を受け、そのあと感謝が薄れ、とんでもない「罰当たり」な行動に出る人、というパターンに、去年ぐらいからあまりにも沢山遭いすぎてしまいました。それでわたしは心を痛めることが続き、一時期自分の健康を害しました。

 いちど「罰当たり」になってしまった人とは、にどと関係を修復できません。また、その人の人生ももう良くなる見込みはありません。「承認」というたいせつなものを否定してしまったら、それの類似の何もかも全部価値を見いだせなくなるはずです。よいものから目を背け続け、だめになっていきます。「悪相」で長い老後を生きることになります。


 この「思想」―最近わたしは「思想」ということをためらわなくなっている―をより大きく広めるということについて、新しい展開というのは何かあり得るのでしょうか。

 それは、今の段階ではわたし以外の人の行動が問われると思います。

 わたしは、もう頑張れません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与