また引き続き「負の承認欲求本」を読んでみる。

 このブログでは2011年7月にもとりあげた『「認められたい」の正体―承認不安の時代』(山竹伸二、講談社現代新書)。

 再読してみますと、この本自体は最終結論部分では「社会の『承認』の総量を増やそう」的なことを言っていてわたしとそんなにスタンス変わらないじゃないの、と思います。だがわたしのやってるみたいなコミュニケーショントレーニングは有効な道筋と認めてなくて、もっと何となくやりたい、自分の身の回りからほそぼそと、というスタンスみたいですが。向こう三軒両隣。

 甘いね。それじゃ1000年かかっても無理、と実際家でコミュニケーショントレーニング屋のわたしは思う。「コミュニケーション」は見下されがちだが、菊池省三先生も著書の中で言われたように、「徳」の手段なのだ。コミュ力を鍛えることが、徳に至る道筋。そう意識して使っている指導者のもとでは、そうだし、そういう志のない空虚で受講料ばかりバカ高いコミュニケーショントレーニングも一部にある。そこと一緒にしないでいただきたい。また現実の手応えとして、何となくやってるつもりでいるのと、きちんとやり方を学び宿題もこなして型を身につけるのとでは、天と地ほどの開きがある。

 
 そして結論部分はそうなのだが、本書『「認められたい」の正体』の導入部分ではやっぱり「犯罪」「いじめ」と「承認欲求」との関連を延々と描き、「承認欲望」という明らかに善悪の「悪」の価値判断を含む言葉づかいをし、陰陰滅滅と、「承認欲求」のきもちわるさを訴える。そんなんで社会に承認が増える結果に結びつくとは思えないのだが。

 もう1冊、『人に認められなくてもいい』(勢古浩爾、PHP新書、2011年12月)は、この年に先行で出た『「認められたい」の正体』を長めに引用し、引用文献としてはそれが唯一と言ってもよく、あとは「認められたい心理(承認欲求)」をひたすら品位の低い言葉で貶しまくっている本。いわば便乗本、尻馬乗り本という感じ。たぶん「内発と自律論」にかぶれて憧れてるほうの人だと思う。

 「内発と自律論」についての最近の記事はこちらです

 ふたたび「内発と自律」をモグラ叩きする
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921314.html


 このへんの論者の方々にわたしが言いたいのは、たとえば大前提として、承認欲求がボルテージ上がってるから犯罪が増えてるんだろうか?そもそも、犯罪発生率が上がってるという事実もあるんだろうか?

 すっごく犯罪が増えていて、アキバ通り魔事件のようなのの発生率が過去に比べて右肩上がりで上がっていて、それの原因が承認欲求の亢進だ、という図式が成り立つんだったらいいですよ。現実には、犯罪は減ってるんでしょ。ちょぼ、ちょぼ、と起きていて、たまに起きるがゆえに目立つそれの原因をみると承認欲求由来のものがある、という話でしょ。

 そのへんのデータ的なところは詳しい方にゆずるとして、、、


 昔から、犯罪の動機が承認欲求だった、というのは実はよくあった。「永山則夫」とかもそうなんじゃないですか、たぶんほかにも枚挙にいとまがない、めんどくさいから一々挙げない。三島由紀夫とかインテリがやるのもそうだし粗暴犯もそうだったろうし、明治の人も江戸時代の人も戦国時代の人ももっと前の人もやってた。だってギリシャローマ秦漢の時代から承認欲求ゆえに戦争をし、主と奴に分かれた、っていうんだから。

 承認欲求ゆえに人は恋愛もする。源氏物語だってそれを言えば承認欲求の産物だと思う。思い返すと近代ヨーロッパの恋愛小説とかビルドゥングスロマンとかも全部、今読み直せば延々と承認欲求のことを書いている。漱石のこころだって言ってみればそうじゃないですか。「近代的自我」なんて今の言葉で言えば全部承認欲求じゃないですか。

 だから、ふつうのことなんです。承認欲求を持っているのって。
 昔から若い人はそれで悶々としてたんです。
 単に今の大人が成熟度が低いから、出し惜しみして与えないから、社会に足りなくて窒息感が起きてるんです。それと、昔は文章を書くなんて一部のエリートの行為だったのが、彼らは社会的地位が高かったので割合承認的に満たされていたのが、今はもっと普通の社会的地位の低い人も書いて公開できるようになったから目立つということはあるでしょう。
 去年はまたナルシシストのスキャンダルが連続して起きたが、あれは「承認欲求」も度を越すと一種の才能だ、という話なんだと思う。別にすきじゃないですよ、あのひとたちのこと。
 (あと多少、顔出しできるツールの出現が自己顕示欲という形の承認欲求を高めたというところはあるでしょうね。拡張させるツールは溢れていますね、それは1960年代からアメリカ人を肥満にさせるスナックが溢れたのと同じです。そういう社会を作っちゃったのは大人です)

 でもこの著者たちは、「アンチ承認欲求」で論陣を張ると、それだけで新書が何冊も書けちゃったのだ。「まるで承認欲求の亢進ゆえに不条理犯罪が増えた」みたいに見せかける文章を書いて、日本的なケガレみたいな味つけをして。そういう、イージーな論客たちの「おまんまのたね」だったのだ、承認とか承認欲求は2008年ごろから最近まで。牧歌的な時代でしたねえ。

 『承認をめぐる病』(斎藤環、日本評論社、2013年12月)は、病気の人のことなので、こころの栄養である承認が極端に不足すれば病気になるのはわかりきっているので、省きます。あと病的に承認欲求の強い一部の人も病気になりやすいです。専門家の方はそういうものだと思って粛々と対処なさってください。


 そしてもうひとつ意地悪なことを言いましょう。

 承認や承認欲求のことを何と表現するか。それは、その人自身の内面の投影だ、とわたしはみています。

 たとえば、求めても得られないもの。ここにはないどこか。幸せの青い鳥のようなもの。J-POPで歌う夢とか幸せのような現実味のないもの。地獄の餓鬼の絵のような嫌悪の情をもよおすもの。際限のない闘争をもたらすもの。羨望と見下し。

 全部それは、その人自身の内面の物語なのです。
 きっと本人さんが「ほしい〜、ほしいのに〜、もらえない〜」と悶々としている人なのです。ノドから手が出ているのです。イソップ童話のキツネのように、手に入らないから、悪口を言うのです。そして「与える側になる」なんて夢にも思わないのです。はいクイズです、そういう人格の人のことを何と呼ぶでしょう。


 わたしなどは、
「そうか、足りないのか、じゃあ与えよう、そのためにトレーニングをしよう。そのために人びとを説得して動かそう」
という脳の回路をしているので、そうした陰陰滅滅としたイメージはあまり持ちません。供給したあとの現実の美しいイメージのほうを沢山蓄積で持っています。しかし根暗イメージを持つ人は持つので、ふうんそう見えるんだなあ、と不思議な思いでみています。
(もちろん不足のために問題が起きていることには人一倍心を痛めます、だから迅速に行動を起こします。わたしの受講生たちが1位続出しはじめたのは、わるいけれどこの論者たちが「承認欲求」の悪口垂れはじめるより5年も早かったのです)


 適切に与えさえすればこんないいものはないものについて悪口雑言たれる人とはお友達になれません。

 彼らは、「承認」「承認欲求」を遠巻きにしてみて悪口言う仲間をつくり、その仲間同士の承認を期待しているナルシシストなのです。


 
 もうひとつ追加しましょう。

 拙著『行動承認』は「はじめに」の一章を除けば、全編が「解決編」でできている、と言ってもいい本です。

 わたしは恨み節嘆き節がすきではないのであまり気乗りがしなかったのですが、打ち合わせでそういう章が必要だ、という話になったので、仕方なく「承認不在の職場でどんなイヤなことが起きているか」を取材して書いたのでした。

 残りは全部、解決編。
 世間には、データだけ出して解決編提言編は書きたくなかったとか言われる御仁もいらっしゃるけど、

「こういう問題が起きています」「さあ、あなたはどうしますか」

という本の書き方より、解決編に徹して書くほうが責任が重いのです。

 とりわけリーダーの行動規範に関する本なので、リーダーが間違ったことをやったらものすごく影響が大きい。それは、あらゆる取り違えや行き過ぎや色々な事態を考えて、丁寧に副作用の芽を摘み取って書いているつもりです。

 わたしは「変える」という言葉もあまりすきではなくて、「変えるより『つくる』ほうがはるかに難しい」と思っています。現状に問題があるから変えたい。でも変えた先の形でまた別の問題が起きない保証はない。

 そして受講生さんや読者さんは素人なので、ほっとくと色んな失敗をされる。本当はリーダーの行動では失敗は許されません。経験値のある当方が、できるだけ失敗しないように丁寧に指導してあげる必要があります。「失敗してもいいですよ」は若いうちだけのことです。


 そういう、「この形に変えたあかつきに何が起こるか」を丁寧に予測して問題の芽を摘み取る作業をしている本なのですが、そういう配慮を読み取ってくれる読者さんはすくないですね。世間の本でそういうの中々ないですよ。いいんだけど。


 わたしは、嘆き節の本何冊も書いているよりも自分の生きている時代に責任持った仕事の仕方してます。超マジメタイプですから。
 
 
 
(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与