このところ「アンチ承認欲求論」―つまり、承認欲求が高じて犯罪や非行やいじめなどの逸脱行為が起こるので承認欲求とはわるいものだというような言説―のようなものの存在が気になり、その系列の本を読んで批判したりしていましたが、

 「承認欲求叩き」というタームを使って昨2014年、この風潮に疑義を呈したブログがあるのを知りました。
シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。


 昨年1月、「承認欲求四部作」と題して発表された記事は、今月突然この現象をまじめに調べ始めた正田と違い、非常に完成度の高い論考。

 幸運にも筆者熊代氏のお許しをいただき、本ブログに転載させていただきます。


 四部作の全体像は:

 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか


 では、1つ1つご紹介していきたいと思います―


 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 「承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。


 この記述はまったくわたしの感慨とおなじもので、出会えて非常にスッキリしました。

 (たとえば拙ブログの当たり前の日常から発して、リーダー教育を語る参照)

 あまりにも基本的な欲求である「承認欲求」だからこそ、「承認欲求(笑)」などと叩く人々、風潮の危うさ。

 だから私は、承認欲求という言葉を、考えもなしに罵倒語として用いる人というのは、若いなら若いなりに、年を取っているなら年を取っているなりに「残念」と感じる。人間を飛躍させる原動力になり得るモチベーションを、リスクばかりにとらわれて否定すること、現代という時代に即して評価できないこと、どちらも建設的なことではあるまい。承認欲求の存在*3や今日的意義を認めたうえで、いかにそのモチベーションを運用するのか、どのような目標に向かってモチベーションを転がしていくのかを考えたほうが良いだろう。


 非常にうなずける、私的には常識的な、安心できる見解です。



 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 「承認欲求には社会化レベルがある」と筆者。

 幼児期から学齢期へ、それは褒められたい・認められたい欲求をモチベーション源にして発達していく。この時期に適切に褒め・認められなかった子は、「自分がやりたい事をやって承認欲求を充たす、という心理的営為のノウハウ蓄積が欠落してしまう」と筆者。

 そして思春期になると、子供時代とは違う新たなアイデンティティの構築に承認欲求が大きな役割を果たすが、ここで子供時代の承認欲求の満たされ方がそこに影響する。その人によって特有の躓きを経験するかもしれない。

“褒められたくてもバカにされるかもしれない”……という範疇的な不安だけでなく、自分が褒められてしまう事態にうろたえてしまう人や、自分自身の心のなかにせり上がってくる(思春期特有の)衝き上げてくるような承認欲求が怖くなってしまう人もいる。


 そこで「トライアンドエラー」の重要性を筆者は説きます。

 幸い、思春期前半は誰であれ承認欲求のブレ幅が大きくなりやすい季節なので、それまで承認欲求の社会化レベルが低めだった人でも、トライアンドエラーについてまわるミスや過ちが許容されやすく目立ちにくい――つまり遅れを取り戻すための修練がやりやすい――とは思われる。自分自身のこなれていない承認欲求を否認することなく、認め、乗りこなしていくための意志や能力は必要かもしれないが。



 こうした、逸脱しているわけではない普通の思春期の子供(若者?)についての特定個人の個体を超えた「メタ」な議論には、これまで「承認欲求叩き」の中では中々巡り合えなかっただけに、ほっとしますね。

 
 そして「社会化」の結論部分:

承認欲求がほとんどの人に生得的に存在する以上、それを超克しようとか、無くしてしまおうとか
考えるのは、かなり難しい。それよりも、承認欲求の熟練度を少しでも高め、より社会化された、より穏当なかたちへと洗練させていくほうが、やりやすく、実りも大きかろう。自分自身のなかに眠る承認欲求を弾圧するのでもなく、檻の中で飼い殺しにするでもなく、放し飼いにしても大丈夫なように手懐けていくこと――それが肝心のように思われる*4。


 超克するのではなく「洗練させる」「手なずける」というキーワードが出てきます。


 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について


「昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。」と筆者は書きます。

 その背景には、若者特有の逸脱を許さないいわば狭量な社会がある、と筆者。

そうした逸脱を包摂する共同体的雰囲気はなくなり、きわめて契約社会的な、個人的文脈を忖度しない社会がやってきた。


 こうした社会になれば、若者ははみ出さなくなる。犯罪発生率も下がる。そして若者にとっての”生きづらい”社会が到来する。

中二病が嘲笑され、承認欲求が罵倒語として機能し、若者の逸脱が厳しい制約を受けるようになったため、現代思春期において、承認欲求の社会化レベルをあげる難易度は高くなった、ともいえる。


逸脱の振幅が大きすぎる個人は嘲笑され、叩かれ、排除される。承認欲求絡みのトライアンドエラーの安全マージンが狭くなったということでもあり、ネット炎上に象徴されるような新しいタイプのブラックホールと隣り合わせになった、ということでもある。



 そして幼児期〜学齢期に「承認欲求の社会化」があまりうまくいかなかった人は、その影響をもろに受ける、という。

承認欲求の社会化プロセスのハードルが高くなり、安全マージンが狭くなってしまうと、もともと承認欲求の社会化レベルを稼げている人にはさほど影響は無いかもしれないとしても、承認欲求の社会化レベルの遅れを取り戻したいと思っている人にこそ、そのしわ寄せは大きく響くと推測される。

 こうした社会のなかで、一体どれぐらいの若者が承認欲求を適切に社会化し、モチベーションとして上手に生かしていけるだろうか?



承認欲求の重要性が高まったにも関わらず、その社会化プロセスが難しくなったせいで、おそらく、現代思春期の心理的な成長過程は険しくなっていると思われる。



 わぁあたしが面倒くさがってちゃんとみてこなかったところを静かな目で「まじまじ」と見続けた人がいはんねんなあ。
 ついいつもの癖で、解決編「私の教育の下では…」というフレーズが頭に渦巻きそうになるのを抑え、最終章にまいります。



 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか

 
 
承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれないが、承認欲求の年齢相応な社会化はいつまでも遅れ、承認欲求をモチベーションとした技能習得やアイデンティティ確立が成立しなくなってしまうため、社会適応に大きな偏りを免れないと思われる。
 

 はいはい。ここはもう一度押さえましょう。
 ではそうならないためにどうするか。

 「だから、よほど特殊事情を持っている人でない限り、自分自身の承認欲求は、なるべく年齢相応に使ってあげて、モチベーションの源としての熟練度をあげていったほうが望ましい。それも、できれば年齢が若いうちのほうがいい」と筆者。
 セルフケアとしては、そうですね。

 ラインケア(メンタルヘルス用語)としては―。

 
 また、もしも承認欲求を不器用に充たしている年下の人を見かけたら、本当にそれを笑って構わないのか、本当に炎上させて良いのか、立ち止まって考えたほうが良いと思う。笑って構わないと判断された場合も、どのように笑うのが適当か検討が必要だ。ちなみに、私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。


 うんうん。

 ここでやっと「当協会方式の承認教育」も出番になってくるかな。


 しめくくりに、筆者は「承認欲求の社会化」が困難な現代社会について、こう言う。

承認欲求が個人のモチベーション源として重要な社会ができあがっているにも関わらず、幼児期〜思春期にかけて、承認欲求の社会化プロセスを適切に踏んでいくのは簡単でも当然でもないのは、随分ひどいことだ。


さしあたって今、承認欲求の社会化プロセスが難しくなっていて、それが次世代の精神性に影響を与えているであろう点には留意が必要だとは思うし、今後、どのような社会が理想的な社会なのかを考えていくにあたって、勘定に入れていただきたいとも思う。
 


 いかがでしょうか。

 「解決編」にすぐいきたい正田がふだん思考をサボっている部分をこうして激するでもなく陰陰滅滅とでもなく、描写し分析し建設的に処方箋を出す人がいた。

 こういう品質の思考にこの分野でこれまで出会えなったのだ。

 (欲をいえば正田はマズローだけでなくヘーゲル承認論まで遡りたいが…こらこら。)


 このブログへの引用を快くお許しくださった熊代亨先生、ありがとうございました!


 もう1つ、「承認欲求という言葉の使われ方が変」と感じたわたしの疑問に親切に答えてくださった番外編の記事

 番外編その1 ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史

 本来の語義を離れ(参照することなく)ネットスラング、罵倒語として「承認欲求」が使われるようになった、残念な経緯がまとめられています。
 正田ほんとうにこういうこと知らなくて良かったのか(苦笑)

 ありがたいことに、これまで受講生さん方はあまりネット世界の住人でなかったせいか、こうしたネットでの残念な使われ方の影響をそれほど受けてきませんでした。

 受講生様方、大人は「満たす」ことに集中しましょうね。


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 先の加東市商工会での「行動承認セミナー」を受講された経営者、管理者の皆様の宿題が続々返ってきています。
 皆様一様にいい感触のよう。宿題をみると、つい「にっこり」してしまうわたしです。

 「承認研修」は、シロクマ先生の論考のような、若者の側の「承認の社会化プロセス」の分析を経てうまれたものではありません。

 たんに上司側からこう働きかけるといい結果になるよ、という大人社会側での知恵を集積したもの。

 「行動」承認であるのは、「承認の最適化」「質の高い承認」という、これまで承認不全で育って来たきらいのある若者たちの側のニーズにそれがジャストフィットするからなのでした。

 宿題でも、型どおり「行動承認」の形でやってくださった方が最もよい結果を出され、長く続くモチベーションになるであろう、という予感があります。


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 こうして引用、出典明記にこだわるのはわたしのスタイルです。できればオリジナルの方に仁義を切りたいと思うのもわたしのスタイルです。
 自分以外の聡明な方のお知恵をお借りして少しでもいい仕事をしたいのです。またオリジナルの方がイヤな気持ちにならないやり方でしたいのです。

 そして複雑極まる現代のために真摯に思考したり行動する同時代の人に対しては、敬意をもちます。


 ありがたいことに他所にもそういう方がいらっしゃるようで、8月にこのブログに書いた記事を最近別の人材育成業の方が、

「自分が感じていたことと同じだったので引用させてもらいました」

と事後承諾でしたが、ご連絡をいただきました。

 そういう、認め合って引用しあうようなコミュニティってひそやかにあるのかもしれません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与