ジェンダーにおける「承認」と「再分配」

 『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」―格差、文化、イスラーム』(越智博美+河野真太郎編著、彩流社、2015年3月)という本を読みました。


 アメリカでは承認論と公民権運動、とりわけフェミニズムや性的マイノリティが市民権を得るための運動とが分かちがたく結びついて独特の政治空間を作っているもよう。

 正田はフェミニズムと従来やや距離をとってきたつもりだったのですが、最近の格差社会ぶりとそれに連動した女性の貧困という現状をみるに、そうも言っていられなくなってきた感があります。
 そもそもフェミニズムに対して良い感情を持てなくさせられていたのは、最近このブログに登場したようなわが国の反動的男性知識人(=ミソジニーお爺さん)たちの陰謀だったのかもしれない。


 そして、こういうヘーゲルをはじめドイツ観念論を源流とした「承認論」と、まったく次元の違う無根拠なネットスラング、罵倒語としての「アンチ承認欲求論(=承認欲求叩き)」、それに正田のやっているような実践の世界の「行動承認」、これらが同時並行に存在しているのがわが国の状況。

 正田は当然前者の「承認論」にシンパシーを感じています。従来は「アンチ承認欲求論」のほうはめんどくさいから、無視してきました。ただどうも無視しえない勢力になってきて本業の教育のほうにも影響が出てきたから、今年本格的に「承認欲求叩き批判」を開始した、というかんじです。床をあけてみたら想像以上にゴキブリの巣窟になっていたぜ、みたいな。
 新しく「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリを作りました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html

 それはちょっと脱線でした。
 本書『ジェンダーにおける…』は、十三章からなる本ですが実は第一章「承認論とジェンダー論が交叉するところ」に目が釘付けになってしまい、その他の章はちょっとお留守です。
 それぐらい、インパクトのある第一章です。「承認」について、「愛」について、わずかなページ数で多くを語っています。

「はじめに」(越智博美、河野真太郎)より。


「本書は、一橋大学のリレー講義「ジェンダーから世界を読む」をもとに構想されたものである」
と編著者らは言います。

「そう、経済格差は自己責任という個人のレベルでのみ語れるものではないのだ。そしてこのことに今、世界じゅうが気づきつつある」(p.5)

「2014年の12月には、ついにOECDが『トリクルダウン』はしないどころか、格差があることが経済成長を妨げると述べ、従来のネオリベラリズム路線に修正の必要があることをみずから認めるに至った。この制度はおかしいのではないか、限界なのではないか。そのような感情が、おそらくトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2013年)が爆発的に受容される裏にはある」(pp.5-6)

「フェミニズムにおける承認は実のところ再分配と切り離せないものではないか。現在の苦境はなにより、承認と再分配を並び立たない問題、ジレンマとして捉える発想にはまり込んでいることにも一因があるのではないか」(p.7)


 そしていよいよ
「第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ」(藤野寛)

 ここでは「承認」の語義の検討から入ります。大事なところです。

 「承認」はドイツ語ではanerkennen 。
 辞書的には、
「正当と認める、承認(是認)する、認可(認知)する、(他人の功労・業績などを)認める、賞賛する、高く評価する」。

 というわけで、日本語に移すときほんとうは「承認」よりは「認める」のほうが適切なのだ、と筆者。
 「承認」というのも名詞化する必要上、しょうがないんでしょうけどね。
 そうそう、わたしドイツ語わからないから困ってたんですよ、このへんのこと。

 では、日本語の「認める」にはどんな意味、どんな用法があるか。

,海亮更塢提案をお認めください。
∋愼涯鬼韻貿Г瓩蕕譟△箸討盍鬚靴ぁ
上空に何らかの飛行物体を認めた。
こ慊垢呂茲Δ笋自らの非を認めた。



 このうち、ドイツ語のanerkennenが表すのは´↓い澄△班者。

 ただの認識と「承認」を分かつものは「肯定的な価値評価」だと筆者は言います。「正当と認める」「是認する」「賞賛する」「高く評価する」というように、対象や相手に対して肯定的に向き合う姿勢が意味されている。

 それは、自然科学で使うような冷静・客観的な認識とは異なる性格のものだ、と筆者。


「その際、この観点がはらむ破壊力の深刻さは、ささやかなものではない。その点は、「事実と価値」に関する学問論的理念を思い浮かべるだけでも、容易に明らかになるだろう。いやしくも学問に携わる者は、(客観的)真理認識のために、まずは、価値判断に関わる自らの先入見を括弧にくくり、価値中立的な姿勢で事実そのものに向き合わねばならない、とする理念である。ところが、承認とは、そもそも対象や相手に肯定的価値評価をもって向き合う姿勢なのだ。」(同)

「そして―承認を認識から区別した上で―ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に就くことを要請するのではなく、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより基底的・先行的であり、認識という姿勢は、そこから派生ないし逸脱し、頽落し、むしろ、疎外されたあり方である、と主張するのである。われわれの世界に対する態度は、はなから、価値評価含みである。価値評価抜きに、中立公正に、客観的に世界と向き合っているのではない。関心によって駆動されており、魅かれ(angezogen)、あるいは反発する(abgestoBen)。」(pp.21-22)


―ここでは、現代ドイツを代表するヘーゲル研究者、アクセル・ホネットが繰り返し引用されているので、引用文中に「ホネット」が多出することをお許しください―

 「認識に対する承認の優先性=先行性」。すごいこと言いますねホネット。認識論については、正田のヒューリスティック趣味も認識論みたいなものですが、それとは別に、たしかにそうなんです。「承認」をやってると、いわば「温かい見方×冷たい(純粋客観的な)見方」の対立というか乖離がうまれます。ところが「承認」的な温かい見方がポジティブバイアスで間違った見方かというとそうでもない。対象者が人間の場合には、温かい見方をされることがむしろ自然の摂理にかなっていて、「生物学的に」成長することにつながり、ひいては多少贔屓目にみた見方が現実のものになってしまう、というのはよく経験するところです。あんまりバカ高い期待をしてもいけませんけれど。

 逆にこの後の記述で言う、「客観的とはいわば疎外されているのだ」、詳しく言うと、

「世界を冷静、客観的に認識することは、それはそれでとても大切なことだが、ただしその時、世界はわれわれにとってすでに「疎遠な」ものになっている。単なるモノの世界、死せるモノの世界、物象化された世界、その意味で、疎外状態にある世界である。こう考えるとき、「価値自由」という理念に拠る学問という営みは、すでに疎外の内にある世界との関わりであることになる。」(p.22)


 そういう「認識論のコペルニクス的転回」のようなことを、現代の承認論者ホネットは言っているというわけです。
 受講生様方おわかりになりますかしら。でも実践してみると、感覚的にわかるでしょ。

 よく、「承認」に関する拙著を読まれた方で「こういう体の構えが大事なんですね」ということを言っていただく、それは要はここでいうような、「純粋客観に先んじる肯定的な見方」ということを仰っているのかもしれません。


 そして承認概念には3つの型がある、と藤野はいいます。
 
 すなわち


⊃邑尊重
6叛喇床


 順番にみてまいりましょう。
 このあたり重要な記述ばかりで引用が続きますが大丈夫かなこんなに引用して。



「愛とは、相手を自分にとって大切な存在として認める、ということであり、その意味で、承認の一つの形である、と言うことができる。(略)その上で、そこにさらに、相手に対する情動上の強い結びつき(Bindung)がつけ加わるのである。
 結びつきとは、拘束とも表現されうる事態である。愛する相手に、私は―強く言えば―縛りつけられている。相手の一挙手一投足に一喜一憂するのだから。その意味で、愛とは、不自由の別名である。そして、にもかかわらずその拘束が、それほどにも大切な人が存在すること自体において、愛する当人に最強度の幸福をもたらしてくれるのである(もちろん、相手を憎みつつ縛りつけられているというケースもあるわけだが、それは、愛の形としてはすでに一種の倒錯であると言うべきだろう)」(p.23)

 ―ここは後で出てくるような母子関係を言っているともとれるし異性愛について言っているようにもとれますね。この藤野寛氏は1956年生まれの一橋大学教授、哲学者ですがまあ愛というものをビビッドな言葉で語るひとですね

「こう考えるとき、われわれが自由の語の下に考えているものの両義性もまた露わになってくるのではなかろうか。「他者=異なるもの」との結びつきを否定し、それから解放され、それなしに自足・自存し、さればこそ他者を自在にコントロールしうるポジションにも立ちうる、ということが、「自由」の語の下に考えられているのだとすれば、それはある意味で、疎外の一形態だとこそ言わねばならないのではないか」(pp.23-24)

「ホネットは、愛の説明において、「異なるものの内にあって自己自身であること(Selbstsein in einem Fremden)というヘーゲルの規定を援用する。この逆説的な規定を、ホネットは、さらに「愛という第一次的な関係は、自立性と拘束との間できわどくバランスをとることにかかっている」という風にほぐして解説する。「共生における自己犠牲と個人としての自己主張との間の緊張関係」とも言いかえられる消息である。愛とは、相手に対する感情面での「依存」を不可欠の要素として含む経験であるけれども、それは否定的に表現すれば「依存」ということになるだけであって―ヘーゲルに倣って―積極的に「異なるものの内にあって自己自身であること」と表現することも十分に可能な事態なのである。」(p.24)

「愛の経験の基底には―拘束と捉えることも可能な―相互依存的な結びつきがある。そして、この結びつきこそが相手に対する細やかでありながら熱い関心と働きかけを可能にする土台となるのだ、と言ってよいだろう。それは「助ける」ということの土台をなすものであり、「ケアの倫理」において浮き彫りにされてきた事態である。自由というあり方が、関係からの解放、その上で、関係のコントロールを志向するのに対し、愛の経験は、関係への沈潜、没入を下支えする。」(p.24)

「愛における共生に関する論述を、ホネットはしばしば、母子関係をモデルに展開してゆく。それは「すべての形態のより成熟した愛の基本的雛形として捉えられうるものだ」とも言う。その際、「成熟」とは何をすることか。その内容の一面は、乳児が、母親の内にも自らのそれと同じ「意図をもった行為者」を認めることにあるという。つまり、母親が、自らの欲求に無条件に応えてくれる、ある意味で、奴隷のような存在であるわけではなく、彼女にも彼女の人生があることを認め始める、ということだ(フロイトなら「欲動断念」というところか)。子の母に対する承認という場合、まずは、相手に対する全面的な信頼が前提にあり、自らの欲求に必ず応えてくれる存在、そのような大切な存在、ということが出発点にあるわけだが、その上に、相手を自律した存在として認める、という異なる方向性の承認(=尊重)が積み重なってゆく。親離れとも表現可能な事態であるが、生後九ヵ月あたりにそれが起こり始めるというのが、近年の実証研究の明らかにするところであるという(「九ヵ月革命」という表現すらあるのだという)」(pp.24-25)

「愛というこのタイプの承認にあって特徴的なことは、それが、特定の個人と個人の間で成立する承認であって、言うなれば、人を選ぶという点にある。われわれは、誰彼かまわず―その意味で、平等に―人を愛するのではない。ある特定の人と―その人とだけ―強く、深く結びつく。分け隔てを特徴とする承認であって、それは、普遍主義的基準を立てれば、欠点ともみなされうる特性である。(略)愛や介護(ケア)を女性の十八番として称揚する場合でも、その視野の狭さを確認して否定性をほのめかすということはしばしばなされてきたのであり、それに対して、男は人類社会に正義を実現しようとする志において偉い、というような話にもなる。だからこそ、愛さえも普遍化しようとする試みが「人類愛」や「隣人愛」の名のもとに繰り返されてきたわけだが、これは「究極の依怙贔屓」としての愛の本質を見誤り、それを薄めて解釈する振舞いだ、と言わざるをえない。」(p.25)

「ただし、ホネットは、愛の経験の重要性を倦むことなく強調しつつも、それを女性という一方の性に割り振る、という理論構築上の誘惑には一切屈しない。愛という形の承認は、言わば、人間的経験として重要なのであり、女性の占有物ではない。ホネットは、これまで女性の十八番に祭り上げられ、そのようにして女性に独占的に押しつけられてきたものを、人間全体に、ということはつまり男性にも奪い返そうとしているのだ、と言ってよい。
 考えてもみよう。仮に、ホネットが母子関係の内に愛という相互承認の形のいわば原型のごときものを見出すとしても、そこから、愛が、母(となりうる存在)にのみ帰する、との結論は決して出てはこないのだ。なぜなら、すべての子供が―女の子も、男の子も―母子関係における愛の経験を経由して大人になるのだから、その意味すべての大人はかつての子供として愛の経験のエキスパートなのであり、だからこそ、逆に、この時期に愛の経験を拒まれた幼児は、その後の成長過程において、しばしば深刻な心理的負荷を抱え込むことになるという点を、ホネットは繰り返し強調することにもなるのである。」(pp.25-26)



⊃邑尊重としての承認

 「基本的人権」の概念って、基本的にドイツ観念論の「承認」をよりどころにしているんですよ、ご存知でしたか。「すべての人が人格として承認される、尊厳を剥奪されない」ということを言ってるんです。

 
「承認論は、避け難い仕方で倫理学的問題に関わる。なぜなら、承認には肯定的評価が含まれるから。ただし、肯定の仕方には様々なタイプがありうる。例えば、人間として認める、という語用。これは、人間にカテゴライズする(人間という範疇に入れる)ということであって、プラスの点数をつける、という意味での肯定的評価ではない。「ある範疇に認め入れる」ということである。人権尊重とは、何か肯定的な資質・能力の故をもってプラスの点数をつけることとは関わらない。あえて言えば、その範疇に認め入れること、そのこと自体が、肯定なのだ。」(pp.26-27)

―重要な箇所。「あるカテゴリーに認め入れる」という作業を「承認者」の側からするとき、これは「被承認者」の「所属欲求」という名の「承認欲求」を満たしてやっている、と言いかえることもできる。
 一方でこれらはきれいに1対1の対応関係にはならないであろう、というのは、「あるカテゴリーにに認め入れられる」というのが、「被承認者」にとってはかなり大きな背伸びである場合があるからだ。
 よくTVで流れる「認められたい」という語には、このパターンが多い。
 例えば:
・芸人として認められたい。
 これは、その世界のプロとして認められるということは膨大な数の志願者の中から氷山の一角のようなきわめて低い確率で、人並み外れた努力をし才能を発揮することのできた者のみが「認め入れられる」わけであるから、単なる就職をするような「カテゴリーに認め入れられる」ことを意味しない。極めて高いレベルの集団に「認め入れられる」、いわば、第三のタイプの「公正な業績評価としての承認」によって、「最高ランクの集団に振り分けられる」ことを意味する。
・外国人嫁が日本人の姑に嫁として認められたい。
 これも、姑の「差別意識」というか「外国人への違和感」があるところから出発して、自分の努力によってそれらを取り除きたい、そこで初めて家族の一員として「認め入れられ」たい、ということ。極めて高い障壁を乗り越えたい、という願望を言う。
 そこでは、「認められる」ことに対して自分の側が努力を惜しまない、という姿勢がある。数年がかりの努力をするだけのファイト、ガッツがある。

 こういうことをNHKなどで「承認欲求」の言葉として「認められたい」と繰り返し流していることに、わたしなどは違和感をもってきた。
 もっとハードルの低い日常的なところに「所属し、認められたい」はゴロゴロ転がっているのではないか?ということ。
 お砂場の遊びともだちでも、学校の友達グループでも、あるいはボランティアグループでももちろんアルバイトから始まって正社員まで、ともに労働をする仲間としても。
 もちろんそうした場で「承認を剥奪」することはそれだけで残酷なことである。

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「残る問題が、承認の第三のタイプ、即ち業績評価である。このタイプの承認は、公正な再分配が行われるための前提をなすものであり、したがって、「再分配か、承認か」という「あれか/これか」は、公正な業績評価(としての承認)に基づく再分配か、文化的アイデンティティの承認かと、二つの承認のタイプ間の「あれか/これか」という風にもパラフレーズ可能であると思われる。」(p.27)




●三つの承認の型の相違と相互関係

「愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すでに確認したように、すべての人を愛する、ということはありえない。ある特定の人だけに向けられる承認、それが愛である。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、(略)愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるのだが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。」(pp.27-28)

「それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)するのは、人であるという点以外の特質は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは、一切の差別を峻拒する。」(p.28)

「普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。ただし、この承認は、その結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価するのでなければ、公正な業績評価は成り立たない。誰にも同じ点数をつけることで差別を回避していては、評価(という承認)をしたことにならない。この点で、愛という承認との違いは歴然としている。親は、我が子が優れた能力・資質を備えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められまい。」(同)

「これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できようか。」(p.29)


●承認か再分配か

「しかし、ホネットにとっては、問題は「再分配か、承認か」という二者択一の形をとらない。承認か/認識か、承認か/再分配か、ケアか/正義か―これらの定式化は、いずれも二者択一を迫る点で、問題を捉えそこなっている。承認の経験の上にこそ、正義も成り立つ。後者を成り立たせる、いわば可能性の条件として、前者の意義を浮き彫りにすること、それがホネットの戦略である。(略)ホネットからすれば、批判的社会理論の改訂版にとって、承認こそより基底的な概念となるのであり、フェアな再分配のためにこそ、適切な承認がそれに先行しなければならない、と考えるのだ。」(p.31)

「承認を欠落させた再分配の試みは、適正な承認を伴うことは決してない」(p.32)
例:女性が担い手となる労働は低く評価される。労働の実際の内容にかかわらず。
⇒このようなバイアスが厳然としてあるからこそ、労働の価値は承認によって公正に評価されなければならない、と解される


●イデオロギーとしての「承認」?

 承認が差別や役割の固定化をもたらすという懸念はある。

「イデオロギーとは、虚偽意識の算出のメカニズム、という意味であり、承認はそれではないか、と自問される。ホネットは「承認という実践は、主体の強化ではなく、逆に主体の屈従という結果を生み出す」というテーゼを立て、自律ではなく、全く逆に自発的な屈従を生み出す巧妙な社会的装置としての承認、というこの論点を、さらに次のように解説する。」(p.36)

―例えば「良妻賢母」やアンクル・トムの卑屈な美徳に対して繰り返される賞賛。

―そういう承認はしないでくださいね受講生様。おおむね、「行動承認」に特化していれば、そういう間違いに陥らないですむ、と考えるわけですが油断は禁物。反動男性知識人なんかは容貌を褒めることで女性を自分の都合のいいように仕立て上げようとしますからね、要注意です。


「しかしホネットは、単純な価値の多元主義・相対主義を採らない。複数存在する価値評価基準をさらに比較しうる、いうなればメタレベルの価値を想定するのである。自律である。より高度の自律性を人に可能にする承認こそ、より適切な承認だ、とする論法である。そもそもなぜ、承認されるという経験が決定的に重要視されることになったのか、という着眼点は、それが人間の自律性を強化する、という点にこそ見出されたのだった。

 肯定的に評価するという態度は、明白に、積極的な性格を有している。というのも、そういう態度は、賞賛の向けられる人に、自己自身の資質と同一化し、従って、より大きな自律性に至ることを可能にするからである。」(p.37)

―不思議というべきか、「承認」によって「自律性」が育つという現象は確かにあります。いずれだれかが証明してくれるでしょうけれど。行動承認はそのためにやはり大事です。


「〔承認論の〕試みの全体は、そもそも、承認の欠如ないし不十分さという社会現象を起点として批判的に推進されてきたもの以外ではない。視野に収められるべきは、屈辱を味わわされたり尊厳を傷つけられたりするという現実の経験である。その経験によって、主体は、正当な理由ある社会的承認を与えられず、それに伴い、自律性を育てるうえで決定的に重要な条件を差し控えられてしまうのである。」(p.38)

―そうですね、残念ながらわたしにとってもやはり「承認欠如」の状態をみることが「承認教育の必要性」を繰り返し提唱する動機づけになっていると思います。「承認欠如」は自分にとっての、じゃないですよ。世間の、とりわけわが国では評価されることの少ない良心的な女性の働き手たちについて、思います。
 

 第一章からの抜き書きは以上です。
 このあとの章はわが国におけるフェミニズムの現状や性的マイノリティについての言及が続きます。それなりに興味深いんですが―、


「第十三章 表象=代表(representation)、知識人、教育」(中井亜佐子)から、マララ・ユスフザイに関する記述を抜き書きして、終わりたいと思います。

「彼女(マララ・ユスフザイ)はここ(国連スピーチ)で、みずからrepresentationという困難な任務―表象でありつつ、代表でもあるということ―を引き受けている。それはまさに、スピヴァクが定義する意味での「知識人」の任務でもある」(p.303)

「しかし、マララ・ユスフザイの教育への熱意に接するとき、わたしたちはみずからの教育に対するシニシズムを、いったん学び棄てる必要がある。彼女の言葉はわたしたちに、教育とはなんであったか、あるいは未来においてどのようなものでありうるかをあらためて思い出させてくれる。」(p.308)


「ここでユスフザイが使う一人称複数代名詞「わたしたち」は、「教育という大義のために」団結する人びとを指しているが、「わたしたち」はまた、教育を通じていっしょになり、団結する。知識は「武器」であり、団結は「盾」となる。(略)そして、この「わたしたち」の立ち上げそのものが、彼女にとっての教育の目的でもある。この瞬間、わたしたちが目撃しているのは、representationという任務をみずから引き受ける女性知識人の誕生である。」(p.310)


※藤野寛(第一章の著者)論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)


 


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与