半月ほど前の読書日記

  温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

に登場される、第一章の執筆者・藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授、現代ドイツ思想)より、
 「愛」「承認」について同教授が書かれた過去の論文3篇の抜き刷り・コピーをいただきました


藤野寛氏論文-2



 執筆年代順に、

◆「家族と所有」 『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000年)所収
◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)

です。

 藤野教授のご了解をいただいて、ふたたび「愛」についての印象的な記述のある「家族と所有」から、ご紹介させていただこうと思います。

****

 「家族」には「所有」の問題がからむ。

 「私の夫」「私の娘」には、「他の女の、ではない」「あなたの、ではない」という排除・独占の意味が色濃くにじみ出てきている。所有、さらには専有の意味まで匂わせるものとなる。

 そして「所有」は自由と平等をおびやかす性質がある、と筆者はいいます。
 「極限的には、親が子を道連れにして心中する、というような酷たらしい現れ方をしかねないものである。「殺人」行為が、「我が子」の場合には、道連れ心中」などと表現してすまされてしまう」(pp.104-105)
 さらに「平等」がゆらぐ。自分の息子さえ幸せになってくれればよい。家族の外部の人たちとの間に差別が設けられる。

 これを避けるため、
1)家族メンバー間で互いに自由を尊重しあおう、という努力がなされる。
2)特別扱いの問題を回避するため、家族を外に向かって開いてゆこうとする努力がなされる。

「そして、家族のメンバーそれぞれに自律を認めるということは、メンバー相互の間に対等の関係を確立しようと試みることと不可分にして一体である。自由は、平等と結びついていないとき、必ず、誰かの不自由を帰結せずにはすまないからだ。」(p.106、太字正田)

―ここ、わかりますね。以前のブログで「風船プール」のたとえを使いましたけど、だれか1人が自由を際限なく追及し、それ以外の人がそれを志向しなかったり志向したくてもそこまでの能力がなかったりしたとき、最初の1人の自由が際限なく拡大し、ほかの人の自由をひしゃげさせる。特にリーダーの方は重々気をつけていただきたいことです。


 しかし、家族を自由と平等の原理一本槍で押し通そうとすることは、家族を家族たらしめる当のものの否定に、つまりは結局、家族そのものの否定につながってしまうのではないか。と筆者は問題提起します。

 ここで「愛」というキーワードが出てきます。

「家族を家族たらしめる当のもの、として私が考えているのは、「愛」という言葉によって表現されるような、強度をもった濃厚な情緒的関係である。」(p.108)

 しかし「愛」を神話化してはならない、とすぐに別の視点がもたらされます。「愛」には、「差別」と「闘い」という、美しくない側面があります。

「愛」の脱神話化(その1)愛は差別する。

 「愛」は普遍性志向ではありえない。

家族形成につながるような「愛」とは、究極の特別扱い、究極の依怙贔屓とよぶべきものである。ただ一人の人が好きになり、ほかの人のことは目に入らなくなる。そして、逆に、その相手からも、自分一人の方だけを向いてくれるように求める」(pp.109-110)

「要するに、愛は差異を前提とし、構成成分とする。差異を認める。強く言えば、差別する。正義感が分け隔てをせず、依怙贔屓をゆるさないのに対して、愛の方は、その強度にあからさまな差異を、あるいは、濃淡の差を示す。」(p.110)

「愛」の脱神話化(その2)愛は苦しめる

 この部分の記述が例によって「イイ」ので少し長く引用させていただきます―

「第二に、この「愛」とは、決して、甘く・優しく・調和のとれた・喜びと幸福感をもたらしてくれるばかりの結構づくめの感情なのではない。「愛する」とは、いってみれば、闘いに身を投じることだ」(p.111)

「そもそも「愛」というものは調和や均衡などとはおよそ両立し難いどろどろした何事かなのだ。(略)逆にしかし、「愛」という言葉を前にして照れたり恥ずかしがったりする必要もないのである」(同)

「「ロマンチックな愛」という言葉にまといつく人畜無害なイメージが、感情の危険な激越さをオブラートにつつむことに成功し続けている光景は、奇異だ、と言うほかない。にもかかわらず、どうして人は「愛」について語り始めるや、自分を理想主義者、あるいはロマンチストと錯覚してしまうのか。どうして「愛」のお手本が「神の愛」ででもあるかのような語り方をし始めるのか。「人間の愛」が、そのように無償であったり分け隔てがなかったりする、うるわしくも気高いものであるわけではないこと、少なくとも、それだけではないことは、われわれは骨身にしみて知っているはずではないか。愛しているときほど苦しむことは、人は滅多にないのであり、それを「甘酸っぱい苦しみ」と言うことさえ、すでに、人畜無害化である。「愛の説教者」には眉に唾してかかるのが相応しい。彼(女)らは、たとえば聖書など開きながら言うかもしれない。「あなたのいう愛は真実の愛ではありません」と。それには「真実の愛でないかもしれないが、人間の愛ではあります」と涼しい顔で応じてすましておけばよい。」(pp.111-112、太字正田)
 
 また、激しさを帯びつつ妙に説得力のある記述が出てきました。
 つい、どういう実体験からこういう言葉が出てくるのか、と邪推したくなりますが恐らくそのへんは哲学者藤野氏の「手」なのでありましょう。

 前回の読書日記のあと、正田は藤野教授にメールを書き引用だらけの読書日記となったことをお詫びしたあと、
「咀嚼され抜いた思考と文章に出会えたことを嬉しく思っております」
とお伝えしたのでしたが、同教授の「愛」についての思索は少なくとも2000年以前からのものだったようです。また、このへんよくわかりませんが藤野教授の研究対象であるフランクフルト学派のアドルノ、ホルクハイマーにもそういう独特の言葉の性質があるらしいです。

 
 そして、愛はアイデンティティを揺るがす。

 テイラーによれば、(ぼやき:テイラーも読まなきゃなあ)私たちは、自分が自分にとって特別に価値があるとみなす物事が、私にとって重要な他者/私が愛する人間との関係の中でしかもたらされない。その人間は、私のアイデンティティの一部分をなす。
 いいかえれば、「重要な他者がわれわれのアイデンティティの内部にまで食い込んできており、われわれ自身の一部をなしている」(藤野)ということなのです。

―「食い込んできている」っていう言い回し、良くないですか?
 このブログでも正田は時折ぼそぼそ「中嶋先生」とか、言ってますけどね。はい、食い込んでるんです。

 それは、「自律」を揺るがすことであるかもしれない。
「自分自身の判断にしたがって行動しているつもりでいても、実は、私は、自分の一部分と化してしまっている内なる他者によって動かされているのかもしれないのである。」(p.113)

―うん、否定しませんね。
 逆に、以前にも書いたような気もしますが、わたしにとっての「自律」は恩師がつくってくれた、という感覚があるんです、わたしの場合。
(ちなみに恩師は、「片付け」については、お手本にならなかったみたいです)


 閑話休題、 
 愛のもたらす幸福感。
 自由でなくても平等でなくても愛し合っていれば幸福、という特殊な状態があります。
 「藤野節」が冴えるところです。

「つまり、われわれは、自由と平等が揺らいでいるにもかかわらず、幸せに感じる、いや、まさに揺らいでいるからこそ、幸せに感じる、ということがあるのではないか。ある特定の人からかけがえのない存在として特別の処遇をうけることの内にこそ、また逆に、ただ一人の特別な存在んために特別の尽くし方で接することの内にこそ、我々は生きることの充実・喜びを見い出すということがあるのではないか。また、自己と他者の境界がぼやけるほどに二人の存在が互いに食い込みあい、そのようにして自分で動いているのか相手に動かされているのかすら定かでなくなってしまうような状態の中でこそ、そのような一体感の中でこそ、最も強烈な幸福感が経験される、という可能性がありうるのではないか。とりこになることの幸福。しかも、それを、宗教的帰依=自己否定というような特殊な事件においてでなく、たとえば、家族への愛というようなごく日常的なありふれた出来事の中で、人はリアルに経験しているのではないか。」(p.115)

「だから、相手を独り占めにしたい、と欲するとしても、それは、他者を自分の思いのままに動かしたい、操作したい、と欲することと同じではない。例えば、政治的支配のような一方的操作への欲求ではない。アイデンティティの相互嵌入を前提とする独り占めなのだ。だから、「私はあなたのものよ(僕は君のものだ)」という―あからさまに所有関係を表わす―言葉は、にもかかわらず、真正のものだ。そこからうまれる幸福感は、自由な人間同士の対等の交渉を通して得られる充実とはまた別種の幸福感だ、と言うことができるだろう」(p.116)

「「恋は盲目」という言葉がある。恋愛における感情の激しさが、理性の冷静さと対比して考えられている。しかし、愛はただ激しいだけのものではない。恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」(pp.116-117)

―というわけで。
 家族の話に戻ると、利害や目的合理性を根拠としてではなしに成り立つ家族というものは結局こういった情動、愛に基づくものであるしかないだろう、と筆者。それは「自由」や「平等」一本槍では仕切れない空間となります。

 しかしそれは当然、感情というものの不安定さに家族をゆだねることになります。

 そこで、現代ドイツの思想家アクセル・ホネットが出てきます。
 ホネットは、
「現代の家族が置かれている状況は、むしろ、家族の中で「正義・自由の原理」を強化することが要請される、そのような状況である、と指摘する」(p.117)

 たとえば、子供は両親の関係が動揺し感情が安定を失ったとき、その不安定さから守ってくれるものがない。夫婦関係の中でのDVも同様で、感情だけをよりどころとする家族は暴力からも無防備である。

「親の気まぐれな暴力から子供を守るための権利条約を制定するよう求める運動や、夫婦関係内部での女性に対する身体的暴行を刑罰の対象としようとする動きは、こういう状況に直面して、家族を、社会的公正の領域に再度つなぎとめなおそうとする試みであるとみなすことができるとホネットは指摘する。」(p.118)


 結論として。

「家族を「愛」一辺倒で仕切るべきだ、などと性急な結論を出してはならない。そうではなくて、「正義・自由の原理」と「愛の原理」とが拮抗し葛藤しつつも辛うじてきわどいバランスが保たれている危うい緊張の場として、家族を位置づけることだ。」(p.120)

「「私だけのあなた」「自分の命よりも大切なわが子」といった表現は、それがどれほど「押しつけがましさや「大きなお世話」として受け止められかねない危険をはらむものであろうとも、だからといって決して無碍に退けてはすまされない、家族の実質を言いあてている。「私だけのあなた」と「みんなの一人としてのあなた」という論理的には衝突するはずの二つのありかたを、にもかかわらずなんとか両立させようとして骨折られるアクロバット的綱渡りの場―それが「家族」なのだ、と言えば、私は再び、愛や家族を冒険としてロマン主義化する誘惑に屈してしまっていることになるのだろうか」(p.121)

 
****


 「家族と所有」は以上です。

 なぜこの一篇を特にとりあげたか、というと、やはり現代を覆う「愛の危機」というもの、そして私の立ち回り先だけなのかもしれませんが一部での「愛」への関心の高まり、が背景にあります。

 この問題については当ブログの読者の大半を占める今家庭持ちの人ならだれでも一家言ありそうなものですが、ここで藤野教授が言うように「愛」は、強烈な幸福感を産み出す一方で差別や闘い、憎しみも産む、アンビバレントなものであります。それでも特に近代以降、人類は「愛」に魅入られてきました。
 しかし現代、ある世代以降はそれに伴う多大なエネルギーを負担することを避けているようにみえます。

 この事態をどう捉えたらいいんでしょうか―、実は今読んでいる別の本に昨今の子育て事情の変化と、新しい子育て法二世が育ってきていること、そして育ってくる子供たちの変容、が扱われていて大変興味深いです。いえ、暗澹となる、と言ったほうがいいかもしれません。

 ひょっとしたら、藤野教授は今年59歳の方ですが、ここにみるような「愛」観は今50代のおじさんおばさんだけが共有できるものかもしれません。いや、下の世代に伝承していけるのでしょうか。それができるとしたらどんな隘路を通じてでしょうか―。
 以前にこのブログにそのへんを自分の感慨としてぼそぼそ書きましたが読者の方はご記憶でしょうか?

 また、「上司部下関係に『愛』の感情はないのか?」
 これは特に受講生様やこのブログ読者の皆様にはご関心の高いところで、先日さるところで早速そのご質問をいただきました。
 「承認は上司から部下へ「愛」と「力」を伝えられるものですね」
 過去にはそんな印象的なコメントをくださった現役マネジャー(男性)もいらっしゃいました。
わたしの周囲の人は現代日本でもかなり特殊かもしれません。
 
 この辺は藤野教授にご質問を投げさせていただきたいところです。


 もうひとつ蛇足的に、、

「恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」

 ここで言われているような認識の世界は、実は、これほどまでに細やかではないかもしれませんが、「承認教育後」の上司部下関係(上司から部下へ)では、実現できるものです。
 ただひとりのパートナーや家族に対するほど濃密でなく、また視野狭窄でなく、しかしそれまでの段階よりははるかに緻密にきめ細かく、そして視野は広く。
 
 なので「愛」の、家族愛よりは一段階薄まった形、のようにも思えるのです。

 


 他の二篇はまた、私個人的に勉強したいものなので、今後の記事でご紹介したいと思います。

 この論文を「ヘーゲル承認論」カテゴリに入れるのが適切なのかどうか。暫定的に入れておきます―

※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)


正田佐与