ふたたび藤野寛(一橋大学大学院言語社会研究科教授)論文。

 ◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)


 藤野教授を「愛を語る哲学者」と一面的なレッテルをはってもいけません。

 社会哲学である「承認論」を、さまざまな分野で「社会の側から経済を再構築する哲学が必要だ」という主張が出始めている今、藤野教授の論文に沿ってご紹介したいと思います。

 ここでは思想の系譜としてルソー-ヘーゲル-アドルノ-ホルクハイマー-ホネットが登場します。途中で「村上春樹」も登場したのにはびっくり。ホネットはこのブログ読者の方はもうおなじみ、現代ドイツを代表する思想家で、ヘーゲル研究者であり「承認論」の継承者ですね。


「アクセル・ホネットと社会的なもの」

 フランス革命期の啓蒙思想家、ルソーを、ホネットは社会哲学の祖と位置づけます。ルソーは「人間不平等起源論」で、自然状態/社会状態の二項対立を描き、そこで自立した孤立生活/他者志向の社会生活を対比させたのでした。
 しかし、ルソーは自然状態のほうを肯定し、社会生活を、またそこで発生する「認められたい」というダイナミズムをとことん否定したのでした。
 「社会化というこの段階にたどり着くや、たちまち、社会的ダイナミズムが発生し、その行き着く先は、認められたいという欲求と威信を誇示することとのきりのない堂々めぐりなのだ」(p.241)

「他者から認められたいという欲求が、往々にして、とても見苦しい振舞いを引き起こすことは否めない。それは、人にチヤホヤされたいという願望であり、実際の自分以上のポジティヴな像を流布させようとする思惑なのだから。また、他人の評価は人から謙虚さを奪うだろう。承認をめぐる闘争とは、常に、虚栄・虚飾・虚勢の闘争に転落しうる素性のものだ。ルソーを承認論の―ただし、否定的な―始祖と見なすことで、ホネットは、その消息にも十分に自覚的であることを示している」(p.242)

 ―うーん、そうですね。「承認欲求バッシングを批判する」立場のわたしもこの点は同意します。「承認欲求」って、亢進してみっともない有様になることがあります。
 願わくは、受講生様方は「虚栄・虚飾・虚勢」と距離を置く人々であってほしい。
 そのためには、まずは「承認欲求」という自分の内にも他人の内にも存在する、善にも魔にもなり得る巨大なものの存在を「認め」、ときにはそれに呑みこまれる経験も経て受容し、時間をかけてコントロールするすべを身につける、しか結局手はないのだと思うのです。リーダーの方々には苦しい試練です。
 あ、正田はね、時々このブログも書けなくなるときがあるんですが、それはよっぽど忙しいときを除いては、「ブログを書く自分」への懐疑が湧いて自分もまた承認欲求の徒ではないのか?という自問の声が強くなるときです。


 ホネットはそれに対し、「承認」を肯定的な方向に捉えます。
「自分自身に満足し他者を必要としない、というあり方が可能になるためにも、いささかの不安の思いもなく他者による承認を享受したという経験が経られていなければならない」(承認の経験、pp.242-243)

 加えて、「承認の不在」という事態。これは「無視あるいは軽視(Missachtung)」と「物象化」という二つの現象に分けられます。
 「無視あるいは軽視」は、「不可視性」ということ。例えば黒人の奴隷(奉公人)の前で貴族は平気で服を脱ぐ。それは奉公人たちはそこに居合わせないものとされていたから。見えていないのではなく、その「存在を認めない」のです。

 そして、半月前の論文にも出て来た、「承認が認識に先んじる(承認の優先性)」というテーゼ。
 わたしも読み違えていたかもしれませんが、ホネットはこれを、対人に限定して言っていたのではないのです。世界全体に対する姿勢について言っていたのです。

「関心を寄せるという態度が、現実を中立的に認識する態度に先立つ。承認が認識に先立つのである」(p.244)

 先立つ・優先性という言い方は、時間的な先行だけではなく、承認という経験は、認識のそれが成り立つための基盤の役割を果たすものだ、とホネットは言います。


「 「承認」と「認識」の対比をめぐって、もう1点、基本的なことを押さえておこう。
 遠くから歩いてくる人を見て、あれは恋人だ、と認知する。あるいは、敵だ、でもよい。その場合、視界に入ってきたものはただ無関心に確認されているのではない。ある種の焦点化のような操作が働いている。ある対象だけを浮き彫りにする、際立たせるという操作だ。(略)自らの関心によって中心化/周縁化された画面の中で、世界は、対象は認識されていくのに違いない。ホネットが引用する「知識は最終的に承認の上に基礎を置く」というヴィトゲンシュタインの言葉が言わんとするのも、そういうことだろう。
 ということは、そこでは、自分にとって重要な何かとそうでない何かとの差別化が行われているということだ。それは一種の価値評価である」(p.246)

―あ、そこまで言っちゃうんだ。ここで言われていることは、価値評価ではあるけれどもマネジメントの承認の世界でいう業績の評価や、行動の評価とは異なり、「何にフォーカスするかを無意識に決める」という、きわめて消極的なレベルの原始的な価値評価であるようです。うーんたしかにその段階のことも依怙贔屓とも言えるな。昔、マイナーな球団のファンだったわたしは「ジャイアンツが好きな人は結局最初にジャイアンツが目に入ったから「偏愛」してるんじゃないだろうか?」とおもっていましたが。
 また、ホネットは純粋客観的な認識をダメだと言っているわけでもなく、二項対立ではなくそれをも肯定するので、正田は「承認の徒」でありながら一方で「ヒューリスティック論」みたいなものをやるのですが実はそれでいいみたいなんです。

 ここで筆者藤野氏は「子供の音楽発表会での親の態度」というものを例示します。

「…しかし、私は、1〜2時間の発表会の間、ほぼわが子しか見ていない。大勢の他の親も、同様に、ほぼ自分の子供しか見ていないのではないか。この事態に気づいて、私は奇妙な気分にとらわれる。舞台の上では、1つの合同発表会が行われているのに、聴衆・観客である親たちにとっては、実態としては、複数の独演会が同時並行的に行われているに等しい。そして、子供の側でも、会場の中で自分の親しか意識していない。彼(女)にとっての聴衆・観客はただ一人、という事情にあるのかもしれないのだ。
 ここで起こっているのが承認ではないか。(こう言うことで、「承認」という日本語がおよそ事象内容にそぐわないものであることも明らかになろう。)」(pp.248-249)

―最後の一文は、anerkennenというドイツ語は「承認」よりは「認める」という日本語に対応する、という半月前の論文を思い出したらいいのでしょうね。

 藤野氏によれば、幼稚園では親がカメラを構えるのを防ぐためプロのカメラマンに撮影を委託するが、そのカメラマンは無味乾燥なロングショットを撮っていればいいわけではなく、可能な限り一人ひとりのクローズアップをおりこむ。それはあくまで公平な神の視点と、究極のえこ贔屓である親の視点を両方あわせ備えるようなアクロバット的カメラワークである(これを、ケアの視点とフェアネスの視点の両立、と捉えることも可能だろう)と言います。おもしろい。

 そして村上春樹が登場。
 『風の歌を聴け』における、「僕」の「わかった」という表現は、正確な理解を意味しているのではなく、
「君(の心の状態)は、僕にとって、どうでもよい何ごとかなのではない」という関心の念を表明しているのだ。加えて、こちらの解釈を押しつけるつもりもないよ、という思いも。まさしく「承認」であろう。」(p.250)

 筆者藤野氏の言葉として、「村上春樹は「承認」の姿勢を定着することで、1969年の世界に対するアンチテーゼを差し出した。」(p.256 注18)

 否定ばかりしていた全共闘の時代へのアンチテーゼ。考えてみれば先行した村上龍も強烈な「否定」の人だったかも。そういう時代感覚は、なるほどでした。

 
 最後の「よい(病んでいない)社会について」の文章が、みものです。

「承認の優先性についての超越論的な議論と、承認をめぐる闘争についての社会学的な議論との間の関係は、次のように考えることができるだろう。たしかに、承認の経験が先行するのだが、それが中心化の方向をとるとすれば、その後の子供の成長のプロセスにおいては、脱中心化が起こるのであり、そこでは、承認の世界から認識の世界へと―比喩的に語るなら―離陸していく、という方向性が見出される。しかし、完全に離陸してしまうわけではない。人間は、承認の世界にのみ生きることはできないが、承認の世界を離れても、経験の基層において常に承認を必要とし続ける。だからこそ、承認をめぐる闘争は、やむことなく戦われ続けるわけだ。
 乳・幼児期の承認の経験は、それ以降、承認をめぐる闘争がきちんと闘われるための地盤を用意する、と言うべきだろう。
 だから、よい社会とは、承認をめぐる闘争が闘われない社会、その意味で、平和な社会なのではない。平和とは、むしろ、社会の「社会」性の否定だろう。この観点からすれば、平和な社会こそ病んでいることになる。そうではない。承認をめぐる闘争が、その文法に従ってフェアに闘われる条件が整っている社会こそ、そして、実際にも闘いがきちんと闘われ、そして、敗者には過不足ないケアが保障されている社会こそ、病んでいない社会である、ということなのだ。
 闘争は、よい社会においても継続される。Der Kampf geht weiter!」(pp.254-255)


―いかがでしょうか。「承認をめぐる闘争」はヘーゲルがはじめに言い、ホネットが継承しホネットの代名詞のような言葉ですが、それは、闘争が原始状態の野蛮なものだからそこから人類は抜け出さなければならないと言っているわけではないのです。
 この社会を構築する営みがすなわち永遠に「承認をめぐる闘争」そのものなのであり、その残酷な側面を含めて直視し分析しよう、ということを言っているようにみえます。
 「階級闘争」という19〜20世紀の用語が死語になったかにみえても、わたしたちの社会は闘争を内包していることに変わりはなく、それはフェミニズムであれインクルージョンであれ他の何であれ、「承認をめぐる闘争」に還元される、というふうに理解できそうですがいかがでしょう。


 もう一つの論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」にもこれに近い記述があり、並べてみることで見えてくるものがあるかもしれません:

「社会性ということが、協力や連帯といった、一義的に肯定的な関係としてのみ成り立つものではなく、その本質成分として「闘争」ということを含み、敗者を生み出さずにはすまないという側面を持つのだとすれば、求められるのは、社会生活の残酷な側面をもきちんと直視する理論構築こそそれであろう。
 (中略)
 「承認をめぐる闘争」に注目することで、われわれは、暴力のない世界の住人になろうとするわけではない。しかし、それは、「自由をめぐる闘争」において現象する暴力とは異なる特徴を示す暴力として現象せずにはすむまい。暴力概念のインフレーション現象に対極されるべきものとは、暴力を人畜無害化することではなく―暴力のない世界を描き出すことも、すべては暴力だと言ってしまうことも、いずれも暴力を人畜無害化することだ―暴力現象に対する差異化された、分析的な視点を獲得することを措いて他にはないはずである。」(「自由と暴力…」p.81)



 また蛇足:

 ホネットのいう「自己自身の物象化」という概念を記した文章も抜き書きしておきます:

「ホネットが、「自己自身の物象化」という捉え方で具体的に視野に収めているのは、「臓器売買」、「代理母」や「売春」といった現象である。日本では、所有論の文脈で論じられることの多いこれらの問題を、ホネットは、物象化論の枠内で取り上げる。自己自身の身体の物象化が起こる前提に、承認の忘却、つまり、人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失っているという事態を突き止めるのである。自らの感情や欲求、感覚を、まるで他人事のように距離を置いて眺めるという事態が生じていて初めて、上記のような「病理」も起こりうる、と考えるのだろう」(「アクセル・ホネットと…」p.256 注15)

―ここでいう「人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失う、まるで他人事のように距離を置いて眺める」という現象を、私は「承認欲求バッシング」の行き着く先の事態として予感するのです。あ、なんだか哲学者みたいな文の書き方になっちゃったよ。
 ここでは臓器売買、代理母、売春がそれに該当するのかどうかは、ちょっと保留です。


 ともあれ、21世紀の世界が直面する格差と暴力にたいして、まともに対峙する社会哲学として「承認論」は位置づけられるのではないか、と思うのです。


※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)



正田佐与