さて、「毒食わば皿」で、藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授)からいただいた最後の論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>」(『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』岩波書店、2010年)を軸に、

「暴力と承認」
「自由と承認」

あるいは

「(ホネット承認論において)承認がその定義の範囲として引き受けているもの」

を、まとめてみたいと思います。


藤野寛氏論文-2


 
 ここに出てくるのは、フランクフルト学派のアドルノ、イギリスの政治哲学者バーリン、そしておなじみ現代ドイツのホネットです。そろそろこのブログ的にホネットにシンパシーが出来つつありますね。

 アドルノ(テオドール・W・アドルノ、1903−1969)は、ユダヤ系ドイツ人の哲学者で、ナチズムの「暴力の経験」を生涯身に帯び多様な現象に暴力を感じ取りながら生きていました。「暴力の遍在する(偏在ではなく)世界」というのがアドルノの指摘でした。
 

「アウシュヴィッツ以降に生きるとは、アドルノのような人にとって、日常生活に見出される様々な暴力現象が、その都度、アウシュヴィッツとの連想の下に経験されねばならなかった、ということを意味したのだろう。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というよく知られた言葉も、そのように受け止められるべきものである。」(「自由と暴力…」p.60)

「アドルノ/ホルクハイマーが暴き出したのは、文明化という出来事の内に、「野蛮」がそれだけを切除することが不可能な仕方でセットされている、という消息だった。人間を暴力や野蛮から着実に遠ざけ、洗練させると無邪気に信じられていた「文化=啓蒙」が、それ自体「野蛮」であるということ、文化人とは野蛮人の別名であるということ、それが『啓蒙の弁証法』という著作が暴き出した事態に他ならない」(p.62)

 
―ここで「アドルノのような人にとって」という言葉がちょっと意味深に、わたしには映りました。「暴力性」に対する感受性の高さ、というのは、このブログの過去記事では、「傷つけないこと」(harm reduction / care)という種類の道徳感情に当たりそうです。
脳科学から見た5つの道徳感情が人を動かす―『脳に刻まれたモラルの起源』をよむ参照)

 そのような資質をもってアウシュヴィッツの時代を生きたとしたら、そこではひりひりするむきだしの感受性を思想に反映させずにはいられなかったろう、と思うのです。

 
 さて、アドルノは啓蒙という語の内にある理性や主体、自由といった近代の諸理念はいずれも外部の自然、および内部の自然に対して支配する地位に立とうとする、自由の獲得をめざす営みだ、と言い、そこで「自由とは支配の別名である」という指摘があります。自分が主体になるということは、他のものや他人を支配することだと。だから野蛮なのだと。


 これ自体大きな指摘です。しかし、これに異論を挟んだのがフランクフルト学派第三世代のホネットでした。ホネットは、社会理論を「自由を求めての闘争」のみをモデルに考えることが、社会理論としては一面的であり、不十分だと主張しました。


「ホネットは、近代の社会哲学が、社会関係を基本的に「自己保存をめぐる闘争」として理解してきた、と指摘する」(p.62)

 1つ前の記事でもみたルソーが『社会契約論』でいうように、片時も休まず命がけの闘いをしないで済むように、人々は契約を結び、「社会」を形成した。そして関係の中で生きることを余儀なくされますが、そこで人々が目指すのは、支配者の地位を確保すること。少なくとも、支配されないという消極的な意味で、自由であること。

「自然に対する関係に定位して自由を考えようとすることで、「自然支配の能力としての理性の獲得=自由(自律)」と立論され、身体も含め、物との関係においては、自由とは支配の能力である、という等式が成り立つ」(p.63)

―自由とは支配の能力である(物との関係において)。読者の皆様おわかりになりますか。わたしは既にあたまが痛くなっておりますが、例えば原始時代、人間が火のおこし方を発明し、石や枝を変形させて武器の作り方をおぼえ、そうして非力な人間が自分より大きく牙をもった獣を狩るようになる、そういうプロセスを思い起こすといいでしょうか。

 (ルソーらの)社会哲学は、この等式モデルを社会関係の構想にも当てはめ、他者支配を通しての自己決定(自由)の確保ということが、この社会理論の理念でもあるとみている、とホネットはいいます。

 それ、ちゃうやろー。と、いう声がここで、読者の皆様の脳裏にも起こりましたでしょうか。だって、他人は獣でも石器でもないですもの。
(でも確かに、「万人の万人に対する闘争状態」、たしかホッブズがそんなこと言ってたしルソーもそれ的なこと言ってた気がするな。)

 と、ホネットも同様に考えたようです。

「社会関係が「自己保存・支配をめぐる闘争」に一面化され、還元されて論じられてしまっていると(ホネットは)指摘する」
「そして、この批判を可能ならしめているものこそ、ホネットがその社会理論として精力的に展開している承認論である。社会性とは「自己保存をめぐる闘争」に尽きるものではなく、それと同等に「承認をめぐる闘争」が考慮されねばならず、それをこそ「社会的なもの」の本質構成要素として捉えなければならないとする主張である」(p.64)

―ふーやれやれ。結局ここがほっとする着地点ですね。
 自分と同様に主体であり、尊厳をもった他人の中で生きるということ。だから承認論。ここでいう「承認」は「支配する―されるのではない、対等な尊重し合う人間関係」ということを言っているようにみえます。

 人間は人の間と書くんだよ。なんて、実は当たり前のことを言っていそうな気もしますが、先行するほかの理論との対比の中でやっとそれは明らかになります。なので面倒でも先行する理論をおさえながらすすまないといけないゆえんです。

 この手続きのめんどうなこと。次以降の記事で少し詳しく書こうと思っていますが、正田はこのブログの誕生以来、いろんな「よそさま」の理論を批判しまくって今に至っていますが、やっぱりそれは「承認教育」が生き延び人々を幸せにするために必要な手続きでした。

 閑話休題。

 自由とは支配である。
 だから、自由であるだけではその人は幸福とは言えない。
 このことを言うためにもう一つの視点がバーリンの自由論だ、と本論文はいいます。
 
 アイザイア・バーリンはその『自由論』の中で「消極的な自由」と「積極的な自由」の区別を規定しました。
 前者「消極的な自由」とはすなわち、自己の活動が他者による干渉を免れていること。
 しかし、それはうれしいか?
 例えば引きこもりも他人からの干渉を一切受けていないのかもしれないけれども、それを「自由」だ、と呼べるかどうか。自分の中に何らかの欲求がありそれを実現するために行動する人のことを「自由」だ、とわたしたちはイメージするのではないか。

 そこでバーリンの「積極的自由」も「欲求」を問題にします。

「「自由」という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるものだ。」(バーリン)(藤野論文p.65)

「自分自身の主人、という言い方をする時、より正確には何に対する主人(主体)が考えられているのか、と問えば、「欲求」を措いてあるまい。」(同)

 自分の欲求の主人になる。しかし、「欲求」というのは100%自分の内発的な欲求などはないので、(正田注:これも「内発と自律論」のきわめてあっさりとした否定です)

「現実には、人は、自らの欲求を、周囲(他者、社会)との関係の中においてこそ見出してゆくのではないか。私の欲望とは、他者の欲望であるとは言わずとも、他者の欲望との同一性と差異性の認識を通してこそ自覚されてゆくものなのではないか」(p.67)


―これは、親御さんが望むからいい高校や大学を受験するとか、いい会社に就職するとかいうことかな?あるいはその社会や文化が規定する「まっとうな人」として社会人になろう、と思うことだったり、「偉大な人」「尊敬されるべき人」を目指して努力する、ということも入るかもしれません。会社の理念や学校の校訓にしたがって生きるようなことも入るかも。
 わたし的には例えば論文を書いてもそれを査読で認められなければ世に出ない、というところから「人に認められる」が不可欠だ、というロジックを期待していたのがそこを言っているわけではないようです。「欲求の形成される前段階の他者の影響」を言っているようです。いずれにしても、ひょっとしたらマズローの「自己実現」へのアンチテーゼかな、という風にもとれます、時代的に。


「消極的自由を100%実現しようと思うなら、人は、全くもって他者との関係なしに生きるか(テレビやパソコンの前に座り続けるか)、さもなくば、関係するすべての他者を客体(奴隷)の位置に追い込むかするしかない。そういう孤独な、そして内容を欠く自由に飽き足らず、そこに実質的な内容を与えようとすると、他者との関係に支援を求めるしかなくなり、つまりは、自由が他者によって侵害されることを意味せずにはすまなくなる。
 私は、無造作に「充実」という言葉を用いている。「幸福」という言葉で置き換えても差し支えないものだ。バーリンの自由論が教えてくれることは、「積極的自由」の理念の孕みうる危険に警鐘を鳴らすことである以上に、むしろ、自由の理念一本槍では、「充実した自己」「幸福な自己」について構想するための道具立てとしては不十分だ、という点にある。」(p.68)

―自由だけでは幸福であるために不十分だ。
 そこで、バーリンは「承認(欲求)」を出してきます。必要なのは、人から認められる/褒められる、愛される経験なのだと。

「注目すべきは、承認が、自由に対する1つのオルターナティヴとして呈示されている点だ。人間は自由だけでなく、同時に、承認への欲求をも抱く存在であるという論点が、いささか唐突に、しかし力強く表明されている。」(p.69)

―唐突、そう、いつも唐突なんだよなー承認の登場って。ルソーにおいてもヘーゲルにおいてもそう。前触れなくグイと突き出される。だから仕事ですごく説明しにくい。
 ともあれバーリンは自由への欲求と承認への欲求のふたつを呈示しました。ただしその関係、両者は両立可能なのか否かは呈示しませんでした。

 
 そしてやっと「承認をめぐる闘争」が出てきます。

「人間がその理性を拠り所にして自然支配の能力を高めてゆくプロセスとしての文明化が、自由の拡大と考えられているのだが、そのように「支配をめぐる闘争」「自由をめぐる闘争」に着目するだけでは、人間が生きる上での「社会」性というものの一面しか捉えていない。それどころか、「社会的なもの」の最も本質的な側面を取り逃がしてしまっている、と。
 では、その時、社会的なものとして何を考えればよいのか。「自由をめぐる闘争」と並んで、「承認をめぐる闘争」こそそれである―これがホネットの回答である。」(p.71)


―「承認をめぐる闘争」と「自由を求めての闘争」が異なる点は、どこか。

「相手も主体であることは、こちら側にとっては、自由の制限を意味せずにはすまない。」(p.72)

 「自由の制限」の表現が出てきました。フィヒテ先生だったかな、以前このブログでそれを言ったのは。わたし賛同してたんですよね、それに。

「自由とは、自律であり、自己決定であるが、相手を主体として認めることは、相手の意思を尊重することであり、その限りで、こちら側の意思が制限される事態を伴わずにはすまない。言いかえれば、自由を求めての闘いは、相手を客体たらしめることによってこそ完成する。強く言えば、相手を奴隷たらしめることだ。」(pp.72-73)

 ―「主人と奴隷の弁証法」ですね。なんども出てきたのでそろそろ奇異には感じないでしょう。でも時々おさらいが必要ですね。

 それに対して、「承認をめぐる闘争」とは。

「それに対して、「承認をめぐる闘争」においては、相手が客体(奴隷)になってしまったのでは、闘いに勝利したことにはならない。一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。(略)相手も主体でなければそもそも意味をなさない闘いなのだ。「承認をめぐる闘争」においては、主体/客体という概念セットは機能しない。主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす、と表現するしかない。」(p.73)


―おもしろい。
 (わたし的には)ここは2つのポイントがあります。
「一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。」
 「イエスマン」から認められても嬉しくない。あるなあ。(時々、それでも嬉しい人はいますけれどね)
 で、少々手ごわい、利害関係のない人から認められると嬉しい。尊敬する人、雲の上の人から認められると最高に嬉しい(後者の代表的なものが「園遊会」であるとわたしは思っています)
 だからこそ、ある時期から子は親の元を離れる。自分を無条件で愛してくれる人では飽き足らなくなり、友人や異性や先生、コーチからの評価、あるいは試合に勝つこと、などを求めるようになる。
 そして最後の文、
「主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす」
 これもおさらい。
 前にも書きましたが正田は「間主観性」という言葉が好きなんです。ウエットな「共感」という言葉よりも。(もちろん、「共感」もTPOに応じてつかいます。)
 「間主観性」には、「共感」以上に、他人の主体性、他人の尊厳を認める、という語感があります。そして、感情のレベルで共感できようができまいが、理性のレベルで維持する、という語感があります。
 「共感」一本槍だと、例えばすごい努力して成功した人には「共感できない」という事態もすぐうまれてしまいます。映画「マイ・インターン」に出てくる「ママ友」たちのレベルの低い感情状態もうまれてしまいます。(この映画については、いずれ稿を改めて書きたいと思います。「承認映画」です。)

 
―では、社会生活というものを「自己保存/支配/自由をめぐる闘争」と「承認をめぐる闘争」という2つの観点からとらえることは何を意味するでしょうか。これが次のパラグラフです。

「第一に、両者が共に「闘争」として捉えられることで、社会生活を調和や平和の相のもとに見る視点が斥けられる。われわれは、個人主義が支配し、その弊害が強く意識される環境の中に生きているため、関係や間柄について語ることは、既にそれだけでもう友好的で肯定的な何ごとかについて語ることでありうるかのように感じかねないのだが、それは一面的だ。間柄とは、闘争(葛藤)の別名である。そして、闘争であれ葛藤であれ、そこに勝者だけでなく敗者もまた生まれることは避け難い。それは、社会生活という競技のルール、あるいは文法とでも呼ぶべきものだ。「共同」や「連帯」の理念一本槍で押し、一人の敗者も生み出さないことを標榜する「社会」主義は、社会性への誤解に基づく社会的ロマン主義として、破綻を約束されたプロジェクトなのではないか。社会的なものの社会的なものたる所以は、そこで必然的に生み出されることになる敗者を、どのようにケアするか、という点にこそあるだろう」(p.76)


―社会生活とは、「闘争(葛藤)」だ。
 1つ前の記事の繰り返しにもなりそうですが、その視点をもたらすときの苦渋と諦念の語感をも写しとりたかったので、あえてパラグラフごと引用しました。
 「社会で生きることは闘いなんや!当たり前だ、どや!」と突きつけているのとも、違うのです。というために。
 ここは、今「一億総活躍社会」が言われ、その中で「ソーシャル・インクルージョン」(@菊池桃子)が提唱され、という時代に、どういう役割を果たすか分からないままに引用しております。
 
 「闘争(葛藤)」ということでいえば、実は正田も「与える承認」の教育をしてきた立場として、それの繰り返しをこのブログでも実生活でも演じてきた、という自覚があり、次の記事あたりでそれをまとめて書かせていただこうかと思います。

 このあと「暴力」についての考察がありますが、それは1つ前の記事と重なります。すなわち、ホネットのいう「承認の不在」がもたらす「暴力」とは、(1)無視(2)軽視(3)物象化―であると。

(ここは、IS(イスラム国)でのような、あるいはシリア難民を生み出したような物理的な「暴力」とは違うものですが、そちらは「自由(支配)を求める闘争」がもたらすものとして理解してよいのかもしれません。いや、「物象化」の中に入るのかな。)

 そこで「承認をめぐる闘争」は、上記のような「暴力」に対抗しようとするものになります。合法的には社会運動、訴訟、問題特化型政党、投票行動、のような形をとりうるでしょう。

 「難民」はまた、受け入れ先の国家で「承認をめぐる闘争」の当事者になることが予想され、それは「闘争」の連鎖であります。そこから目を背けてはならない、タイムリーな話題で言えばそうなるでしょう。
 え?FBのヘイトスピーチイラストレーターのページ削除を求める署名は、しましたよ。


―まとめると、「ホネット‐藤野論文」で「承認」が引き受けている意味あいというのは、

大定義:肯定的な見方、関心をもった見方

小定義:
(1)愛(限られた範囲での無条件の濃密な感情)
(2)人権尊重(無視しない、みくださない、包摂する)
(3)公正な評価(努力したものが報われること)

 そしてそれは、「それを得るために闘争(葛藤)する価値があるもの」ということになります。
 また、「幸福の不可欠の要素の1つ」だ、ということも読みとれるでしょう。
 「自由を求める闘争」というエゴイスティックなものだけでは人は幸福になれないのだ、というメッセージも。

 そこからリベラリズム・リバタリアニズムとの分岐、コミュニタリアニズムとの合流、という文脈も読みとれるのかな、と思います。
 「ポストモダン」からはまた一歩先に進んだ思想、ともいえるかと思います。

 やはりこのへんは藤野教授にお伺いしたいところです。

 「ベルリンの壁」が崩壊したとき(1989年)、「今からは冷戦ではない、民族対立の時代だ」という言い方がなされました。
 より時代が下って格差社会が鮮明になるこんにち、浮かび上がっているのが「承認」だ、ということに早く気づいた人ほど先に幸せになれそうです。とこれはわたしの勝手な物言い。



 以上までが「藤野論文3部作」(最初の一橋大学連続講義本からの引用を含めれば4部作)ということになります。
 インデックスとしては

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)

となります。


 「引用過多」の読書日記になっていることについてお詫びしたところ、(1)の本の出版社からの喜びの声を伝えて温かくお許しくださった藤野教授に感謝です。行動理論的に図に乗って(2)以下の記事もアップしてしまいました。

 時節柄、「承認論」を正しく皆様に知っていただきたい、と思うのです。
 またいつものことながら研修受講生である実践者の皆様も、教師・正田の知的探検(それは六甲山に登ってイノシシに引きずられて、というレベルの他愛のないものではありますが;;)を温かく見守ってくださり、ありがとうございました。
 そしてフェイスブックの心優しいお友達の皆様、長文記事ばかりのブログにいつも「いいね!」を押してくださり、コメント・シェアしてくださり、ほんとうに感謝しております。


正田佐与