さて、「藤野寛論文シリーズ」を終えてマネジャー教育の「行動承認」の教師である正田がおもうこと。

 ここでは、

●わたしが経験した「承認をめぐる闘争」
●実践者たちの強さと脆弱さ

という話題を書こうと思います。


 「承認教育」にも、「闘争(葛藤)」の側面があります。52歳女の正田はそれの当事者となり続け、実はそのことにもうかなりくたびれてもいます。

 その「疲れた」という自分の中の正直な感覚も含め、これまでに経験した「闘争」について、この機会に書いておこうと思います。
 たぶんそれは歴史の一コマで、記録するに値することだと思うのです。


 もともとホネットが「承認をめぐる闘争」というとき、正田のやるようなマネジャー教育が「与える承認」を社会に供給するという事態を想定しているのかどうか―。
 藤野論文にも「承認は「認められる」という受動態であるところに独特の意味がある」ということを言っていて、「与える承認(=能動態の承認)」が、そこで想定されているのかどうかわかりません。
 
 でも、「与える承認」をマネジャー向け教育プログラムとしてご提供し続けてきて、10数年来強烈な成果を出し続けてきたのは厳然たる事実です。

(ちなみに、「学術的に検証」してもらうのはもう、諦めています。だって少々の学者さんが想定するような業績向上のレベルではありませんもの。論文書いてどこかに出しても「捏造?」って言われるだけで、学者さんにとってもメリットないと思います。
 学者さんたちがやるような業績1.05倍とか1.1倍とかの程度の、「学術的に検証された」教育プログラムより、民間療法の当方のほうが「はるかに上」だ、ということです)

 さて、「与える承認」を社会に供給するには、社会の上のほうの階層に働きかけないといけません。経営者、マネジャー…あたりに担い手になってもらわないといけません。
 そこで経営者教育、あるいはマネジャー教育、という選択肢になるわけですが、その市場には独特の流通のルールがあり、購買担当者は独特の人格、独特の利害関係をもった人たちであり、一介の主婦から出発した正田の参入は容易ではありませんでした。

 以前にも書いたと思いますが正田が初めて勇気を奮い起こして「法人営業」にいった先の購買担当者は、営業資料を投げ返したものです。「主婦」の正田が、「でもわたしの生徒さんは業績1位なんです!」てなことを言うからです。その件はいまだにトラウマになっています(苦笑)

 正田が経験してきた「闘争」というのは、そうした「社会の上層部」に働きかけようとする際の参入障壁のようなものであったり(「無視」「軽視」にカテゴライズされるでしょう)、いざ参入したあとも起こる妨害であったり、またその参入の困難をいくら訴えても理解しない周囲の人の鈍感さとの間の葛藤であったり、します。
 参入障壁を詳しく言うと、そこには関西の風土特有の、「お爺さんコンサルタントをありがたがる」気風も影響していたと思います。より特定すると、「団塊コンサルタント」ですけれど。その方々が今の時代到底通用しないような、イケイケドンドンの論調のリーダー研修を行い、それは受講生がまじめに取り組めば取り組むほど死屍累々になるようなものでした。そういう類のものがメンヘル疾患や自殺、パワハラ訴訟をつくりだしていないか、わたしなどは本気で危惧しますが、まあそういう因果関係に思い当たる人はいませんナ。
 また下手にわたしのために動いてくれた人びとが動いた先で「憤死」するのもみてきました。中にはこころを病んだ人もいました、まじめな話。

 ちょうど1年ほど前、通算7回目の事例セミナーを神戸で行った際(7回もやらなければならなかったことが、既に「無視、軽視」を象徴しているのだが)、あろうことかパネリストの1人がイベントの席上で反旗を翻し、この教育プログラムに何も価値がなかったかのように言い、自分の部下が優秀だっただけだと強弁し、かつわたし個人のことも侮辱した、という事件もありました。
 そういうのも「承認をめぐる闘争」の一部でしょう。歴史の一コマですから、担い手の名前とともに記録しておきたいものです。

 また、ブログの長い読者の方はお読みになっているかと思いますが、他社批判の作業の忙しいこと。
 このブログの右側に最近表示させた記事カテゴリに「研修副作用関連」というのがありますが、そこをみていただくと、主に心理学系の教育研修や自己啓発本を軒並み批判してきました。「内発と自律論」や「離職者続出」にするコーチングの某流派やNLP、アドラー心理学の「勇気づけ」、自己啓発本、さては「傾聴教」も批判しました。中には善意の担い手の方もいらっしゃるかと思いますが、多くは専門家の間では常識である「暗黙の前提」を欠いたプログラムであるために、素人である受講生の中に落ちるとおかしなことが起きてしまう。そこまでの想像力をもたずに提供しているなら、それは「わるい研修」です。クルマのリコールをわらえません。

 そうして、「他社批判」という汚れ仕事は、「承認」のもつあたたかく受容的な雰囲気にそぐわないものでした。それで味方のロイヤリティが下がる場合もありました。「承認」は「内集団」のなかでは限りなく温かいのです。しかし、「外集団」が攻撃してくるときには無防備ではいられません。また「外集団」との間になぜきっちり線をひく必要があるのか、なぜぼやけてはいけないのか、ということもきっちり言わないといけません。とはいえ批判の仕事はあまりにも多すぎ、自分の人格がおかしくなったのだろうか、と思えるほどでした。

 残念ながらその汚れ仕事を担うのはずうっとわたし一人で、その孤独感は半端ありませんでした。

 最近懺悔したのですが、「他社批判」「他理論批判」をやる中で、「承認欲求バッシング」に対する批判は、後手に回りました。そこまで手が回らなかった、と言ってもいいです。現象としては2013年ぐらいから、どうも出版界のこの傾向はおかしい、と気づいていましたが、ほかに批判しないといけないものがあまりにも多すぎて、そこに手をつけられないできました。

 もっと早く
「そこに照準を合わせないといけない」
と気づいていれば、また
「なぜそれがおかしいか」
をきっちり言っておけば、そこに連座しないですんだ人もいたかもしれない。

 わたしを「他社批判ばかりする」と批判する立場もあるでしょうけれど、自分の責任を全うするために批判をしなければならない場面もあるわけです。批判が遅れて悲劇を生むかもしれないわけです。
 

 
 ともあれ、正田は失うものもない身ですので、売られた喧嘩は喜んで買います。今社会で下の階層に沈められ苦しんでいる人々のためであれば、「えせ知識人」の1人や2人、にどと表舞台に立てなくするぐらい全然平気です、たとえ相打ちになっても。
 そして喧嘩慣れしているので、たぶん喧嘩になったらわたしのほうが強いです。このあいだも某ダンジョンで自称武術家の人を投げとばしました、言葉で。喧嘩売りたければどうぞ売ってきてください。52歳女性のわたしを怒らせたかったら怒らせてみなさい。


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 さて、「承認教育」は、極めて優れたマネジャーをつくり、高い業績向上を起こします。

 その担い手となるマネジャーは、決断力に富み、配慮に富み、行動力があり、人々を上手にモチベートし、人々を公正に評価し、人の痛みがわかり、柔軟で過去にとらわれず、また責任感高く、真摯で考え深い人々です。
 それはもともとそうした才能があった人々が担い手として定着しやすいのだと思いますが、トレーニングと実践により、それらがますます高まります。ワーキングメモリが増え思考や感性の密度が上がり、恐怖を感じる扁桃体の細胞密度が減り、ものごとを前向きに考え決断します。

 いいことずくめのようですが。
 ところが、この人々にも弱点があります。
 どうも、「悪意に無関心でいられない、傷つきやすく落ち込みやすい」という脆弱さがあるようなのです。

 これは過去の複数の事例をみて言っているので、「どういう実体験に基づいて?」という探りはおやめください。

 たぶん彼(女)らの鍛え抜かれたミラーニューロンは、他人の悪意ある言動をもフォローしてしまい、その意味・意図を理解してしまうのでしょう。また共感ホルモンのオキシトシンには、沢山のよい作用がある一方で、「おちこみやすい」という副作用があります。

 だから、実践者を傷つけるのはやめてほしい。

  また、傷つけ(harm)を誘いこみやすい、というんでしょうか―
 正田もクソマジメなたちなのでよくわかるのですが、真摯でない人は、真摯な人をばかにしたくなる。真摯な人というのは、からかい甲斐がある。
 なので、真摯な人々に向けた「からかい」というのは、よく出やすい。

 大きなワーキングメモリをもった人というのは、ものごとを通常より一段階深く考えることを厭いません。
 その姿勢は部下からは絶大な信頼を生むものですが、(ドラッカーの「マネジャーは真摯であれ」というフレーズも想起されたい)そこまで真摯ではない同輩や上司からみると、鬱陶しくみえます。それが、こころを傷つける揶揄につながりやすいものです。

 そして、昨今のクルクル変わる研修採用の問題。
 「承認教育」が有効なのは既に自明のことですから、彼(女)らから取り上げないでほしい。1年やそこらで取り上げて次の類似の研修を採用してしまったら、恐らく真摯な人ほど深く傷つきます。

 そこで起こる「傷つき、落ち込み」は、真摯でない人からは恐らく想像がつかないものです。



正田佐与