今日はなんか背伸びをやめて普段着のわたしに戻っております。

(「大学の先生」が話題になっておりますが最近このブログに登場された方々のことではありません。念のため)

 昔々の大学時代、恩師は院に進学しろと言ってくださったんですが「家が貧乏ですから」と言って就職しました。
 貧乏も嘘じゃなかったんですが、本当に進学したかったらバイトしてでも何でもしたと思います。本当は自分は学者になれるたちではない、と思っていたんです。

 ゼミの1年先輩にすごく深く掘り下げる、しかもすごいスピードで、という方がいらっしゃいまして。中本義彦さんとおっしゃり、今静岡大学の教授になられています。どんな文献を読まれても、わたしなどが「この本には今いち乗りきれないなあ」というときでもウッと深く突っ込んでいかれその文献の世界の住人になられるんです。かと思うと「自分の中にもナチズムやマルクス主義と同様のファナティシズム(H.アーレントの世界ですね)がある」と内省されたり、いやファナティシズムも才能でいらっしゃるから内省しなくていいんじゃないですか、と思いましたけれど、まあそういう、文献の中に深く潜る、しかも素早く、ということにかけてオリンピック選手のような方がいらっしゃったんです。
 先年恩師の逝去後のゼミOBの集まりでその中本さんにお会いし、いい大人になられてるなあと思いました(失礼か!?)

 ともあれ大学時代にそういう方を間近でみていて、「あれはできないなあ」と。

 このところのこのブログをご覧になって、既に話題が難し過ぎる高踏的すぎるとお感じになった方もいらっしゃるかもしれないし、「正田はアカデミズムの方へ行くのか?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますけれど、わたし的にはその当時から、ひとつ動かせない自分の傾向性というのがある気がしていました。

 それは、
「知的好奇心は人一倍ある。しかしふつうの人にわからない領域まで突き進めない、突き進みたくない自分。ブレーキをかけてしまう自分」
ということであります。
 あるところまで突き進むと、振り返って
「ふつうの人と乖離していないだろうか?」
と不安にかられる、だけでなく本気でそれ以上進みたくない自分がいる。

 たとえば抽象的な言葉だけで書かれている文章を読むと、自分的に無理すればわからないことはないのだけれど、自分にとってのわかる/わからないはさておき、「どうしよう、こんなのほかの人に説明できない」という感情のゆらぎが起きます。
 その「説明できない」という感覚はすごく不快なものなのでした。
 探検ずきではあるのだけれど、しょっちゅう後ろを振り返ってほかの人に説明したい、それが不可能になるほどの探検はしたくない。
 普通にいう「世間の目が気になる」というのともちょっと違って、わたしの場合は「自分の後ろにいる親しい人につねに説明したい、それができないのはイヤ」という感覚なのでした。
 亡くなった母によると、幼児の頃のわたしはお砂場で遊んでいても、しょっちゅう母のほうを振り返ってみる子供だったそうです。

 そういう意味ではそのあとマスコミに行ったのはまあまあ正しい選択だったのかな、と思います。マスコミに行ったら行ったで「学究肌のほうの記者」になったのですが。


 そして「ふつうの人と乖離している、していない」というとき、ではその「ふつうの人」って誰なのか、といいますと、知り合いがすくなく世間のせまいわたしにとって、「ふつうの人」の基準に置いていたのは、自分の親戚のおじさんおばさん、ではなかったかと思います。

 このブログに以前出てきました(2014年3月だったカナ)、長野県の伯父さん伯母さんは農家で、とても聡明な優しい人たちでした。
 わたしは結局、「自然の制約を受けながら、『こうやれば、こうなる』の単純なロジックの連なりで世界を捉え、働きかけ、生計を立てている人たち」のことが無条件ですきなのではないか、と思ったりします。

 
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 成り行きでフランクフルト学派についての本を、まずは例によって入門書から、読んでいます。
 例の、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス、ホネットという人たちであります。
 
 おおむね、フランクフルト学派の哲学者はマジメな嫌みのない感じの人たちで好感がもてます(本当カナ)

 そのうちハーバーマスという人は「対話教」「コミュニケーション教」の教祖のような人で、「討議倫理」のようなことも論じていて、よのなかカフェを主宰していた正田も無関心ではいられません。この人はまた相手かまわず批判しまくった人のようで、あっちこっちで論争の当事者になっています。それだけきくと「怖い感じの人」ですが、本来はすごいマジメな秀才であったとのこと。またこの人と直接会った人は「市井の素朴な哲学者」とその印象を述べています。ので、ちょっといいなと思います。ので、ハーバーマス関係の本もまた読んでみることにします。

 しかし、この人の文章は入門書の中にも引用がありますが、まあ難解。抽象に次ぐ抽象で、例によってわたしは「なんか例示してよ?」「どういう実体験があったのよ?」とイライラしてきます。こういう文章を書くのは、知識人コミュニティの品質を保ちたいためなのでしょうかネ…。

(そういいながらアドルノの『三つのヘーゲル研究』という本を読んでいると、ヘーゲルのあの難解な文章は独特の思想のうねりのようなものを表現していること、抽象に徹した文章なのは自分の思考の限界を極めるような作業だったこと、などが書かれていてちょっと腑に落ちました。読み手も限界になるんですけど;;)

(またこの本によると、ヘーゲルは人気教授だったそうですがその語り口は雄弁とはほど遠いものだったそうです。あらかじめ用意したテキストを話すのではなく、訥弁で、その場でお腹の底から言葉を紡ぎ出して話す人だったそうです。そういうので感動させる語り手だったんですね)

 お話は戻って、EUの理念を提唱したのもハーバーマスだといいます。
 EUに関しては、壮大な理想ですがこれも付け焼刃の知識ですが2012年1月でしたか、日経ビジネスオンラインでの岩井克人氏の「知性の失敗」という言葉が印象的で、このブログにも引用したことがあります。
 それによれば、EUを構想した知識人たちは労働力に国境がなくなる、と信じていた。労働力の完全流動化を予想していた。統一通貨というものは労働力の流動化のもとで機能するのだ。現実にはヨーロッパにも、自分の生まれた土地からまったく動かない層の人びとがいる。その人たちについて知識人たちは想像力が働かなかった。

 これはとても示唆的な認識であり分析で、知識人やメディアというのは、往々にして、社会の「動きのある」部分に着眼しますが、動かない「不易」の部分はみえにくいのです。そこをみないがゆえに墓穴を掘ることがあるのです(いや、まだ、EUが失敗だったかどうかわかりませんが)。また、このブログでしょっちゅう書くように、「大学の先生は自分たちのことを研究することが好き」で、自分や自分のコミュニティ内部の皮膚感覚を社会全体に一般化して当てはめようとするところがあります。大学の先生方は、国境を苦もなく越えて仕事するのです。

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「お叱りを受けそうですが、マネジャー教育という一方の軸足のある中でどこまでこういう思想の世界に首を突っ込んでいいのか…」

 過日一橋大学の藤野教授に書いたメールの中で正田は泣き言を言いました。

 たぶんわたしの性格からして、アカデミズムには入らないでしょう。昔お砂場でしょっちゅう母のほうを振り返っていたのと同様に、「思想」のお勉強をしていてもしょっちゅう親愛なる受講生様方やお友達のほうを振り返り、自分が「わからないこと」をやっていないかどうか、ちゃんと共有できることをやっているかどうか、確認し続けるでしょう。


正田佐与