一橋大学の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、今年度開講している「ホネット承認論」の講義原稿をいただきました。今週月曜(11月16日)の講義で使用されたものです。

 大学の先生の講義原稿というもの不肖正田はみさせていただくのは初めてです。
 同教授によると、

「私は書くことが好きで、
 また、書きながらでないと考えられない、
 ということもあり、
 講義では、常に、長短いろいろですが
 原稿を用意して、それにコメントしながら話す、
 というスタイルを採っています。」

とのことでした。なので実際の講義はこれにもう少し枝葉をつけた形で行われるようです。

 ISの台頭など今まさに激動する世界を視野に入れた「新・ホネット承認論」であり、また一部は
「正田さんと成田さん(先日の社会思想史学会での発表者)からの刺激に対するリアクション」(藤野教授)
と言われるように、当方が経営学・マネジメントの分野でしている”技術屋仕事”についても触れてくださっているくだりもあります。光栄なことであります。
 本当は全文こちらでご紹介したかったのですが、同教授が固辞されたので、全文ではなく例によって「大幅引用」の形でご紹介させていただきます。
 今回の原稿は全体が3つのパートに分かれていまして、パートごとにご紹介していきたいと思います。

※なおこの記事では、引用部分を太字で表示します


「ホネット承認論」講義(7)                               16.11.2015

《承認論の中間整理》
 なぜ、今、承認か。この問いへの答えは、Ch.テイラーが与えてくれている、と考えるのがわかりやすい。つまり、集合的属性の承認ということが、まさに、この「国境を越える移動(空間的にも、情報的にも)の時代」に、とても重要になってきている、ということと密接に関連している。
(イスラム国に、ヨーロッパで生まれ育った若者が大量に馳せ参じている、という現実は、再分配の問題としては説明できまい。彼(女)ら自身は、結構、学歴もあり、豊かな生活を送ろうと思えば送れる人たちなのではないか。そうではなく、自分たちがふさわしい承認を受けていない、ふさわしい処遇を受けていないという、屈辱の思いこそが、彼(女)らをイスラム国へと追いやっているのではないか。)
 そこには、「個人主義と普遍主義がセットになった尊重(というカント的な承認)」では、人々の承認欲求が満たされない、という事情があるのではないか。
 もし、カントの原理が、近代の原理である、と言えるならそこでは、「ポスト近代(モダン)」とでも呼ぶべき状況が出来していることになる。近代の原理(個人主義と普遍主義の合金)が批判にさらされているのである。
ちなみに、この問題は、アイデンティティをめぐる問題として考えることも可能だ。というのも、近代の個人は、普遍的な一つの価値の体現者として、安定したアイデンティティを享受できていたからだ。もちろん、社会の中に個人は常に複数いるわけだが、一人ひとりの個人は、その個性には目をつぶる仕方で、一個の個として尊重される。個性を重視することは、差別にならずにはすまないのだが、そのことはごまかされえたのである。ところが、それとは違って、特殊という属性に注目し始めると、それは必ず複数存在するので、分裂が生じずにはすまなくなる。中世において共同体に属することは、一つの安定したアイデンティティの確保を意味したわけだが、現代においては、それはアイデンティティの分裂を意味することになる。複数性の出現だ。
個人の尊重、だけではなく、集合的属性の承認を ― これが、新たな状況を一言で言い表わすキャッチフレーズだ。
 そこから振り返って考えるに、これまでだって、「2.普遍的人権の尊重」は謳われていたわけだし(模範的には、カントの尊重の倫理)、「3.フェアな業績評価」も、それこそ資本主義の中核をなす原理だ。(家柄の否定、男女差別の否定 etc.)
だから、テイラーがあぶりだした承認には、2と3の承認だけでは、問題は片づかない、ということを明らかにした点にこそ、貢献があるわけだ。さらにそこから、特殊性の意義を取り出し(共同体主義)、普遍主義を相対化することを通して、1の承認、つまり、愛ということをも承認の問題として捉えることを可能にした。これは、普遍的承認の対極にあるものだ。しかし、家族論を考えればすぐわかるように、共同性という集合的属性の承認と、それは地続きになっている。そう考えると、承認のタイプは、三つではなく、四つに分類することこそ正しいのではないか、という気がしてくる。
1.愛
2.集合的属性の承認
3.人権尊重
4.業績評価
だ。1と2は地続きではあるのだが、しかし、フェミニズムや「聾文化宣言」をいきなり愛の問題と等置するのは、やはり強引すぎると言うべきだろう。
この内、3と4は、近代や資本主義とも相性が良い、と言える。特に、4がそうだ。経営学の内部でも、これまで、承認についてはいろいろ語られてきたようだ(マズローとか)。承認論の(左翼にとっての)胡散臭さというのは、とりわけこの点に関わってのことなのだ。
それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。


―イスラム国(IS)への先進国の若者の流入。それは恐らく先進諸国での「承認欠如」の問題なのだろう。それはこのブログの読者の方なら、既にご想像いただいていたことと思います。「承認欠如」は再分配すなわち経済格差の問題でもありますし、藤野教授が言われるような精神面における問題でもあります。

―最近お話したある聡明な女性の友人は、「女性同士では、最近よく、『やさしさが足りないのよね』という話になる」ということでした。これを男性語に翻訳すれば、「承認欠如」「承認の不在」ということになるのでしょう。
 いずれにせよ、今この状況を軍事力以外でどうにかできる思想は、「承認」以外にはないのです。

―「承認欠如」は、多くの場合「屈辱の経験」となります。それは、激しい悪感情の源となります。いま世界を覆う悪感情を拭い去るのは、生易しいことではありません。しかし、こうしてメカニズムを特定する地道な作業がそれに通じる道なのです。


―ここでは、承認の定義の再整理が出てきます。
 新しく出てきた「2.集合的属性の承認」これは、カナダ・ケベック州の独立問題を通じて明らかになった「多文化主義(マルチカルチュラリズム) 」という承認の一側面の応用といえます。テイラーはマルチカルチュラリズムの論客でした。それは民族的アイデンティティにとどまらず、性別、障害の有無、などすべてにわたって、「差別される側」から「(集合として)尊重される存在」への引き上げという作業になります。
 わたしなどはすぐ、性差別を「個人尊重」と「業績評価」の理念で解決しようとしますがそうでもない。女性という性そのものへの尊重が必要だ、ということですね。
 
―こうした再定義の作業が繰り返し必要になる、というのは、例えば企業様の問題解決においても、「人」の問題の多くは「承認」の問題なのですが、承認のどの定義を適用するかはその場によって違い、例えば2.+3.の組み合わせであったり3.+4.の組み合わせであったりするからです。


それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

―この概観。
 「愛」と「集合的属性の承認」という論点が、カント以降の近代にはなかった。たしかに「承認論」では、「愛」という気恥しくなるものが堂々と組み込まれています。「そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ている」というフレーズに、「承認論」のもつ、軍事力に比肩しえるほどの巨大な能力が表現されています(実際にわたしが現場で体験してきたように)。だからこそ、わたしも10年もこればかりやってこれたのだと思います。



《差別されるとは、どういう経験か》
 「スクール・カースト」などで問題になっているのは、カテゴリー化と序列化だ。カテゴリー化であるかぎりで、それは差別である。引き出しに入れること、分類すること。例えば、男と女に。これは広い意味での差別であって(差異化と言った方がよいのかもしれない)、社会の病理とみなされる狭い意味での「差別」とは区別して考えるべきだろう。人種差別、男女差別(性差別)、障害者差別、部落差別、、、 これら狭い意味での差別について考えたい。
 一つには、それらが、集合的属性に関わるものであるからだ。(序列化は、個人に対しても行われうる。)
個人を差別する、ということはそもそもあるのだろうか。この言い方は適切ではないのではないか。それは、集合的属性が差別されているのであるが、その集合的属性を備える(帰せられる)個人の身の上でそれが起こる、ということなのではないか。個人が備える集合的属性のゆえに差別されるのだ。ユダヤ人を差別する、外国人を差別する、女性を差別する、障害者を差別する、部落民を差別する、、、、 それは具体的には、生の一定の領域からの締め出し、とか、権利の剥奪とかいう形をとるだろう。ただし、それは、懲罰としての排除や権利剥奪とは異なり、人間としての価値の低い評価、を伴うものなのだ。だから、「反差別」というのであれば、人間としての価値の貶め徒言うことを、集合単位でも、個人単位でも、絶対にしない、ということでなければなるまい。「人間としての価値の評価」という点がポイントであって、そこれを拒むことは、集合単位でも、個人単位でも、あってはならない。それに対して、能力や業績については negative な評価ということは、なされるし、なされねばならないのだ。さもないと、フェアな評価、とは言えなくなる。
 承認が価値評価であるということこそ、決定的なのだ。そうであるからこそ、人は傷つく。それに対して、ハーバーマスのいうコミュニケーションの歪み、というのは、否定性の経験ではあるのだが、それほどには深くヒトを傷つけないのではないか。人を深く傷つけるということがないと、人々にとって、それと闘うという動機づけになりにくい。参政権だけではダメだろうし、家事分担だけでもダメだろう。屈辱の経験として、弱くないか。
 女性の価値が容貌、外見においてしか評価されない、というのでは、人間としての価値が認められている、とは言い難いだろう。つまり、その場合は、人間としての価値の承認が、言うなれば第三の承認にすりかえられているのだ。能力や業績の評価である。その際、容貌・外見は能力ではないし、業績でもない。個人の努力によって伸ばせるものではないのだから。(女性に対する、美しさを「磨く」ことへの社会的圧力には、とてつもないものがあるだろう。)
 人間として認められる、とは、個人として認められる、ということと、集合的属性のゆえに認められる、ということの、その両方が含まれていなければならないのだ。
 ハーバーマスのコミュニケーション行為の理論では、あるレベルまでしか、差別と闘う理論となりえない、と言わねばならないのではないか。個人を普遍的価値の担い手として承認することは求めるので、コミュニケーションからの締め出しには断固として闘うが、集合的属性の肯定的評価(という承認)を求めるところにまでは行かないのではないか。差をつけない、という承認だけでは十分ではない。特殊な属性の肯定的評価が求められているのであって、否定的価値評価をやめるだけでは、十分ではない。
 ハーバーマスがやっているのは、結局、民主主義の理論化、ということなのではないか。「人(他者)を軽んじる」という経験は、それではカヴァーできないのではないか。「差別してはいけない」ということが、同等の権利を言うだけでは実現されないように。そのことを、ユダヤ人は肌身にしみて感じていたのではないか。




―承認は反差別の理念でもあります。そのことは以前にもこのブログで言いましたね。
 だからでしょうか、承認研究の世界の先生方はわたしのような人間にもオープンマインドでいらっしゃると思います。
 「みくださない」。ここを強調するのは大事なことです。
 以前、姫路で儒教の学びに凝っていたわたしは、「承認」は「仁(おもいやり)」と「敬」「礼」の合体したものだ、てなことを言いました。仁Compassionだけでは充分ではない、オキシトシンの作用だけでは充分ではないのと一緒で。なぜなら「思いやり」は往々にして、「かわいそう(同情)」というような、「上から下」に流れる感情となるからです。そのままでは対等、尊重、にならないのです。
 「敬」の状態を維持するのは努力が要ります。理性の作業です。「みくださない」というもう一歩踏み込んだ言葉で意識するのも必要なことです。

―ここで藤野教授はハーバーマスに言及されています。もともとあまりハーバーマスお好きではない由。なんでもフランクフルト大学では哲学科でサッカーをする、そのときカントチームとヘーゲルチームに分かれる、ハーバーマスはカント派だとのこと。(ホネットはもちろんヘーゲル派)
 わたしも実は、今はまだ「ハーバーマス本」を収集して拾い読みしている段階ですが、どうも技術屋のわたしに必要なことが書いてある本ではないのではないかという予感があります。まあそれはこれからです。



《ホネットの承認論は批判的社会理論である、ということ》
ホネットは、承認の拒絶という現象に注目することで、社会を批判するのだから、当然のことながら、承認は ― 正当な承認は ― なされるべきこと、と考えられている。
ところが、「承認依存」ということを批判する人々は、まるで「承認欲求」それ自体を「弱さ」ででもあるかのように論じる。もちろん、病理的な承認欲求というものはあるだろう。しかし、承認欲求そのものは、社会的存在としての人間にあって当然の何ものか、と受け止められるべきではないか。「依存」ということからして、ただちに「弱さ」として叱りつけるのではなく、社会的存在としての人間に本性的についてまわる属性と見なされるべきだろう。社会的存在としての人間に、承認欲求は抱かれて当然である。
ただ、その病理的な現れということはあるので、適切な承認、あるべき承認と、そうでない承認とを区別する基準が提示され、根拠づけられねばならない、ということはあるわけだ。そこから、承認論は、正しい承認のノウハウの教えみたいな性格をも帯びることになる。 しかし、そのことは、アドルノのトータルな否定主義(「全体は非真である」「誤れる全体の中で正しい人生はありえない」)を理論上の欠陥と捉えるホネットとしては、甘受するしかない傾向ではあるわけだ。
例えば、経営学において、上司が部下を正しく承認するための指針、みたいなものとして承認論が使われるとしても、それは避け難く、また間違ったこととも言えまい。
 トータルな否定か、改良主義(修正主義)か、という二者択一を採用しないのであれば、「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。



―へへへ。
 ここでは、「承認依存」の議論(=「承認欲求バッシング」とそれへの批判)への言及と「経営学における承認」への言及、2つの点で言及していただいてしまいました。
 「承認依存」の議論は、目下のところこの問題でギャーギャー言っているのがわたしともうお一人ぐらいしかいらっしゃらないので、(もうお一人はわたしほど血の気多くギャーギャー言ってないと思う;;)
 非常にタイムリーに、取り上げていただいたと思います。これも、講義対象が大学生さんであり、今どきのネットスラング、罵倒語としての「承認欲求」に触れている可能性も高いことを考えると、押さえていただくのは大事なことなのではないかと思いました。

―アドルノのトータルな否定主義。どうも、「資本主義は全体として間違っているから、その中でちょっといいことがあって喜ぶのは本当の喜びとは言えない」というようなことをアドルノは言っているらしいのです。このひととはお友達になれないかもわたし(苦笑) ホネットはそれを理論上の欠陥と捉えているのだそうで、ああ良かった。

―でも、例えば拙著『行動承認』にみるような、企業の中での「承認」で人々が躍動するさまが現実にあるとき、どう位置づけるか。「それは避け難く、また間違ったこととも言えまい」と、講義原稿では位置づけてくださっています。てへへ。
 
「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。


―このくだりは、ホネット自身はどう思うか、きいてみたいものですね。



 講義原稿のご紹介は以上であります。あれ、藤野先生、結局全文紹介しちゃいました。(^o^)

 
 藤野教授の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト)―同一性批判の哲学』(2000年、勁草書房)には、「哲学することへの反省」という章があります。

 何をしていれば、私たちは哲学していると言えるのか。西洋の難解な哲学書を読み、解釈していれば哲学していると言えるのか。

「(とりわけ日本では)西洋哲学の、とりわけその最新の産物を材料にして、人々が学習能力の高さと知識量を競い合っているというのが、もっとも目につく光景ではないか。輸入業務と解釈業務に没頭する日本の哲学の世界のこの状況は、シュネーデルバッハにしたがえば、一つの病いであると言わねばならないだろう。この病いは、自らが病んでいる事実への自覚の欠如をその症状の一つとする。」


 いやーすばらしい。「輸入業務と解釈業務に没頭する」、正田も以前経営学についてこれと同じようなことを言いました。うちの近所の国立大学法人にもその路線でそこそこ有名な方がいらっしゃいます。

 目線を低く、素朴な疑問に立ち返り、正直に投げ出すのが藤野教授の持ち味であるように思います。

 「いや、私は自分がわかったと言えることしか書きませんから」先日のインタビューの中で、藤野教授はそんな風に言われています。正田が哲学書とその翻訳の文章の難解さを嘆き、「それに比べて藤野先生はわからせよう、という書き方をされていますね」と水を向けたときです。


「(ドイツ語の文献を読めない私ですが)こうして藤野先生というフィルターを通して見させていただくことは
日本に住んでいてならではの体験と思います。」

 このたびの講義原稿を送っていただいたお礼のメールにそんなことを書きました。


 藤野教授は今後の講義原稿も送っていただけるそうですので、またその都度ご紹介させていただこうと思います。どうぞお楽しみに。


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 最近、フェイスブックでぽろっと口をついで出たこと。

「私には夢というものはない。ただ作り続ける。サグラダ・ファミリアのように」。

 たぶん、「承認論」という巨大なサグラダ・ファミリアを今まさに世界各国で作り続けている人びとがいるのです。




正田佐与