藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿 第三弾です。


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「ホネット承認論」講義(9)                                       30.11.2015
                                     
Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 212‐234、256‐287.

【1‐1】 ホネットは、その承認論を、自己自身との関係の毀損の問題として(も)論じている。他者との(承認)関係が失調することは、自己自身との関係の毀損ということと切り離せない。その意味で、「自己自身との関係」論でもあり、キルケゴール『死に至る病』に直接する。ただし、『死に至る病』における「自己自身との関係」の分析よりも、さらに具体的であり、より細やかだ。自己自身との関係の失調は、つまり、自己自身を信頼できない、尊重できない、(正当に)評価できない、という風な異なる現れ方をするのだ。(「自信の喪失」という問題は、第三の承認の毀損の問題として解釈できる。つまり、(自己自身に対する)不当な過小評価だ。劣等感という問題も、ここに関わる。)

【1‐2】 キルケゴールは、父から「お前は罪深い人間だ」という言葉を間断なく聞かされて育ったに違いない。しかし、「罪深い」というこの抽象的な言葉は、どのような経験的裏づけを見出したのだろうか。「そうだ、確かに自分は罪深い」ということを、キルケゴール少年は、どのようにして確認していったのか。
「自分はダメだ」と感じるということは、われわれの生において頻繁に起こることだ。しかし、それは、なすべきことができなかったりする自分の「弱さ」の確認なのではないか。意志が弱いとか、能力に欠けるとか。あるいは、してはいけないとわかっていることをしてしまう「悪い」自分の確認。しかし、「罪深い」という確認は、そのいずれとも異なるだろう。弱い自分でも、悪い自分でもなく、罪深い自分。『死に至る病』に従えば、神の観念が抱かれている、ということが、絶望の強度を罪へと高める。だからこそ、神に逆らう、という事態が起こりうるのであり、それが罪なのだ。

【1‐3】 自分を(他者を)信頼することだって、自分を(他者を)尊重することだって、自分を(他者を)評価することだって、(人間関係の中で)社会的に、骨を折り折り学習されていくしかないことなのだ。
そして、自己実現ということだって、個人が一人孤独に自己自身との関係の中に引きこもって成し遂げられる何ごとかなのではない。これもまた、社会的(評価)承認の網の目の中で行われる。

【1‐4】 「認める」という行為を、ホネットは三通りに言い換えている、と考えることが可能だろう。信頼する、尊重する、評価する、という風に。(Selbstvertrauen, Selbstachtung, Selbstschatzung をあえて訳そうとするなら、自信、自尊、自負ぐらいか。ただし、「自信」という日本語はむしろ第三の承認に深く関わり、「信頼」という意味は後景に退くように感じられる。あるいは、「自己自身との肯定的な関係」を全体としてカヴァーする言葉だ、と見るべきか。)
そして、それらの承認は、相互に(双方向的に)起こることだ、というのである。(評価については、一方通行にも感じられるが、評価される側でも、評価する側に評価能力を認めていなければ、評価という行為は成り立たない。評価基準は共有されているのであり、その意味では、一方通行ではない。だからこそ、ホネットは、この社会的(業績)評価という行為を、「連帯」の語で理解しようともするのでもあろう。)
その際、相手へのコミットメントの度合としては、愛における信頼が最も高い(深い)と見てよいだろう。尊重という行為には、どこか、「手出ししない」という、否定的(消極的)な語感がつきまとう ― あなたの権利は尊重します、あなたの自由は尊重します、という言い回しにおいて感じ取られうるように。(その点で、尊重は、寛容に近づく。)それに対して、性愛においては、われわれは、自分のもっとも弱い部分、傷つけられやすい部分までも相手にさらす、あるいは開くのだし、相手のもっとも弱い部分にまで踏み込むのだ。それは、相手への深い信頼なしには成り立たない出来事だ。逆に、強姦というような経験によって、女性は、他者(男性)に対して信頼して心と体をゆだねることができなくなるだけでなく、自分自身の身体への信頼をもまた失い、安心してそれが感じるに任せることもできなくなるのだという。(快原理のみで性愛を説明しようとするならば、それは生物学主義的に一面的だ、と言わざるをえない。)
だからこそ、われわれは ― すべての人を人として尊重しなければならないし、また、そうすることができるのに対して ― すべての人を愛することができないのでもある。稀有のことだとは思うが、一人の人しか愛さない、一人の人にしか愛されたくない、ということが起こりうるのだ。

【1‐5】 他者を信頼し、他者から信頼される経験を通してこそ、人は、自らを信頼することができるようになる。他者を尊重し、他者から尊重される経験を通してこそ、人は、自らを尊重することができるようになる。他者を(公正に)評価し、他者から(公正に)評価される経験を通してこそ、人は、自らを(公正に)評価することができるようになる。
自分を公正に評価する、というのは至難の業だ。自己を知る、とは、自己の事実(昨夜どんな夢を見たか、とか、とか、マスターベーションの際に何を想像したか、とか)を知っている、ということだけでなく、自己を評価できる、ということをも含むだろう。前者はともかくとして、後者は、一人でできるようになることではないだろう。他者に評価され、他者を評価するという経験の積み重ねをも必要とするだろう。それなしの自己評価は、概して、過大評価になったり、過小評価になったりせずにはすまないのではないか。

【1‐6】 自己実現なんて、どうでもよい、とカントやハーバーマスが言っているのではない。とても大切な話題(課題)ではあるのだが、倫理学が引き受けるべきテーマではない、と彼らは考えるのだろう。公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとするわけだ。
 もちろん、ホネットも、自己実現に、内容的に口出ししようとするのではない ― 自己実現の可能性の条件(文法、と呼んでもよいか)を確定することを、課題とみなすのだ。そして、その作業を、承認に注目することで、やろうとする。社会的(業績)評価、人権尊重、愛、この三種類の承認が、歪められることなくフェアに実践される可能条件が整っているとき、ようやく、自己実現も可能になる、とそう考えるのだ。

【2】 「承認依存」ということを、鬼の首を取りでもしたかのように叱りつける人々がいる。それに対してホネットは、「人間は、本質構成的に、他者による承認の経験に依存している」(220,224)とさらっと言ってのける。もちろん、そう言うホネットの方が優しい。
もっとも、そこから、人間に本質構成的に伴う「依存」と、病理的「依存」を区別する、という課題が出てこずにはすむまい。
それは、ホネットが、他方で、「自律」の理念を手放さない、という事実とも関わっている。人間は、自律と依存の間できわどくバランスを取りながら生きているときにこそ、もっとも人間的なのだ、と言うべきなのかもしれない。(依存を叱りつける人に対しては、スーパーマンのように自律している(と思い込んでいる)人こそ、病理的なのだ、切り返せばよいだろう。)

【3】 「コミュニケーションとは承認をめぐる闘争だ」と言ってしまった手前、コミュニケーションとは何か、という問いを避けて通ることはできない。それは複数の主体が合意形成をめざしてなす間主体的な実践、という風に描き出せるものか、そうではなくて、「承認をめぐる闘争」なのではないか ― そうホネットは問題提起しているわけだ。コミュニケーションに臨む態度としては、前者こそ、正しい態度なのであって、後者はあるべき姿からの逸脱だと、そう言えるか。そうではなく、人間として生きることとは、闘いの中に身を投じることだ、などと言ってしまうと、それは野蛮なヒロイズムか。なにしろ、闘いは必ず敗者を生むのであり、そうでない闘いなんて八百長なのだから。そうではなく、人生とは(他者と)つながろうとするいじらしい努力こそ、それなのか。
後者の答えは、やはり、人生を一面化していると思う。それも、ロマン主義的に。その際、「人生=つながりの追及」という解釈に強力な支持を与える経験が、「愛」であるわけだが、まさにそうであるからこそ、ホネットは、愛の経験をすら、いやそれをこそ、「闘争(承認をめぐる)」と特徴づけるのだ。愛の伝道者には、お引き取り願おう。愛するとは、認められよう(愛されよう)とするいじらしい悪戦苦闘なのであって、それがかなわない苦しみは「片思い」と呼ばれる。(この文脈で、コミュニケーションの理論家であるルーマンが愛について何を語っているかという問いには、とても興味をそそられる。)

【4】 承認の三つのタイプのうち、資本主義ということに最も深く関わるのが業績評価であることは、一目瞭然だろう。資本主義社会では、フェアな業績評価が、なぜ構造的に歪められ、妨げられてしまうのか ― これは大問題だ。
 それに対して、「愛」という承認は、近代化において一定の解放をみた、と言えるだろう。イエとイエの契約としての結婚から、個人と個人の恋愛へ。しかし、そこでも、現代の資本主義は、核家族・専業主婦という関係を行き渡らせることで、承認を歪める力を行使しているのだ。
その点、人権の尊重は、近代社会と最も親和的だ。近代の理念は、この型の承認とは問題なく両立するだろう。


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 今回も沢山の「論点」が出てきました。
 以下、思いついた順にわたしの感想を…。

【1-5、1-6】 「自己実現」の用語がもう一度出てきました。
 この語についてWikiを参照すると、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE
「もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。(略)ゴルトシュタインがナチの迫害を逃れてアメリカへ渡った後、「彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを、人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることとして概念化し、これをもとに「健全な人間は、人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在である」としたことで、この言葉が世に知られるようになった。」(太字正田)
 とあります。ゴルトシュタイン―ロジャーズのリレーで形成されたそうです。その後マズロー先生が使用されたそうです。ふーん。
 この文章に限っていうと、「健全な人間は、人生に究極の目標を定め」ってそんな高級な人はどれほどいるんでしょうね?やっぱり先生方、自分自身のことを言ってないでしょうか。いやこれは藤野教授のことじゃなくゴルトシュタイン、ロジャーズ、マズロー先生のことですけど。あたしが低レベルすぎるんですか。
 そこまでは言わなくて、「成長する喜びを知覚しながら仕事をする幸福感」というのなら、「あり」だと思うんです。「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器」といいますから。そこでは、上司やお客様、周囲の人の反応がやはり自己の成長の指標となります。

【1-6】自己実現は、倫理学が引き受けるべきテーマではないとカントやハーバーマスは考えた。彼らは、公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとした。
 いいんじゃないですかね。わたしは心理学(自己啓発セミナー関係を含む)の世界の、セミナー行って自我がブワーッと膨れあがったようになった異様な人をここ10数年、見続けてきました。一度そのような人工的なナルシシズムのような状態になった人にたいする解毒剤はないのです。往々にして富裕層がそういうセミナー行くんですけどね。だから自己実現なんて、煽らんでよろし。「公正な社会」のほうがはるかにすきです。
 

【3】コミュニケーションが合意形成をめざしてなす間主体的な実践なのか、それとも承認をめぐる闘争なのか。あとのほうだと考えると、TVの討論番組などをみている時におもしろいです(あんまり見ませんが)

 しかしこのブログで2010-11年に取り上げたU理論のように、延々と対話をすることによって合意形成をしましょう、という一派の人がいらっしゃり(ハーバーマスはそれの親玉のようだ)、「闘争」と言い切ってしまうと身も蓋もないではないか、という反論もあり得るでしょう。
 そこは、ホネットとハーバーマス不一致点なんでしょうか。


【1-4】認めることの定義の1つとしての「愛」。
 確かに藤野原稿の中にもあるように、性愛は、「認めて欲しい」という感情のもっとも強烈なものだ、と思います。はい。
 たぶんそれがそこまで強烈なのは、種の保存の必要上そういうふうに本能がプログラミングされてるんだと思うんですけどね。性的マイノリティの方々つっこまないでくださいね。近年ではスマホやゲーム、ITのツールのほうがそれを上回るドーパミンを分泌させてくれるので、困っていますね。
 ただやっぱり「愛」ってそれ以外のものもあるでしょう、と妙にそこに拘ってしまうわたしです。
 例えば現役マネジャーから、「部下をあえて『叱る』とき、そこに『愛』がなかったら、やれないですよね」という言葉が出るとき、それを否定できないわけです。
 でやはり、マネジメントの世界では、ひょっとしたらホネットも想定しなかったような、家族よりはやや薄い「親密圏」が「承認」によってつくられるのであり、それは外集団と比べれば依怙贔屓と言えるかもしれない。よその部署の部下はうちの部下ほど可愛くない、なんてことは普通にあるかもしれない。ただ「内集団」の中では公正さを重んじないと運営できないでしょう。それを欠くと深刻なダメージが起きる、これは一度経験してみると身に沁みてわかることだろうと思います。
 
【3】「『愛の伝道者』には、お引き取り願おう」だって。えーんえーん。


 わたしが「愛」にこだわるもう1つの理由として、今日フェイスブックでみたアインシュタインの「愛」に関する言葉があります。
 アインシュタインが娘に宛てた1400通の手紙のうちの1通が「愛」に関するものだそうです。
 http://ameblo.jp/deguchng/entry-12100122049.html
 (出口弘オフィシャルブログ 2015年11月27日)

 ここでアインシュタインは上記のブログからの孫引きで恐縮ですが、

 「愛」のもつチカラを述べるとともに、

 「恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。」


 この言葉、21世紀を生きるわたしたちはちょっとロマンを感じませんか?


正田佐与