本日は、新しいネタではなくて以前の記事の焼き直しで恐縮です。

 「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てているんですが、このカテゴリの「はしり」となった記事が、

幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様(2015年9月13日)  http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html

 です。

 多分、年来の心労が祟って今年初め健康を害したわたしが、その後いいことが色々あってエネルギー回復して、じゃあその心労の原因の1つを作っていたとみられる「承認欲求バッシング」の風潮と正面対決しよう、という節目になったのがこのときであった、と思います。いいことも色々でしたが直接のきっかけは加東市商工会様セミナー1回目の成功だったわけであります。

 ところがこの記事を今みると、タイトルから中身が想像できないようになっていて、「承認欲求バッシング批判」の色がはっきり出ていなくて、題材にした本のタイトルも出ていない、というものなので、この際この記事の後半だけを独立した記事にして改題してUPさせていただこうと思った次第です。長い前置きですみませんでした。

 それでは、「承認欲求バッシング批判」記念すべき第一回であります…:


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 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

 ―まあね、ボランティアをする人も寄付をする人もみんなそうだと思いますよ。善をなすにも必ず承認欲求は根底にありますよ。


「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―ここは、「人は自律的なのが正しい」という暗黙の前提があるんだと思いますね、この著者の中に。でも実際は違います。人はいくつになっても、「他者からの絶えざる承認」を必要とします。それは出社して「おはよう」と言ってもらうのでも、SNSでだれかとつながるのも。
 本書は、現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人すなわち南条の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。どうやってもブログを書くことをわるものにしたいみたいですね。迷惑だなあ。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「食欲と栄養」に置き換えてみるとこういう文です。
「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」。
 それ、言っていい言葉でしょうか、常識的に。人として。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html
承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生とかの知識人にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 著者にしてみれば、「決して承認そのものの悪口を言っているわけではない」と言い訳をしたいところなのだろうが、どうみてもそうみえる。社会学周辺に、とにかく問題行動の契機としての「承認欲求」に注目する、という流れがあり、本書に解説を書いている本田由紀氏などもその一派の人たちであり、若くて売り出し中の著者はそこにおもねっているように感じられる。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。




正田佐与