藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿をいただきました。
 有難く、掲載させていただきます。このブログとしては「第四弾」です。

 今回は、「自己実現」ということについて、藤野教授からの「答え」が書いてあります。

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「ホネット承認論」講義(10)                              7.12.2015

Axel Honneth: Organisierte Selbsverwirklichung. Paradoxien der Individualisierung, in: Das Wir im Ich, Frankfurt am Main 2010, S. 202 – 221.(アクセル ホネット「組織化された自己実現−個人主義化の逆説」、『私の中の私たち』所収)
Axel Honneth: Arbeit und Anerkennung, in: Das Wir im Ich, S. 78 – 102.(アクセル ホネット「労働と承認」、『私の中の私たち』所収)

  嵜誉犬箸蓮個人が自己を実現する、一回限りのチャンスである」 ― この考えを否定することは難しいだろう。それほどには、われわれは個人主義を自明の前提として受け入れて生きている。
問題は、しかし、ここから始まる。「自己を実現する」って、どういうことか。ここには、植物の成長のイメージがはたらいているのではないか。つまり、一人ひとりの人間の中には、種子のようなものがセットされており、それが発芽し、成長し、開花する、というようなイメージだ。ポテンシャル(潜在する能力)が各人に備わっていて、それが顕在化されることを待ち受けている、という風にも描き出せるか。悪くないイメージだと思う。
しかし、問題がないわけではない。みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。みんながサッカー選手として自己を実現してしまう? みんなが芸術家として自己を実現してしまう? (そういう想像が許されるほどには、サッカー選手や芸術家は、憧れの職業なのではないか。)もちろん、これでは社会は立ち行かない。誰が食事を作るのか? 誰がレフェリーを務めるのか? 誰がマネッジメントするのか? つまり、自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。
それでも、仕事があるだけましだ、というのが現実ではないか。失業という事態は、経済生活を破壊するだけでなく、自尊心を破壊する。失業手当が支給されればよい、という話ではすむまい。

そもそも、「自己実現」を、「ポテンシャル(潜在能力)の実現」と考えることが不適切なのではないか。例えば、私は、自分のやりたいことをやってお金がもらえる、という、恵まれた人生を送っている、と感じるが、それは「自己のポテンシャルの現実化」という風に描き出せることではおよそない。哲学するための何らかの能力が私にあるとは、これっぽっちも感じない。(哲学科に進んだのは、迷走の末、右往左往の中でのことでしかなかった。そもそも、哲学したかったのかどうかすら、怪しい。むしろ、消去法による選択だった。)
「自己実現」と言うのであれば、むしろ、「自己の欲望、欲求の実現」という風に考えるべきなのではないか。そう考えると、能力の実現と考える場合とは、根本的な変更を余儀なくされることになろう。能力であれば、あらかじめセットされていた(種子のような)ものとして考えることも不可能ではない。しかし、願望・欲求は、あらかじめ個人の内にセットされていたものではありえない。それは、社会的に ― 外部との関係の中で、外部から ― 受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえまい。そう考えると、これは「自己実現」とはもはや呼ばれえないものだ。

◆]働を、自らの潜在能力の実現(現実化、具体化)として捉えること ― 自己実現としての労働、という考え方 ― は、個人主義的だ。ところが、労働は、今や、大きなシステムの中での活動でしかありえない。分業システムだ。そして、そのことで ― 歯車の一つになることで ― 全体の幸福に貢献する活動であること以外ではありえない。(ホネットに言われるまでもなく、労働の問題は、幸福について考える上で、一つのキーポイントをなす。喜びややり甲斐を感じてできることが仕事になることこそ、「幸福」の内実をなすのだ。だから、学者や芸術家は、幸せな人生を送っている(ように見える)ので、人々に人気の職種にもなりうるのだ。もちろん、「喜びややり甲斐」というのは曖昧な言葉であって、お金や承認だって、「やり甲斐」を生み出しうる。ただ「好きなことができているか否か」だけが、すべてを決するわけではない。)
(前衛)芸術家の創造だって、全く何の役にも立っていないと主張することは難しかろう。どういう仕方でか、それは「お役に立っている」のであり、お金が支払われるのであって、それは、彼(女)の活動の社会的価値(意味)が認められた、ということなのだ。つまり、労働は、社会という大きな単位への貢献なのであり、だからこそ、社会の側から正当に承認されねばならないのだ。
つまり、自己実現と承認という二つの理念の間には、一定の緊張関係が存在している、ということだ。役に立つ、というのは、どうしても、社会の側から測られることであるわけだが、自己実現は、個人の能力や欲求に基いて考えられざるをえないからだ。けれども、その際、個人の欲求とは、それはそれで社会的に媒介されているものなので、ただ自分の内側を凝視していたら見つかる、というものではない。
「社会への貢献」と言うのはよいが、その「社会」自体が、そもそも一枚岩ではない。3Kと言われたりもする仕事(例えば、トイレの掃除)が社会的貢献であるのと同様に、ほとんど誰も聞きたがらない現代音楽の作曲という社会的貢献がある。両者の間に価値の上下はない、と言うべきだろう。それをしたいと思う人が多くはない、という点も共通している。一方が、そのための職業教育を必要とせず、他方が幼児期からの大々的なそれを必要とする、という違いはあるわけだが。

資本主義という経済システムが成立するためには、規範的な前提がある、とホネットは言う。それは

  労働とは社会全体の幸福のための寄与・貢献である
 労働は、そのようなものとして公正に評価されねばならない

と分節される。労働者は、この前提に同意し、これを受け入れるからこそまじめに働こうとするのであり、仕事を提供する側も、また、この観点を共有していることになる。
(社会的な共属の意識が社会の構成員によって共有されていないような社会は内部崩壊する。税金を納める気持ちになるか否かもこの点に関わってくる。こんな社会、くそったれで、そのために頑張る気持ちになんて全くならない、というのでは、社会は成り立たない。外国に行ば必ず、自国に対して批判の視点を手に入れる、ということでも必ずしもない。上野千鶴子も言うように、外国に行って屈辱の経験を重ねたものだからナショナリストになって帰ってくる、という(自国では甘い汁を吸うことに慣れている)日本人男性は、ゴマンといるのだ。)
現実には、この前提を踏みにじる人はいる。しかし、それは規範からの逸脱なのであり、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるわけではない。もし、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるのだとすれば、この社会は犯罪者たちによって支配されていることになりかねず、まじめに働く労働者は、その哀れな犠牲者だ、という話になろう。
(能力・機能性(Effizienz)ということが唯一の評価基準であるのなら、例えば女性が労働市場においてハンディキャップを背負わされているという現実は、資本主義自体の原理・原則に反することになる。聞いた話だが、就活に際して、筆記試験の点数だけで順位づけをしたら、上位にはずらっと女性が並んでしまうのだという。だから、この結果に、点数以外の観点も加味されて調整がはかられ、男性有利の結果が生み出されることになる。(そもそも、今日、会社の人事部門のスタッフに、どれほどの女性が食い込んでいるのか。)
しかし、われわれの社会は、曲がりなりにも民主主義社会なのであってみれば、そのような少数者が支配する社会は成り立つはずがあるまい。そのような「少数派支配」説 ― 悪辣な資本家という少数派による、まじめで無垢な労働者という多数派の支配、という考え ― を奉じている人は、選挙の度ごとに、失望させられ、途方に暮れることになるだろう。
「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている、だから、後者は、資本主義に固有の、それに内在する原理・原則でもあるのであって、だからこそ、もし現実の資本主義がその原理・原則に反しているのであれば、内在的批判が可能になる、とホネットは考える。
これは、別の言い方をすれば、よい資本主義、正しい資本主義 ― 原理・原則を充たす資本主義 ― というものがありうる、とする考え方であり、資本主義をはなから悪者に仕立て上げる考えではない、ということだ。(ホネットは、システムと生活世界を対比するハーバーマスの考えを斥けるわけだ。ハーバーマスの区別には、経済と道徳の対比が対応するわけだが、ホネットは、経済そのものの中に道徳的要請が埋め込まれており、それなしには立ち行かない、と主張するのだから。実際、経済(学)をはなから蔑視するような倫理学(者)というのは、概して安易であり、傲慢だ。)
この問題は、内在的批判の可能性、という問題と関わる。あるシステムについて、それ自身が掲げる道徳的要請を充たすことができるか、という基準にもとづいて吟味することが可能であり、必要でもあると考えるのだ。そこでは、批判は、その要請が充たされていないこと ― 事実だ ― の指摘、という形をとることになる。こういう批判ではなく、外在的批判、超越的批判では、その社会の中で生きている人々の支持・賛同を得ることができない、という問題が出てくるわけだ。(ただし、アドルノは、必ずしも、内在批判一辺倒ではない。ミュンヒハウゼンのジレンマを言うのだから。)


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 いかがでしょうか。
 また、いくつかポイントがあるようにおもいます。

〇「自己実現」ということについて。
 前から正田はこのことでぶちぶち言っていましたが、それへの藤野教授の答えが書いてあって嬉しゅうございました。

「みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。」
「自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。」

 そうなんですよね。個人の自己実現の総和が幸せな社会になるわけじゃないんですよね。
 メジャーリーガーやオリンピック選手や研究者になれる人はごく一部です。もっと普通のめだたない仕事に就く人が圧倒的多数を占めます。で「承認教育」もその人たちのための仕事をしたい。

 藤野教授も書いておられますが、「マネジャー」なんかも思い切り「自己実現」から遠い仕事です。他人のことばかり関心を向け、自分で自分の仕事をデザインできることは少なく、プレイングマネジャーでもしょっちゅう自分の仕事を中断し、「いまいましい問題解決」に忙殺されています。

 わたしの最初の著書『認めるミドルが会社を変える』の中で、このことに触れて
「マネジャーは(承認教育を経て)自己実現より尊い成長をする」
という意味のことを書いたところ、コーチング業界の人から「ショックだ」という感想をいただきました。「最上志向」のある人だったので、自分の能力を最高に開花させることが人としての最高の幸せだ、と心から思ってはったみたいなんですね、その人は。

 ―ただ、「3K仕事」に職業教育が必要ないわけではないと思いますが―


〇ホネットは「よい資本主義」というのは「承認」がある資本主義だ、と言っているわけですね。(そういう理解でいいんでしょうか?)

「「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている」

 
 わたしなどは、このホネットのフレーズにすごく大きく頷いてしまいました。であれば、利益最大化だけを目指し人間性を踏みにじって成り立っているブラック企業などは糾弾されてしかるべきですね(既にそういう流れにはなっている)

 で、「承認の原則」が「道徳的な原則」とイコールのように文中でなっていますが、実はこれもわたしの実践の中での実感に近いので、いいのではないかと思いました。
 「承認教育」を施すと、それはほぼそのまま「道徳的/倫理的に振る舞うとは、どういうことか」について教育をしたのと同じことになってしまう。
 むずかしい倫理学をアリストテレスのころから体系的に学ばなくても、いいんです。
「何がこの場でこの相手にとって『承認』なのか」
「だれにとっての『承認』をこの場合、優先すべきか」
とっさに、こうしたことを考えるだけで、結論としては道徳的/倫理的な決断と行動ができます。過去、「業績一位」を作ってきたマネジャーたちは、普通にやってきたことのはずです。
 たぶん、マネジャーたちの日常行動だけでなく、経営者さんが「再配分」を考えるうえでも、役に立つ考え方でしょう。


 経済学の中に倫理を。ということに取り組まれている方も一部にいはるようですが、さてどうなるやら…。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与