『ポスト資本主義』の著者、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)と、最近メールのやりとりをしました。同教授はアカデミズムの中では数少ない、わたしの信頼する学者さんの1人です。

 今回の対話の焦点は、おおむね、
「データの裏づけのある知見でも疑え」
ということだと思っていいようです。
 このところこのブログで展開している某トンデモ心理学への批判とはまた別の、ちょっと高度な次元のお話。
 アカデミズムの知性もまた、信頼に値しないのではないか?というようなお話です。
 広井教授のご了解をいただき、内容をご紹介させていただきます。
 
 どう扱ったものか迷いましたが、今回は正田を青字、広井先生を黒字で表示させていただきます。


正田:
「広井 良典先生
大変お世話になっております。
正田です。
その後、お変わりありませんか。
学生さん方を連れてのフィールドワーク、フェイスブックで拝見しました。

さて、私は最近はドイツ思想づいていますが
そこでも面白い学びをさせていただいています。

改めて広井先生に、「ケアと承認」についてのお考えを伺ってみたいと思いました。
また、最近の興味としては
「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。
(略)
正田」

広井教授:
「正田様
メールありがとうございます。

「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。

 これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。
 一方、私はあまり詳しくないのですが、最近の精神医療の領域で主流になっているいわゆる認知行動療法は、人間が物を見る際の「フレーム」というのを重視しているそうなので(これは80年代前後からの認知科学の台頭の影響の流れですね)、ある意味では上記のような「パラダイム論」とも親和的でありうる面があると思いますが、しかし実際にはわりと単純に世界を因果論的かつ操作主義的に(アメリカ的に)とらえている印象ももっています。
 話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと思ったりしました笑。       広井」


正田:
「広井先生、ご返信ありがとうございます。


>話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと>思ったりしました笑。

⇒とても頷けるところです。先生はどんなところでそれをお感じでしたか。
高度成長期にできた「フレーム」…たとえば私などは「長時間労働」「男は外、女は内(専業主婦)」などのフレームが女性の社会進出を阻んだり給与体系や正規・非正規の区別の形で残って女性の貧困、ひいては子供の貧困のような形でツケが最終的に社会に回ってくる、というようなことを想起します。



>これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。


⇒これもとても興味深いです。
 最近、私はある経験をしました。話題に沿っているようでもありひょっとしたら外れているかもしれませんが…。
経営学の本を読んでいますと、各種統計、メタ分析で裏づけられていることとして紹介されている知見が、何か実感と合致しないのです。
 もちろん当方の思い込みが誤っている場合もあるのですが、ひょっとしたら、研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。
 こういう理解の仕方というのは正しいのでしょうか。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。書かれていることはまさにその通りで、大変共感いたします。


研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。


 以上の点もそのとおりで、こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。
 このあたりは現代社会の隅々に浸透している面もあり、そうした問題に意識的であることがとても重要と思っています。  広井」



正田:
「広井先生
ご返信ありがとうございます。

広井先生の投げかけに当方で勝手に事例を持ち出して語ってしまったようになったのですが、話題としてずれていませんでしたら幸いです。

それは、例えば「仮説を立てる段階でのバイアス」という言い方もできますか?あるいは「研究者の主観」という言い方もできますか?


>こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。

そうですか。少し興味があるのですが、そうした研究者は例えばどのような言動となりますか?
私は決して血液型信者ではないのですけれども、
「血液型性格分析は科学ではない。血液型を取り上げた研究が存在しないから」
ときくと、もしだれか研究者が本気で興味を持って血液型と性格の相関について大規模統計をとったら有意差が出る可能性も、まだ排除できてないのではないか?と思ったりします。


背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。


そうですか。
学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。


実は、これともう1つ、はるかに低次元の問題で、学術的云々以前に
「いっさい根拠のないオピニオンに過ぎないものを信じる」
という態度も蔓延していて、これも近年流行を繰り返しているようにみえ、無視していると思わぬ勢力になっていて、どうしたらいいのでしょう…というのもあります。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。

学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。

 このあたりは非常に根本的な問題と思います。基本的には、「無知の知」という言葉がギリシャ以来あるように、完全な認識というものはなく、科学の限界性や、自己の認識の不完全性について常に自覚的であることが基本で、優れた研究者ほどそうした態度をもっていると思います(わかっていないことのほうがはるかに多いという認識)。
メタ認知能力ということが言われていると思いますが、科学や学術の領域に限らず、優れたスポーツ選手なども(自己の技術の限界や課題について)常に自覚的ですね。       広井」



 いかがでしょうか。
 今年は、年初のころ「反知性主義」についての議論があって、わたしはあんまりそこに興味がなくフォローできずにいましたが、おおむね「大学アカデミズムをバカにする風潮はけしからん」みたいなことを言っていたんではないかと思います(違っていたらごめんなさいね)。

 しかし、大学の先生が出してきたデータの裏づけのある知見もまた、疑わないといけない。なぜならそれは「仮説の制約」を受けているから。
 今回の広井教授は、おおむねそういうお話でした。

 正田も以前から、研修業界では常識として使われている知見を「その実験デザインではそういう結論は言えない」などと言ってスルーしていることがありますが。学者さんの言うことも取りあえず疑うことは必要なようです。

またここ数年の流れでいうと、「ビッグデータ時代」もあって「統計学絶対視」というのが流行りではあったんですが、統計学もまた仮説のしもべに過ぎない、仮説がダメだと統計が正しくてもダメ、ということですよね。
 
 あっ、ちなみに正田は以前「医薬翻訳者」というのもやっていましたから、ものごとを論証したり統計学的に裏づけしたりする作業を軽視しているわけではないんですよ。


 じゃあ何を信じたらいいのか。科学がダメだと思う時に最終的な答えは哲学だと言っていいのか、哲学だったら信じていいと言えるのか、これもまた悩ましいところですけどね。
 わたしが個々の学者さんを信頼する時は、たぶん広井教授の言われる「メタ認知能力」というのを、これも漠然としていますが信頼するのだという気がしますね。


 で、この対話の中で話題にした「経営学の本」。

 このブログの読者の方で勘のいい方だと、「ああ、あれだな」と気づかれるかもしれないと思います。

 次の記事以降で、ある悩ましい「経営学本」を俎上に上げたいと思います…。



正田佐与