急に「美」という軸を考えてみたくなりました。

 
私人



 わたしの読書歴の中でも珍しいんですが、最近不思議なご縁で手に取りました。
 『私人』(ヨシフ・ブロツキイ著、沼野充義訳、群像社、1996年11月)。詩人ブロツキイの1987年ノーベル文学賞受賞講演。本文わずか35pの小さな小さな本です。

 
 ・・・なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。「良い」とか「悪い」といった概念は、何よりもまず審美的な概念であって、「善」や「悪」の範疇に先行しています。…まだ何もわからない赤ん坊が、泣きながら見知らぬ人を押し退けたり、あるいは逆に見知らぬ人のほうに手を伸ばしたりするとき、この赤ん坊はそうすることによって、審美的な選択を本能的にしているのです。この選択は道徳的なものではありません。

 
 ・・・なにしろ人間は、自分が何者なのか、そして自分に何が本当に必要なのか、完全には分からないうちにもう、たいてい本能的に、自分の気に入らないもの、自分を満足させないものを知っているのですから。繰り返しますが、人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。



「良い」「悪い」の概念は何よりもまず審美的な概念である。
人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在である。

 詩人の言葉ですが、読者の皆様にとっては、いかがでしょうか。

 わたしはこれらのフレーズに出会って急に気がついたのです。自分が無意識に「美しい」という単語を使っているなと。本当に自分でも気がつかないうちに、いろいろな場面で。

 明らかにそれはわたしのその場での「選好」を決めているのです。何かやだれかを「よい」と思って称揚すること。逆に、「わるい」と思って批判しよう、と思ったりすること。


 
 
 それが人類に普遍の現象なのかどうかは、わかりません。

 少なくとも自分はそういう「フレーム」を持つ人間のようだ、ということを念頭に置いておくことにしましょう。



※なお、このところ記事タイトルなどに「正しい」という言葉が入っていますがこれは結構自分でも意識していて、忸怩たる思いで使っています。
 心理学では「正しい」「正しくない」は相対的なもの。哲学でも一部の人はそういう言い方をします。
 ところが、「正しい」「正しくない」の軸を否定してはいけない領域は、仕事をしていれば確かにあるのです。そこに心理学のそうした議論を持ち込むとどんなに”めんどくさい”ことか。
 その2本の軸が両方あり得るなかで「正しい」を主張することは「つかれる」こと。でもやらなくてはならないこと。
 「正しい」を書く時は内心疲れをおぼえながら書いていますね。



 この本はそのほかにも印象的な警句に満ちていて、読んでいてそこでしばらく頭がストップしました。いくつか例を挙げると、

「…言葉というものは、ほんの少し不正確な使い方をしただけでも、人生に偽りの選択を持ち込むことになりかねないのですから。」
 
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは―繰り返しますが―他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば『相互厭人的』な会話なのです。」

「ロシア語を母語とする人間にとって、政治的な悪について話すのは、食物を消化するのと同じくらい自然なことではありますが、やはりこの辺で話題を変えたいと思います。自明のことに関する会話の落とし穴は、それがあまりに簡単で、それを通じてあまりに簡単に『自分は正しいのだ』という感覚を得られるため、意識が堕落してしまうということです。」




正田佐与