藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての5本目の講義原稿をいただきました。
今回は「寛容」がテーマ。わたくしにも”耳が痛い”ことになりそうですが…。藤野教授の結論はどんなことになったでしょうか。
※この記事は公開後、フェイスブックのあるお友達から「みんなでじっくり読みたいような内容ですね」という賛辞をいただきました。
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承認と寛容 ― あるいは、倫理学の中の「寛容」概念の位置
【1】 広く「道徳」について考える
【1】 倫理学というのは、「よい」という性質をめぐる議論である。「よい」という形容詞は、ただし、ずいぶん多様なものを形容する。「よい行い」や「よい人」だけでなく、「よい人生」「よい成績」「よい天気」「よい気分」「よい男」「よい女」といった具合だ。(最後の二例では「よい」と言わずに「イイ」と言う。)
この中で、「よい行い」をめぐる議論に限って、道徳論と呼ぶ、という語用がありうる。(というか、倫理と道徳という言葉を、私はそのように使い分けることにしている。)ある行為が「よい行為」である場合、その行為は「することの望ましい行為」である、と言えるだろう。そして、「することの望ましい行為」は、これをもうひと押しすれば、「すべき行為」である。「すべき行為」とは、「義務」の言い換えであり、従って、道徳論とは義務をめぐる議論である、と言うことができる。(「義務」に似た言葉に「当為」というのもある。)
「よい行為」をする人は「よい人」である、と言って異論はあるまい。このタイプの「よさ」(道徳的な「よさ」)には、日本語では、概して、「善」という漢字があてられる。「善行」「善人」「善意」という具合だ。(「善戦」もあるのだけれども。)
では、同じ調子で、「よい天気」や「よい気分」「よい人生」を「善い天気」「善い気分」「善い人生」と書いても違和感がないだろうか。「善い人生」は微妙だが、前二者については、「否」と言いたい。どうして、そういうことになるのか。善さ=よさ、ではないからだ。
「よい人生」とは、どんな人生か。道徳的に正しい人の人生だろうか。必ずしも、そうは言えまい。むしろ、自分の願いがすべてかなったような人生が、「よい人生」と見なされるのではないか。そう考えると、「よい人生」というのは「幸せな人生」に近い。(フロイト(1856-1939)は、幸福を、「願望充足(あるいは欲望成就)」と説明した。)
つまり、道徳的に善い行いをする人の人生と、よい人生とは、ぴったり重なるものではない、という可能性があるのではないか。それどころか、両者は対立することさえあるのではないか。
道徳(すべきこと)と幸福(願いがかなうこと)の関係については、古来、多くの哲学者が大いに頭を悩まし、様々な提案をしてきた。カント(1720-1802)は道徳重視派の代表格で、ニーチェ(1844-1900)は幸福の側に肩入れした、と大雑把には言えるだろう。
【2】 どうして、こんな辛気臭い話をするのか。
「道徳的であること」が、「よい人生」や「幸せな人生」に直結するものではない、という事情があるからだ。大体、道徳的な人、というのは、感じの悪い人であることが多くないか。他人に「〇〇すべし」とか「〇〇すべからず」というようなことを言いまくる人が、感じがよいはずがない。それだけではない。自分自身に対して「〇〇すべし」「〇〇すべからず」と目を光らせている人も、つまり「自分に厳しい人」も、なんだか窮屈で、面白みに欠ける、というケースが少なくないのではないか。ニーチェなら、「道徳は生に対して抑圧的だ」と言うところだろう。
道徳は「すべし/すべからず」をめぐる議論だ、と上に確認したが、そういうわけで、そもそも道徳的であるべきなのか、なぜ道徳的であるべきなのか、と問う余地がある。(道徳的でなどない方が、人生、のびやかになり、楽しくもなるのではないか、ということだ。)
人生における悩みというのは、概して、「したい (will)」と「すべき (should)」と「できる (can)」という三つの助動詞の関係(欲求と義務と能力の関係、と言ってもよい)をめぐるものだ、と言えるのではないか、と常々私は考えている。「したいことは、できるのであれば、してよろしい」、という風であれば、人生、ややこしくなくて具合がよろしいのだが、そうは問屋が卸ろさない。大体、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかなんて、どれもよくわからない、としたものではないか。そして、仮にわかったとしても、この三つが互いに良好な関係にあるとは限らない。しばしば対立する。その時、「すべし」(道徳)の言い分だけを通す、という風に事が運ばないのは、当然ではないだろうか。
道徳とは、「すべし」(義務)に関する議論、あるいは主張であるとすると、そんなもの、そもそもない方がよい ― 窮屈だし、面倒くさいし ― という考え方がありうるということだ。大いにありうる、とすら言ってよいだろう。
そういうわけで、倫理学などをやっていると、道徳に対しては、かえって警戒的にならずにすまなくなる。すぐ説教したがる倫理学者というのは贋物だ、と常々私は思っている。すぐ説教したがる政治家も、政治的ではあっても、道徳について悩んだことなどほぼない人たちだ、と思ってまず間違いない。(道徳教育の必要性を説く政治家に対して抱かれる疑念や反発というのは、この点にも関わるもので、真っ当な反応であると言ってよい。)
【3】 そうは言っても、やはり、道徳は必要だ、人は道徳的であるべきだ、と私は考える。(ニーチェや永井均に賛同することはできない。)人間の「欲求(したい)」を無造作に認めることはできない、人間の「欲求(したい)」の底知れなさには私などの想像を絶するものでありうる ― 病みうるし、狂いうる ― と想像されるからだ。エゴイズム(利己主義)というのは、そういう症状の一例 ― しかも、人畜無害な一例 ― であるに過ぎない。人間の「欲求(したい)」には、やはり、縛りをかけることが必要になると ― 感じの悪い提案であることは重々承知の上で ― 思う。義務という縛り、道徳という縛りである。
そこから、どういう縛り、どういう義務が必要なのか、という問いが出てくる。道徳の内容への問い、である。代表的道徳哲学者であるカントは、義務を、「自己に対する完全義務」「自己に対する不完全義務」「他者に対する完全義務」「他者に対する不完全義務」に四分類し、それぞれ「自殺すべからず」「自己の能力を伸ばすべし(例えば「やる気なんか起きなくても、勉強すべし」、だ)」「守る気のない約束をすべからず」「困っている人を見たら助けるべし」という具体的例に沿って議論している。
すると、これらの具体的義務については、なぜそれらが義務なのか、なぜそうすべし(あるいは、すべからず)と言えるのか、という正当化、あるいは根拠づけの問いが立たずにはすまない。私は例えば、「自殺すべからず」も「自己の能力を伸ばすべし」も、結構な提案だとは思うが、義務だとは思わないので、その理由づけをめぐっては、カントに同意できないから彼と議論しなければならないことになる。
【4】 「自殺すべからず」だの、「嘘をつくべからず」だの、「能力を伸ばすべし」だの、「困っている人を見たら助けるべし」だのといった個々具体的な道徳内容の正当化とは別に、そもそも「なぜ道徳的であるべきなのか」という問い、道徳性そのものの正当化への問いが立つ。【3】で、私は、人間の「欲求(したい)」の底知れなさ、ということを理由として挙げたわけだが、より頻繁にお目にかかる議論は、道徳なしでは、つまり、みんながエゴイストとして振る舞ったのでは、社会生活、共同生活が成り立つまい、という論法がある。ホッブズに「自然状態(文化状態の反対で、道徳などない状態だ)とは、万人の万人に対する闘争状態だ」というよく知られた指摘があるが、そうなったのでは、人はかた時も気の休まることのない人生に陥らずにはすまなくなるだろう。そこで、契約が結ばれ、闘争が回避されるのだが、道徳も、そういう契約の一種だ、というのである。これは、エゴイズムを前提する道徳であり、すべてのエゴイストが「お互いさまの論理」とでもいうべきものに従って、互いに妥協し合って形成するものである。
これと似ているものに、道徳的に行為した方が、結局(めぐりめぐって)自分の得になるのだから、という風に道徳を正当化する議論がある。こう考える人は、本心では自分さえよければよいのだが、道徳的に行為する方が結局、自分にとっての得も最大になる、と計算していることになる。
計算(打算)に基いて道徳を守る、というのは、十分ありうる選択肢だろう。世にこのタイプの人は無数にいる。ただ、こういう人を「善い人」と呼ぶか、となると、然りと答えるのは躊躇されるのではないか。「善い人」からは、計算高さにとどまらない、もう少し多めの道徳性をわれわれは期待するのではないか。では、それは、どんな道徳性か。
【5】 カントは「他者に対する不完全義務」の具体例として、「困っている人を見たら助けるべし」を挙げていた。「不完全」というのは、仮にその義務を守らなくても、ただちに罰せられることはない、ぐらいの意味で理解してよい形容だ。確かに、困っている人を見て素通りしたからといって、罰せられることはない。それでも助ける人であって初めて、「善い人」と呼ばれるに値するように思われる。
この義務を具体的に説明する上でよく持ち出される議論に、「溺れている子供を見たら誰もが助けずにはいられまい」というのがある。人間が道徳的であることの証拠として挙げられる話だ。ただし、この議論は問題含みだ。「助けずにはいられない」のであれば、わざわざ「助けるべし」と言う必要などないだろうから。それでは、「義務」とは呼べないのではないか。困っている人を見たら助けたくなるというのは、「自然の欲求」になってしまう。
ここには、人間が道徳的であるべきだとして、その道徳性はどういう能力・資質に基くものなのか、という問いがからんでいる。なにしろ、「〜すべし」と言われたって、できないこと ― 例えば、物乞いする人を見たら必ず10万円与えるべし、とか ― はできないのであり、道徳なんて、そもそも「無理な注文」なのではないか、という突っ込みが可能になるだろう。
溺れる子供の例を挙げる場合、通常、「共感能力」が想定されている。共に苦しみ、共に喜ぶという資質が人間にはある、と考えるのである。だから、苦しんでいる人(溺れている人)を目撃したら、自分も苦しくなり、見ないふりをすることはできなくなり、助けずにはいられなくなる、というのだ。同様に、自分の喜びは、人と分かち合いたくなる。そういう、プラス/マイナスの共感がもとになって、エゴイズムは克服されると考える。この「共感道徳」の代表論者としては、アダム・スミス(1723-1790)やショーペンハウアー(1788-1860)の名が挙がるのを通例とする。
もっとも、「共感」というこの資質(あるいは能力)は、それはそれで問題含みである。(「共感」というのは、「同情」とも訳されうる言葉だ。)これは相手を選ぶ資質(能力)なのではないか。濃淡に差があり、ここから先にいる人にはもう抱かれなくなる、という地平線みたいなものがあるのではないか。友人が苦しんでいれば一緒に苦しくなるが、地球の裏側で人が苦しんでいても、何も感じないとか。(かつてサルトル(1905-1980)は、「アフリカで餓えに苦しむ人に文学は何ができるか」と問うたが、文学に限った話ではない。)それどころか、お隣りさんが苦しんでいると、嬉しくなったりしないか。(「他人の不幸は蜜の味」と言うではないか。)これは依怙贔屓の避け難い資質(能力)なのだ。
【6】 道徳の「べし/べからず」は、いつでもどこでも誰にも当てはまるものであるべきだ、そうであって初めて、道徳の名に値するのではないか。例えばカントは「道徳法則」という言い方をするのだが、法則はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだから ― 「例外のないルールはない」と言いもするのではあるけれども ― 道徳はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだ(普遍性とか普遍妥当性と呼ばれる)、と見なしていたことがわかる。そう考えると、「共感」は、道徳の土台となる資質(能力)としては失格だ、ということになる。
では、カントは、道徳の土台となる資質(能力)として、何を考えたのか。「尊重の感情」である。人を目的それ自体として尊重する、という思い。人を物のようには ― 例えば、手段として ― 処遇しない、ということだ。人が人である限りにおいて(分け隔てなく)尊重する、というのであり、すべての人に差別することなく接する態度、と言うこともできる。これは、人でないもの(例えば人間以外の動物)には当てはまらないので、その意味では差別的だ。ヒューマニズムというのは、人間を特別扱いする ― 強く言えば ― 差別思想であるわけだが、人間内部では特別扱い(依怙贔屓)を許さないのだ。
トゥーゲントハット(1930‐ )の解説に従って、カントのこの「尊重の道徳」を具体的に説明してみよう。死の床にいる人が願いを口にする。それを聞いた人は、願いをかなえると約束する。そして約束を守る。なぜか。死につつある人の苦しみを共有するから、ではない。自分も嘘をつかれたくないから、でもない(死の床にある人から嘘をつき返される心配はない)。そうではなく、その人を人として尊重する思いからだ、とカントは考える。その「尊重の思い」が、嘘をつくことを許さないのだ、と。
そして、この「尊重」の思いは、「共感」とは違って、誰もが誰に対してもいつでもどこでも抱くものだ ― その意味で、過大な要求ではない ― とカントは考える。確かに、尊重の念というのは淡白だ。人を人として尊重することなら、相手にそれほど深く関わらなくてもできそうだ。逆に言うと、すべての人と差別なく深く関わることなど不可能だろう。(「神の愛」というのは、結構淡白なのではないか。)
【7】 カントのこの普遍主義的で人間主義的な「尊重の道徳」は、久しく大きな影響力をもってきた。それは、裏から見れば、さまざまな批判にさらされてきた、ということでもある。その批判の一つに、承認論がある。他者との関わりとして、尊重だけでは足りない、承認という姿勢もまた必要なのではないか、というのである。その際、「承認」という言葉は、通常よりも広く理解する必要がある。日本語で「承認」と聞くと、会議で議長が「この堤案をご承認ください」と言うような用例が思い浮かぶところだろうが、承認論で「承認」の語のもとに考えられているのは、むしろ、「先輩に認められる」とか「先生に褒められる」とか「親に愛される」とか、そういった事態である。
相手に肯定的な資質を認め、そういう肯定的な資質の持ち主として向かい合う、という姿勢、それが承認するという姿勢である。
「尊重」も、相手を、人であるというその限りで、肯定的な存在として認める姿勢だった。しかし、承認は、人であれば誰もが備える「人という資質」を認めるのではない。ある人が、そしてその人こそが備える資質を ― 「個性」と言ってもいい ― 認めるのだ。だから、承認は、すでに特別扱いである。「わが子を愛する」というケースを考えるとよい。「愛する」行為とは、究極の依怙贔屓であるが、だからといって「差別だ」と咎められるいわれはない。それどころか、私は他の女性も平等に愛します、などと言えば、浮気あるいは不倫として、ひと騒動になる。
他者に向き合う態度として、「尊重」だけではなお一面的だ、ということだろう。「承認」という向き合い方も共に要請される。私は、教師として、すべての学生に分け隔てなく接するという「尊重」の姿勢を求められ、一人の学生(だけ)を愛するということはあってはならない ― ただし、学生の努力や能力は、それぞれに個別的に評価しなければならないのであって、全員に「優」をつける、とかいうのは職務放棄なのだ ― が、私の家族に対しては、愛するという特別扱いの姿勢が許されるし、それどころか、求められると思う。
そして、こう考えるとき、「愛」という言葉を道徳の議論に持ち込むことには、慎重であらねばならないことが見えてくる。「愛」とは特別扱いする、排他性を本質とする感情だ。「私だけを愛して」と求めるのだから。その点に無自覚な「愛国心」論議は ― 「人類はみな兄弟」という言葉と同じぐらい ― 抽象的であり、無神経だ。「愛は盲目」という名言をこそ、むしろ、思い起こすべきだろう。(かつて、ドイツ大統領、テオドール・ホイスは、「あなたはドイツを愛していますか」という問いに、「私は妻を愛しています」という答えで応じた。)
【2】 「寛容」について考える
【1】 さて、「寛容」である。これは、尊重や承認とは、根本的に異なる姿勢・態度である。どういうことか。
「尊重」も「承認」も、相手を、あるいは相手が備える何らかの資質・能力を「肯定的に受け止める」態度なのだった。これに対して、「寛容」は、そうではない。ヴォルテールに帰せられる有名な言葉を思い出そう。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言われたのだった。相手の立場は間違っていると考えるのだが、でも、相手がそういう立場を採ることを否定はしない、ということ。「大目に見ること」、「寛い心で許すこと」、それが「寛容」だ。
例えば、私は無宗教の人間で、神や仏の存在を信じない。そう信じている人は間違っている、と考える。信仰心を立派だとも偉いとも思わない。でも、人がそれを持つことは「大目に見る」。(実際、私の妻はクリスチャンである(らしい)。篤い信仰心ではないから、ということもあるが、それをやめさせようとする気は私にはない。)
その際、寛容という姿勢が成り立つためには、相手もまた、その姿勢を採ってくれなければなるまい。私が神を信じないことを、相手側でも、大目に見てくれなければならない。自らは神を信じている人にとっては、神など存在しないと考えている私は間違っていることになる。でも、だからといって私を改宗させようとは、ましてや、火あぶりの刑に処したりはしないでもらいたいものだ。
こう考えると、「寛容」という徳の危うさが浮かび上がってくるのではないか。結局、そこでは対立を引き起こしている問題そのものへの一定の無関心(関心の希薄さ)というものを前提するように思われる。切実で熱烈な関心事については、なかなか寛容にはなりにくい。相手を洗脳せずにはおれなくなる。(家族の幸せには無関心ではいられないから、家族に対して ― その誤りに対して ― 寛容であることは、なかなか難しい。それに対して、どうでもよい人の誤りには、いくらでも寛容になることができる。)
そもそも、寛容というのは、どこか上から目線の姿勢であり、偉そうなのだ。あなたは誤りの中に迷い込んでいるのだけれど、私は寛い心で大目に見てあげますよ、と言われて、感謝する人がいるだろうか。むしろ、屈辱感を抱くのではないか。
私は、「寛」という名前を掲げて生きているのだが、「寛容」という徳の旗振り役にはなれそうにない。それは、過渡期の、暫定的な、必要悪のような徳だ、と考えざるをえない。宗教が力を持たない世界になればよいと ― マルクスやニーチェと共に ― 考えている。違いは間違いであるのだが、寛い心で大目に見なければならない、という風ではなく、違いは違いであり、それが面白いと認める、という風な世界になってほしい。しかし、そうなれば、もう寛容ではない。なにしろ、違いを面白いと感じ、つまりは肯定的に評価しているのだから。
【2】 ただし、今のこの時代、この世界で、「寛容」に注目することは、炯眼だと思う。かつて、宗教と宗教がぶつかり合う時には、繰り返し、この(美)徳(=道徳性)が呼び出されたのだった。ヨーロッパでは、ヴォルテールによって、あるいはエラスムスによって。そして、日本では、渡辺一夫によって。その背景には、常に、宗教対立があった。例えば、カトリックとプロテスタントの対立。あるいは、国家神道。
その際、「対立」とは言っても、個人と個人の対立ではない。集団と集団の対立である。だからこそ、寛容になることは容易でないのであり、それに対して、誤っている個人に対して寛容であることは、さほど難しくはない。(「違いのせいで孤立している風変わりな個人を寛容に取り扱うことは易しい」とマイケル・ウォルツァー(1935- )も言っている。)
見落としてはならないのは、そこで対立しあう集団の力は、通例、拮抗関係にはない、ということだ。一方が優勢で他方が劣勢、あるいは、一方が多数で他方が少数、言い換えれば、マジョリティとマイノリティの関係だ。つまり、寛容とは、優勢の側や多数の側に期待される徳性なのだ。結局のところ、寛容は、マジョリティの側の「上から目線」ということに帰してしまう。それでは、マイノリティの側に、卑屈さが前提されることになり、受け入れられない、ということになるのは避けられまい。少なくとも、感謝の思いと共に受け入れられる、という風にはならないだろう。
寛容は、相互性を属性とする道徳理念ではないということであり、その点で尊重と ― 承認とも ― 決定的に異なる。
【3】 寛容について語らずにはすまされない土壌は、ヨーロッパでは、この200年、着実に崩れてきたと思われてきた。世俗化、と呼ばれる趨勢だ。ところが、昨今、「寛容」について語らずにはすまされない状況が生まれてきている。それは、イスラム文化との共存、ということが社会的課題となる、という新たな状況が出来してきているからだ。宗教的人間に対しては、私もまた、寛容であることしかできない。私は相手の立場(信仰)を誤りだと思うけれども、だから、その考えを放棄することこそ正しい、と思うのではあるが、だからといって、その考えを奉じる人など殺してしまえ、とは考えない。許容するのであり、それが、寛容だ。
その際、客観的に考えればどちらが正しいか、と問い、判断を下すことは、不可能だ。なぜなら、私は、客観的視点(神の視点)には立てないのだから。神の存在を信じない、とは、自分もまた神の視点、客観的視点、絶対に正しい視点には立てない、と諦念することだ。つまりは、相対主義をさしあたり受け入れる、ということだ。主観的視点からして、私は、宗教はなくなるべきだ、と思うのだが、その立場の主観性は自覚した上でのことであり、そのことも、寛容であるべき理由となる。寛容は、普遍主義を前提せず、多元主義・相対主義を受け入れるところに要請される徳性だ、と言ってよいだろう。
その問題は、だからと言って、無制限に寛容であるべし、とか、寛容であればあるほどよい、という話にはならない、という論点と関係する。寛容という徳には、限界がある。寛容が、一種の妥協の産物という特質を有する道徳性であることの一つの現れである。それが、例えば「正義」という徳とは異なるところだ。(自由や平等にも、限界はあると思うが、正義や幸福にはそれはないだろう。自由であればあるほど、平等であればあるほどよい、とは言えまいが、正義であればあるほど、幸福であればあるほどよい、とは言えるだろう。)
寛容でありうるのは、あるべきなのは、ここまで、という限界(境界)がある。例えば、テロに対しては、寛容であるべきではないと思うが、信仰に対しては、そうだろう。こうして、寛容論は、常に、線引き問題を抱え込む。イスラム原理主義のテロリズムには寛容であるべきではないが、イスラム教(そのもの)には寛容であってよい、例えば、そういう線引きだ。「狂信」という言葉があるのは、線引きのためなのだ。それに対して寛容であることはできないし、あるべきでもない。
【3】 自分でも意外な、暫定的結論
【1】 さて、こんな風に考えてきて、自分でも意外な結論にたどり着いた。私は、昨今の日本における道徳教育必修化に関する議論を重要な課題だと考え、同時にその一方で、寛容論を現代世界にあって必要な論点だと思う者だ。しかし、両者は、結びつかないのではないか。というのも、上述したように、寛容が道徳性として要請されるのは、複数の宗教が対峙するような状況、そして、普遍主義を掲げることができないような状況においてであると考えられるからだ。しかし、目下の日本の状況はそうではない。世俗化された社会と捉えるのが適切な目下の日本で、必要な道徳性とは、相手の立場は誤っていると思うけれども寛い心で受け入れるという姿勢、つまりは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える。そこで必要な他者に対する姿勢とは、合意形成をめざすプロセスを共にしうるパートナーとして他者を尊重する、という姿勢だと思う。容易にヴォルテールまで引き下がらないこと、あくまでも、カント、ハーバーマスの路線を堅持すること、と言ってもよい。
【2】 より具体的に考えてみよう。道徳教育の名のもとにもっぱら愛国心教育を考えている人々の念頭にある「他者」とは、中国や韓国の人々であり、そこから日本にやって来た、そしてやって来る人々だろう。その人々と日本人の関係の中に、宗教の問題は存在しない。それでも、むりやり、絶対的価値同士の衝突の問題に仕立て上げたい、というのであれば、話は別だが、そんなのは妄想だ。
それとは別に、イスラム文化圏から日本を訪れ、日本に住む人々が、これから増えていくだろうという問題はある。「問題」などというと、まるで「困ったこと」ででもあるかのように響きかねないが、私は、日本に魅かれ、日本を訪れ、日本に住みたいと思う外国人が増えることを嬉しく思う者であり ― その気持ちが、私の愛国心だ ― その際、どの国の人であるか、は問題ではない。そこでは、それぞれの人の信仰に対して ― イスラム教であれ、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、仏教であれ ― その教えは誤っていると思うけれども、しかし寛い心で受け入れるという姿勢、つまり「寛容」でありたいとは思う。
そう考えると、愛国心と歓待と寛容とは、結構、両立・共存可能であるように思えてくるのだけれども、どうだろうか。
《付記》 私が寛容について考えるようになったのは、マイケル・ウォルツァーを読んで以来だ。この1935年生まれのユダヤ系アメリカ人政治(哲)学者は、地球上のマイノリティの歴史について驚くべく該博の人で、とりわけ、ユダヤ民族の歴史に詳しいのだが、そこでは、オーストリア帝国の存在感が大きい。帝国には寛容という徳がゆき渡っていた、というウォルツァーの指摘は、私にとって強烈な「メウロコ」の経験だった。例えば、オーストリア帝国の東の端に、チェルノヴィッツという街があったのだが(今は、ウクライナに属する)、そこには、ユダヤ人、ルーマニア人、ウクライナ人、ドイツ人、、、、、と様々な民族が共生し、寛容な文化が花開いていた。
そういうことも含め、寛容、多文化主義、道徳について、私は、以下のような文章の中であれこれ考えてきた。この文章は、それを再構成してひねり出されたものである。
・書評:マイケル・ウォルツァー『寛容について』(みすず書房、2003年)、高崎経済大学論集第47巻第3号、2004年
・『高校生と大学一年生のための倫理学講義』、ナカニシヤ出版、2011年
・「「チェルノヴィッツ」考 - 歴史と文化」、『思想』2013年3月号、岩波書店
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藤野教授の上掲書『高校生と大学一年生のための倫理学講義』は、わたしも今年秋、藤野教授の文章に親しんですぐ、読ませていただきました。そして問題のわかりやすい整理の仕方に感銘を受けたものです。
「共感」は、道徳の普遍的土台とはなりにくい。「尊重」はそれに比べると(それでも多少困難ではあるけれども)共通ルールにしやすい。
おおむねそういう論旨です。ご興味のある方はぜひ、『高校生と大学一年生のための―』をお読みになってみてください。
今回は、「寛容」という徳をテーマにして、
・「寛容」は無関心ということも含む徳であること、
・マジョリティからマイノリティへの、やや「上から目線」の徳であること、
・複数宗教が対峙し、普遍主義を掲げることができないときは「寛容」が要請される、
・日本国内のような状況では、必要な道徳性とは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える
ということを述べています。
藤野教授から12月14日、この原稿を添付していただいたメールによれば、
正田さん、
アクセル・ホネットが
資本主義に対してどういうスタンスをとっているのか、
ということが知りたくて
いくつかの論考を読んでいるのですが、
最近出た『社会主義の理念』という本
面白いのですが、まだ読んでいる最中で、
授業で取り上げられるのは正月明けになりそう、
ということで、
今日の講義は、「承認と寛容」をテーマにすることにしました。
少し前に書いた文章を引っ張り出してきました。
それを添付させていただきます。
【1】の7と【2】を主要に解説することになります。
とのことでした。
ということは、前回ちらっと出た「資本主義は利益至上主義だけではなく承認の原則によっても成り立っている」これは年明け以降にその続きが読めそうだ、ということですね。
藤野先生、このたびもありがとうございました!
正田佐与
今回は「寛容」がテーマ。わたくしにも”耳が痛い”ことになりそうですが…。藤野教授の結論はどんなことになったでしょうか。
※この記事は公開後、フェイスブックのあるお友達から「みんなでじっくり読みたいような内容ですね」という賛辞をいただきました。
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承認と寛容 ― あるいは、倫理学の中の「寛容」概念の位置
【1】 広く「道徳」について考える
【1】 倫理学というのは、「よい」という性質をめぐる議論である。「よい」という形容詞は、ただし、ずいぶん多様なものを形容する。「よい行い」や「よい人」だけでなく、「よい人生」「よい成績」「よい天気」「よい気分」「よい男」「よい女」といった具合だ。(最後の二例では「よい」と言わずに「イイ」と言う。)
この中で、「よい行い」をめぐる議論に限って、道徳論と呼ぶ、という語用がありうる。(というか、倫理と道徳という言葉を、私はそのように使い分けることにしている。)ある行為が「よい行為」である場合、その行為は「することの望ましい行為」である、と言えるだろう。そして、「することの望ましい行為」は、これをもうひと押しすれば、「すべき行為」である。「すべき行為」とは、「義務」の言い換えであり、従って、道徳論とは義務をめぐる議論である、と言うことができる。(「義務」に似た言葉に「当為」というのもある。)
「よい行為」をする人は「よい人」である、と言って異論はあるまい。このタイプの「よさ」(道徳的な「よさ」)には、日本語では、概して、「善」という漢字があてられる。「善行」「善人」「善意」という具合だ。(「善戦」もあるのだけれども。)
では、同じ調子で、「よい天気」や「よい気分」「よい人生」を「善い天気」「善い気分」「善い人生」と書いても違和感がないだろうか。「善い人生」は微妙だが、前二者については、「否」と言いたい。どうして、そういうことになるのか。善さ=よさ、ではないからだ。
「よい人生」とは、どんな人生か。道徳的に正しい人の人生だろうか。必ずしも、そうは言えまい。むしろ、自分の願いがすべてかなったような人生が、「よい人生」と見なされるのではないか。そう考えると、「よい人生」というのは「幸せな人生」に近い。(フロイト(1856-1939)は、幸福を、「願望充足(あるいは欲望成就)」と説明した。)
つまり、道徳的に善い行いをする人の人生と、よい人生とは、ぴったり重なるものではない、という可能性があるのではないか。それどころか、両者は対立することさえあるのではないか。
道徳(すべきこと)と幸福(願いがかなうこと)の関係については、古来、多くの哲学者が大いに頭を悩まし、様々な提案をしてきた。カント(1720-1802)は道徳重視派の代表格で、ニーチェ(1844-1900)は幸福の側に肩入れした、と大雑把には言えるだろう。
【2】 どうして、こんな辛気臭い話をするのか。
「道徳的であること」が、「よい人生」や「幸せな人生」に直結するものではない、という事情があるからだ。大体、道徳的な人、というのは、感じの悪い人であることが多くないか。他人に「〇〇すべし」とか「〇〇すべからず」というようなことを言いまくる人が、感じがよいはずがない。それだけではない。自分自身に対して「〇〇すべし」「〇〇すべからず」と目を光らせている人も、つまり「自分に厳しい人」も、なんだか窮屈で、面白みに欠ける、というケースが少なくないのではないか。ニーチェなら、「道徳は生に対して抑圧的だ」と言うところだろう。
道徳は「すべし/すべからず」をめぐる議論だ、と上に確認したが、そういうわけで、そもそも道徳的であるべきなのか、なぜ道徳的であるべきなのか、と問う余地がある。(道徳的でなどない方が、人生、のびやかになり、楽しくもなるのではないか、ということだ。)
人生における悩みというのは、概して、「したい (will)」と「すべき (should)」と「できる (can)」という三つの助動詞の関係(欲求と義務と能力の関係、と言ってもよい)をめぐるものだ、と言えるのではないか、と常々私は考えている。「したいことは、できるのであれば、してよろしい」、という風であれば、人生、ややこしくなくて具合がよろしいのだが、そうは問屋が卸ろさない。大体、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかなんて、どれもよくわからない、としたものではないか。そして、仮にわかったとしても、この三つが互いに良好な関係にあるとは限らない。しばしば対立する。その時、「すべし」(道徳)の言い分だけを通す、という風に事が運ばないのは、当然ではないだろうか。
道徳とは、「すべし」(義務)に関する議論、あるいは主張であるとすると、そんなもの、そもそもない方がよい ― 窮屈だし、面倒くさいし ― という考え方がありうるということだ。大いにありうる、とすら言ってよいだろう。
そういうわけで、倫理学などをやっていると、道徳に対しては、かえって警戒的にならずにすまなくなる。すぐ説教したがる倫理学者というのは贋物だ、と常々私は思っている。すぐ説教したがる政治家も、政治的ではあっても、道徳について悩んだことなどほぼない人たちだ、と思ってまず間違いない。(道徳教育の必要性を説く政治家に対して抱かれる疑念や反発というのは、この点にも関わるもので、真っ当な反応であると言ってよい。)
【3】 そうは言っても、やはり、道徳は必要だ、人は道徳的であるべきだ、と私は考える。(ニーチェや永井均に賛同することはできない。)人間の「欲求(したい)」を無造作に認めることはできない、人間の「欲求(したい)」の底知れなさには私などの想像を絶するものでありうる ― 病みうるし、狂いうる ― と想像されるからだ。エゴイズム(利己主義)というのは、そういう症状の一例 ― しかも、人畜無害な一例 ― であるに過ぎない。人間の「欲求(したい)」には、やはり、縛りをかけることが必要になると ― 感じの悪い提案であることは重々承知の上で ― 思う。義務という縛り、道徳という縛りである。
そこから、どういう縛り、どういう義務が必要なのか、という問いが出てくる。道徳の内容への問い、である。代表的道徳哲学者であるカントは、義務を、「自己に対する完全義務」「自己に対する不完全義務」「他者に対する完全義務」「他者に対する不完全義務」に四分類し、それぞれ「自殺すべからず」「自己の能力を伸ばすべし(例えば「やる気なんか起きなくても、勉強すべし」、だ)」「守る気のない約束をすべからず」「困っている人を見たら助けるべし」という具体的例に沿って議論している。
すると、これらの具体的義務については、なぜそれらが義務なのか、なぜそうすべし(あるいは、すべからず)と言えるのか、という正当化、あるいは根拠づけの問いが立たずにはすまない。私は例えば、「自殺すべからず」も「自己の能力を伸ばすべし」も、結構な提案だとは思うが、義務だとは思わないので、その理由づけをめぐっては、カントに同意できないから彼と議論しなければならないことになる。
【4】 「自殺すべからず」だの、「嘘をつくべからず」だの、「能力を伸ばすべし」だの、「困っている人を見たら助けるべし」だのといった個々具体的な道徳内容の正当化とは別に、そもそも「なぜ道徳的であるべきなのか」という問い、道徳性そのものの正当化への問いが立つ。【3】で、私は、人間の「欲求(したい)」の底知れなさ、ということを理由として挙げたわけだが、より頻繁にお目にかかる議論は、道徳なしでは、つまり、みんながエゴイストとして振る舞ったのでは、社会生活、共同生活が成り立つまい、という論法がある。ホッブズに「自然状態(文化状態の反対で、道徳などない状態だ)とは、万人の万人に対する闘争状態だ」というよく知られた指摘があるが、そうなったのでは、人はかた時も気の休まることのない人生に陥らずにはすまなくなるだろう。そこで、契約が結ばれ、闘争が回避されるのだが、道徳も、そういう契約の一種だ、というのである。これは、エゴイズムを前提する道徳であり、すべてのエゴイストが「お互いさまの論理」とでもいうべきものに従って、互いに妥協し合って形成するものである。
これと似ているものに、道徳的に行為した方が、結局(めぐりめぐって)自分の得になるのだから、という風に道徳を正当化する議論がある。こう考える人は、本心では自分さえよければよいのだが、道徳的に行為する方が結局、自分にとっての得も最大になる、と計算していることになる。
計算(打算)に基いて道徳を守る、というのは、十分ありうる選択肢だろう。世にこのタイプの人は無数にいる。ただ、こういう人を「善い人」と呼ぶか、となると、然りと答えるのは躊躇されるのではないか。「善い人」からは、計算高さにとどまらない、もう少し多めの道徳性をわれわれは期待するのではないか。では、それは、どんな道徳性か。
【5】 カントは「他者に対する不完全義務」の具体例として、「困っている人を見たら助けるべし」を挙げていた。「不完全」というのは、仮にその義務を守らなくても、ただちに罰せられることはない、ぐらいの意味で理解してよい形容だ。確かに、困っている人を見て素通りしたからといって、罰せられることはない。それでも助ける人であって初めて、「善い人」と呼ばれるに値するように思われる。
この義務を具体的に説明する上でよく持ち出される議論に、「溺れている子供を見たら誰もが助けずにはいられまい」というのがある。人間が道徳的であることの証拠として挙げられる話だ。ただし、この議論は問題含みだ。「助けずにはいられない」のであれば、わざわざ「助けるべし」と言う必要などないだろうから。それでは、「義務」とは呼べないのではないか。困っている人を見たら助けたくなるというのは、「自然の欲求」になってしまう。
ここには、人間が道徳的であるべきだとして、その道徳性はどういう能力・資質に基くものなのか、という問いがからんでいる。なにしろ、「〜すべし」と言われたって、できないこと ― 例えば、物乞いする人を見たら必ず10万円与えるべし、とか ― はできないのであり、道徳なんて、そもそも「無理な注文」なのではないか、という突っ込みが可能になるだろう。
溺れる子供の例を挙げる場合、通常、「共感能力」が想定されている。共に苦しみ、共に喜ぶという資質が人間にはある、と考えるのである。だから、苦しんでいる人(溺れている人)を目撃したら、自分も苦しくなり、見ないふりをすることはできなくなり、助けずにはいられなくなる、というのだ。同様に、自分の喜びは、人と分かち合いたくなる。そういう、プラス/マイナスの共感がもとになって、エゴイズムは克服されると考える。この「共感道徳」の代表論者としては、アダム・スミス(1723-1790)やショーペンハウアー(1788-1860)の名が挙がるのを通例とする。
もっとも、「共感」というこの資質(あるいは能力)は、それはそれで問題含みである。(「共感」というのは、「同情」とも訳されうる言葉だ。)これは相手を選ぶ資質(能力)なのではないか。濃淡に差があり、ここから先にいる人にはもう抱かれなくなる、という地平線みたいなものがあるのではないか。友人が苦しんでいれば一緒に苦しくなるが、地球の裏側で人が苦しんでいても、何も感じないとか。(かつてサルトル(1905-1980)は、「アフリカで餓えに苦しむ人に文学は何ができるか」と問うたが、文学に限った話ではない。)それどころか、お隣りさんが苦しんでいると、嬉しくなったりしないか。(「他人の不幸は蜜の味」と言うではないか。)これは依怙贔屓の避け難い資質(能力)なのだ。
【6】 道徳の「べし/べからず」は、いつでもどこでも誰にも当てはまるものであるべきだ、そうであって初めて、道徳の名に値するのではないか。例えばカントは「道徳法則」という言い方をするのだが、法則はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだから ― 「例外のないルールはない」と言いもするのではあるけれども ― 道徳はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだ(普遍性とか普遍妥当性と呼ばれる)、と見なしていたことがわかる。そう考えると、「共感」は、道徳の土台となる資質(能力)としては失格だ、ということになる。
では、カントは、道徳の土台となる資質(能力)として、何を考えたのか。「尊重の感情」である。人を目的それ自体として尊重する、という思い。人を物のようには ― 例えば、手段として ― 処遇しない、ということだ。人が人である限りにおいて(分け隔てなく)尊重する、というのであり、すべての人に差別することなく接する態度、と言うこともできる。これは、人でないもの(例えば人間以外の動物)には当てはまらないので、その意味では差別的だ。ヒューマニズムというのは、人間を特別扱いする ― 強く言えば ― 差別思想であるわけだが、人間内部では特別扱い(依怙贔屓)を許さないのだ。
トゥーゲントハット(1930‐ )の解説に従って、カントのこの「尊重の道徳」を具体的に説明してみよう。死の床にいる人が願いを口にする。それを聞いた人は、願いをかなえると約束する。そして約束を守る。なぜか。死につつある人の苦しみを共有するから、ではない。自分も嘘をつかれたくないから、でもない(死の床にある人から嘘をつき返される心配はない)。そうではなく、その人を人として尊重する思いからだ、とカントは考える。その「尊重の思い」が、嘘をつくことを許さないのだ、と。
そして、この「尊重」の思いは、「共感」とは違って、誰もが誰に対してもいつでもどこでも抱くものだ ― その意味で、過大な要求ではない ― とカントは考える。確かに、尊重の念というのは淡白だ。人を人として尊重することなら、相手にそれほど深く関わらなくてもできそうだ。逆に言うと、すべての人と差別なく深く関わることなど不可能だろう。(「神の愛」というのは、結構淡白なのではないか。)
【7】 カントのこの普遍主義的で人間主義的な「尊重の道徳」は、久しく大きな影響力をもってきた。それは、裏から見れば、さまざまな批判にさらされてきた、ということでもある。その批判の一つに、承認論がある。他者との関わりとして、尊重だけでは足りない、承認という姿勢もまた必要なのではないか、というのである。その際、「承認」という言葉は、通常よりも広く理解する必要がある。日本語で「承認」と聞くと、会議で議長が「この堤案をご承認ください」と言うような用例が思い浮かぶところだろうが、承認論で「承認」の語のもとに考えられているのは、むしろ、「先輩に認められる」とか「先生に褒められる」とか「親に愛される」とか、そういった事態である。
相手に肯定的な資質を認め、そういう肯定的な資質の持ち主として向かい合う、という姿勢、それが承認するという姿勢である。
「尊重」も、相手を、人であるというその限りで、肯定的な存在として認める姿勢だった。しかし、承認は、人であれば誰もが備える「人という資質」を認めるのではない。ある人が、そしてその人こそが備える資質を ― 「個性」と言ってもいい ― 認めるのだ。だから、承認は、すでに特別扱いである。「わが子を愛する」というケースを考えるとよい。「愛する」行為とは、究極の依怙贔屓であるが、だからといって「差別だ」と咎められるいわれはない。それどころか、私は他の女性も平等に愛します、などと言えば、浮気あるいは不倫として、ひと騒動になる。
他者に向き合う態度として、「尊重」だけではなお一面的だ、ということだろう。「承認」という向き合い方も共に要請される。私は、教師として、すべての学生に分け隔てなく接するという「尊重」の姿勢を求められ、一人の学生(だけ)を愛するということはあってはならない ― ただし、学生の努力や能力は、それぞれに個別的に評価しなければならないのであって、全員に「優」をつける、とかいうのは職務放棄なのだ ― が、私の家族に対しては、愛するという特別扱いの姿勢が許されるし、それどころか、求められると思う。
そして、こう考えるとき、「愛」という言葉を道徳の議論に持ち込むことには、慎重であらねばならないことが見えてくる。「愛」とは特別扱いする、排他性を本質とする感情だ。「私だけを愛して」と求めるのだから。その点に無自覚な「愛国心」論議は ― 「人類はみな兄弟」という言葉と同じぐらい ― 抽象的であり、無神経だ。「愛は盲目」という名言をこそ、むしろ、思い起こすべきだろう。(かつて、ドイツ大統領、テオドール・ホイスは、「あなたはドイツを愛していますか」という問いに、「私は妻を愛しています」という答えで応じた。)
【2】 「寛容」について考える
【1】 さて、「寛容」である。これは、尊重や承認とは、根本的に異なる姿勢・態度である。どういうことか。
「尊重」も「承認」も、相手を、あるいは相手が備える何らかの資質・能力を「肯定的に受け止める」態度なのだった。これに対して、「寛容」は、そうではない。ヴォルテールに帰せられる有名な言葉を思い出そう。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言われたのだった。相手の立場は間違っていると考えるのだが、でも、相手がそういう立場を採ることを否定はしない、ということ。「大目に見ること」、「寛い心で許すこと」、それが「寛容」だ。
例えば、私は無宗教の人間で、神や仏の存在を信じない。そう信じている人は間違っている、と考える。信仰心を立派だとも偉いとも思わない。でも、人がそれを持つことは「大目に見る」。(実際、私の妻はクリスチャンである(らしい)。篤い信仰心ではないから、ということもあるが、それをやめさせようとする気は私にはない。)
その際、寛容という姿勢が成り立つためには、相手もまた、その姿勢を採ってくれなければなるまい。私が神を信じないことを、相手側でも、大目に見てくれなければならない。自らは神を信じている人にとっては、神など存在しないと考えている私は間違っていることになる。でも、だからといって私を改宗させようとは、ましてや、火あぶりの刑に処したりはしないでもらいたいものだ。
こう考えると、「寛容」という徳の危うさが浮かび上がってくるのではないか。結局、そこでは対立を引き起こしている問題そのものへの一定の無関心(関心の希薄さ)というものを前提するように思われる。切実で熱烈な関心事については、なかなか寛容にはなりにくい。相手を洗脳せずにはおれなくなる。(家族の幸せには無関心ではいられないから、家族に対して ― その誤りに対して ― 寛容であることは、なかなか難しい。それに対して、どうでもよい人の誤りには、いくらでも寛容になることができる。)
そもそも、寛容というのは、どこか上から目線の姿勢であり、偉そうなのだ。あなたは誤りの中に迷い込んでいるのだけれど、私は寛い心で大目に見てあげますよ、と言われて、感謝する人がいるだろうか。むしろ、屈辱感を抱くのではないか。
私は、「寛」という名前を掲げて生きているのだが、「寛容」という徳の旗振り役にはなれそうにない。それは、過渡期の、暫定的な、必要悪のような徳だ、と考えざるをえない。宗教が力を持たない世界になればよいと ― マルクスやニーチェと共に ― 考えている。違いは間違いであるのだが、寛い心で大目に見なければならない、という風ではなく、違いは違いであり、それが面白いと認める、という風な世界になってほしい。しかし、そうなれば、もう寛容ではない。なにしろ、違いを面白いと感じ、つまりは肯定的に評価しているのだから。
【2】 ただし、今のこの時代、この世界で、「寛容」に注目することは、炯眼だと思う。かつて、宗教と宗教がぶつかり合う時には、繰り返し、この(美)徳(=道徳性)が呼び出されたのだった。ヨーロッパでは、ヴォルテールによって、あるいはエラスムスによって。そして、日本では、渡辺一夫によって。その背景には、常に、宗教対立があった。例えば、カトリックとプロテスタントの対立。あるいは、国家神道。
その際、「対立」とは言っても、個人と個人の対立ではない。集団と集団の対立である。だからこそ、寛容になることは容易でないのであり、それに対して、誤っている個人に対して寛容であることは、さほど難しくはない。(「違いのせいで孤立している風変わりな個人を寛容に取り扱うことは易しい」とマイケル・ウォルツァー(1935- )も言っている。)
見落としてはならないのは、そこで対立しあう集団の力は、通例、拮抗関係にはない、ということだ。一方が優勢で他方が劣勢、あるいは、一方が多数で他方が少数、言い換えれば、マジョリティとマイノリティの関係だ。つまり、寛容とは、優勢の側や多数の側に期待される徳性なのだ。結局のところ、寛容は、マジョリティの側の「上から目線」ということに帰してしまう。それでは、マイノリティの側に、卑屈さが前提されることになり、受け入れられない、ということになるのは避けられまい。少なくとも、感謝の思いと共に受け入れられる、という風にはならないだろう。
寛容は、相互性を属性とする道徳理念ではないということであり、その点で尊重と ― 承認とも ― 決定的に異なる。
【3】 寛容について語らずにはすまされない土壌は、ヨーロッパでは、この200年、着実に崩れてきたと思われてきた。世俗化、と呼ばれる趨勢だ。ところが、昨今、「寛容」について語らずにはすまされない状況が生まれてきている。それは、イスラム文化との共存、ということが社会的課題となる、という新たな状況が出来してきているからだ。宗教的人間に対しては、私もまた、寛容であることしかできない。私は相手の立場(信仰)を誤りだと思うけれども、だから、その考えを放棄することこそ正しい、と思うのではあるが、だからといって、その考えを奉じる人など殺してしまえ、とは考えない。許容するのであり、それが、寛容だ。
その際、客観的に考えればどちらが正しいか、と問い、判断を下すことは、不可能だ。なぜなら、私は、客観的視点(神の視点)には立てないのだから。神の存在を信じない、とは、自分もまた神の視点、客観的視点、絶対に正しい視点には立てない、と諦念することだ。つまりは、相対主義をさしあたり受け入れる、ということだ。主観的視点からして、私は、宗教はなくなるべきだ、と思うのだが、その立場の主観性は自覚した上でのことであり、そのことも、寛容であるべき理由となる。寛容は、普遍主義を前提せず、多元主義・相対主義を受け入れるところに要請される徳性だ、と言ってよいだろう。
その問題は、だからと言って、無制限に寛容であるべし、とか、寛容であればあるほどよい、という話にはならない、という論点と関係する。寛容という徳には、限界がある。寛容が、一種の妥協の産物という特質を有する道徳性であることの一つの現れである。それが、例えば「正義」という徳とは異なるところだ。(自由や平等にも、限界はあると思うが、正義や幸福にはそれはないだろう。自由であればあるほど、平等であればあるほどよい、とは言えまいが、正義であればあるほど、幸福であればあるほどよい、とは言えるだろう。)
寛容でありうるのは、あるべきなのは、ここまで、という限界(境界)がある。例えば、テロに対しては、寛容であるべきではないと思うが、信仰に対しては、そうだろう。こうして、寛容論は、常に、線引き問題を抱え込む。イスラム原理主義のテロリズムには寛容であるべきではないが、イスラム教(そのもの)には寛容であってよい、例えば、そういう線引きだ。「狂信」という言葉があるのは、線引きのためなのだ。それに対して寛容であることはできないし、あるべきでもない。
【3】 自分でも意外な、暫定的結論
【1】 さて、こんな風に考えてきて、自分でも意外な結論にたどり着いた。私は、昨今の日本における道徳教育必修化に関する議論を重要な課題だと考え、同時にその一方で、寛容論を現代世界にあって必要な論点だと思う者だ。しかし、両者は、結びつかないのではないか。というのも、上述したように、寛容が道徳性として要請されるのは、複数の宗教が対峙するような状況、そして、普遍主義を掲げることができないような状況においてであると考えられるからだ。しかし、目下の日本の状況はそうではない。世俗化された社会と捉えるのが適切な目下の日本で、必要な道徳性とは、相手の立場は誤っていると思うけれども寛い心で受け入れるという姿勢、つまりは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える。そこで必要な他者に対する姿勢とは、合意形成をめざすプロセスを共にしうるパートナーとして他者を尊重する、という姿勢だと思う。容易にヴォルテールまで引き下がらないこと、あくまでも、カント、ハーバーマスの路線を堅持すること、と言ってもよい。
【2】 より具体的に考えてみよう。道徳教育の名のもとにもっぱら愛国心教育を考えている人々の念頭にある「他者」とは、中国や韓国の人々であり、そこから日本にやって来た、そしてやって来る人々だろう。その人々と日本人の関係の中に、宗教の問題は存在しない。それでも、むりやり、絶対的価値同士の衝突の問題に仕立て上げたい、というのであれば、話は別だが、そんなのは妄想だ。
それとは別に、イスラム文化圏から日本を訪れ、日本に住む人々が、これから増えていくだろうという問題はある。「問題」などというと、まるで「困ったこと」ででもあるかのように響きかねないが、私は、日本に魅かれ、日本を訪れ、日本に住みたいと思う外国人が増えることを嬉しく思う者であり ― その気持ちが、私の愛国心だ ― その際、どの国の人であるか、は問題ではない。そこでは、それぞれの人の信仰に対して ― イスラム教であれ、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、仏教であれ ― その教えは誤っていると思うけれども、しかし寛い心で受け入れるという姿勢、つまり「寛容」でありたいとは思う。
そう考えると、愛国心と歓待と寛容とは、結構、両立・共存可能であるように思えてくるのだけれども、どうだろうか。
《付記》 私が寛容について考えるようになったのは、マイケル・ウォルツァーを読んで以来だ。この1935年生まれのユダヤ系アメリカ人政治(哲)学者は、地球上のマイノリティの歴史について驚くべく該博の人で、とりわけ、ユダヤ民族の歴史に詳しいのだが、そこでは、オーストリア帝国の存在感が大きい。帝国には寛容という徳がゆき渡っていた、というウォルツァーの指摘は、私にとって強烈な「メウロコ」の経験だった。例えば、オーストリア帝国の東の端に、チェルノヴィッツという街があったのだが(今は、ウクライナに属する)、そこには、ユダヤ人、ルーマニア人、ウクライナ人、ドイツ人、、、、、と様々な民族が共生し、寛容な文化が花開いていた。
そういうことも含め、寛容、多文化主義、道徳について、私は、以下のような文章の中であれこれ考えてきた。この文章は、それを再構成してひねり出されたものである。
・書評:マイケル・ウォルツァー『寛容について』(みすず書房、2003年)、高崎経済大学論集第47巻第3号、2004年
・『高校生と大学一年生のための倫理学講義』、ナカニシヤ出版、2011年
・「「チェルノヴィッツ」考 - 歴史と文化」、『思想』2013年3月号、岩波書店
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藤野教授の上掲書『高校生と大学一年生のための倫理学講義』は、わたしも今年秋、藤野教授の文章に親しんですぐ、読ませていただきました。そして問題のわかりやすい整理の仕方に感銘を受けたものです。
「共感」は、道徳の普遍的土台とはなりにくい。「尊重」はそれに比べると(それでも多少困難ではあるけれども)共通ルールにしやすい。
おおむねそういう論旨です。ご興味のある方はぜひ、『高校生と大学一年生のための―』をお読みになってみてください。
今回は、「寛容」という徳をテーマにして、
・「寛容」は無関心ということも含む徳であること、
・マジョリティからマイノリティへの、やや「上から目線」の徳であること、
・複数宗教が対峙し、普遍主義を掲げることができないときは「寛容」が要請される、
・日本国内のような状況では、必要な道徳性とは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える
ということを述べています。
藤野教授から12月14日、この原稿を添付していただいたメールによれば、
正田さん、
アクセル・ホネットが
資本主義に対してどういうスタンスをとっているのか、
ということが知りたくて
いくつかの論考を読んでいるのですが、
最近出た『社会主義の理念』という本
面白いのですが、まだ読んでいる最中で、
授業で取り上げられるのは正月明けになりそう、
ということで、
今日の講義は、「承認と寛容」をテーマにすることにしました。
少し前に書いた文章を引っ張り出してきました。
それを添付させていただきます。
【1】の7と【2】を主要に解説することになります。
とのことでした。
ということは、前回ちらっと出た「資本主義は利益至上主義だけではなく承認の原則によっても成り立っている」これは年明け以降にその続きが読めそうだ、ということですね。
藤野先生、このたびもありがとうございました!
正田佐与
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