一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の昨12月21日分の講義原稿をいただきました。
 
 引き続き「寛容」がテーマ。「みんなでじっくり読みたくなる記事」(フェイスブックのお友達)と賞賛をいただいた1つ前の記事に続き、今、もういちど捉え直したい「寛容」、読者の皆様にとって考えるヒントになっていただければ嬉しく思います。


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承認論講義(11)「差異について」

Axel Honneth: Das Andere der Gerechtigkeit, in: ders., Das Andere der Gerechtigkeit, Frankfurt am Main 2000, S.133-170 (アクセル・ホネット『正義の他者』、法政大学出版局、2005年、145-185頁)

【1】 これまで、あまり深く考えもせずに、ホネットの承認論では、愛と(人権)尊重と業績評価に分類されている、などと解説してきたわけだが、一人の人間に他者として向き合う場合には、この三つを使い分ける、というような話ではすまないはずなのだ。つまり、同一性は等しく尊重し、差異はそれぞれに対して細やかに承認する、ということが求められるのだとして、しかし、両者は両立しないのではないか、という問いが立ってしまう。差別しない人、というのは、差異には鈍感な人なのではないか ― 例えば、そういうことだ。

 出発点には、テイラーの発言がある。尊重しようとすると、承認できなくなる、承認すると、尊重できなくなる、そういう、排中律的関係が成り立ってしまうのではないか。ケアは正義を補うのか、それとも、ケアは正義にとっての「他者」なのではないか。(例えば品川哲彦の本は『正義と境を接するもの』と題されている。)


 尊重・承認・寛容と分類するのはよいとして、テイラーも言うように、尊重が等しく共有されている性質に対する反応であるのに対して ― だから、普遍主義的な行為であると言えるのに対して ― 承認や反応は、異なるものに対する反応であって、方向性が逆である。その上で、承認・寛容という姿勢には、繊細な注意深さというものが前提されるのだ。ただし、異なるものに細やかに、注意深く反応する、というだけでは、その異なるものを肯定的に評価する、ことには直結しない。注意深く観察した上で、否と言い、退ける、ということは十分にありうる。村上春樹の「僕」は、相手の話に辛抱強く耳を傾ける姿勢を備えているが、それに対してどう応じるか、肯定するのか、否定するのかは概して曖昧であり、その曖昧さ、優柔不断さが、結果として肯定と同じことになり、それが「優しさ」と受け止められる、という風であるようにも読めるように感じられる。


 「正義の他者」論文は、何を問うているのか。人を人として等しく尊重するという姿勢と、異なる人をその異なりに応じて異なった仕方で認め遇する姿勢とは、対立するものなのか(従って、両立しないものなのか)、そうではなく、前者に「繊細さ」という能力がつけ加わるならば、後者が前者を補完するという仕方で、後者を包含するような仕方で前者を拡張することが可能になって、両者はめでたく両立するのか、ということが問われているのだ。

 大雑把に言えば、リオタール、ホワイトは、カント、ハーバーマスの普遍主義的倫理によって包含されうる提案をしていると評価されるのに対して、デリダ、レヴィナスは、方向を逆にする倫理を呈示していると解釈される。その場合、ホネットの承認理論は、尊重と愛(ケア)を横並びにするのだから、もはや、カント・ハーバーマスですべてが片づくとは考えていないことにはなるわけだが、しかし、この理論の全体の中で、カント・ハーバーマスとデリダ・レヴィナスはどう両立するのか。後者による前者の微修正という話ではすまないはずなのだが。


【2】 ポストモダニズムは、理性批判として始まった。それは、当初、理論理性に向けられる批判だった。その際、理性とは、統一化・普遍化を志向する能力であると考えられるので、それに対して、美的・感性的(asthetisch)な能力が ― なにしろ、この能力は、カントも言うように、多様性(Mannigfaltigkeit, diversity)に反応することを得意とする能力であるものだから ― ぶつけられる、という議論が繰り広げられもしたのだ。芸術に依拠する科学批判である。そこでは「asthetische Sensibilitat(美的・感性的繊細さ)」ということが、キーワードともなった。

 ところが、ある時点から、批判の矛先が、理性は理性でも、道徳的理性(実践理性)に向けられるように、風向きが変わってきたのだという。その結果、この批判は、政治とも接点を持たずにはすまなくなり、政治的帰結を伴う議論ともなるにいたったのだ。「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」 ― 呼び方がどうであれ、そこで考えられているものが、経験の対象というような抽象的・一般的なものであるよりは、具体的に、人として考えられるようになったのだ、と言ってもよい。それに対応して、求められるものも「moralische Sensibilitat(道徳的繊細さ)」に変わる。

 しかし、この「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」を、そのように、人に関わるもの/人に関わらないもの、と区別することは、それほど容易ではあるまい。異文化、ということを考えるだけでも、その点は明らかだ。異文化とは、道徳や宗教や言語として立ち現れるだろうが、人を通して現れるものでもあろうからだ。そう考えると、アドルノの理性批判も、まずは、前者(美的次元)に発するように思われるものなのだが、もちろん、後者(倫理的次元)への目配りも含まずにはすまなかったはずなのだ。


 形而上学批判、というわけだが、形而上学の何が、どこが具合悪いのか。形而上学は、避けがたく、排除・抑圧の思考にならずにはすまないからだ。ニーチェによる二世界説批判は、もっとも分かりやすい例だ。「あの世」の価値が持ち上げられることを通して、「この世」「いま、ここ」の価値はおとしめ(貶め・落としめ)られずにはすまない。プラトンのイデア論、また然り。「りんごそのもの」の完璧さが称揚されることで、現実に存在するりんごは不良品視されずにはすまなくなる。人間性の称揚についても、同じことが言えるだろう。すると、一人一人が異なる点、特殊性、差異は軽視されずにはすまなくなる。ところが、その差異こそが、「私が私である所以」である、ということがありうるのだ。

 アドルノの「同一性思考」批判は、そのような「普遍主義」批判だった。同じである点を持ち上げ、同じでない点は軽視するような思考への批判。その意味で、アドルノの思考も、形而上学批判の系列に連らなるものである。
しかし、問題は、ここから始まる。その批判は、より包含性の高い、いかなるものも排除も抑圧もしないような普遍主義を追求し続けるのか、それとも、普遍主義と訣別することを求めるのか。「理性的・論理的思考」は、「美的・感性的繊細さ」によって補完されるべきなのか、それとも、両者は、対立関係にあって両立は不可能なのか。アドルノは、(抑圧なき)コミュニケーションについて語ることもあるので、その限りでは、前者の立場を採っていたようにも読めるのだが。

 この問題は、単に認識の問題、経験の問題、芸術経験の問題にはとどまらない。具体的な人としての他者にどう向き合うか、どう関わるか、という倫理的・道徳的な問題とも、関わってくるのだ。美的・感性的細やかさの要請は、倫理的細やかさの要請ともなりうるのだ。


【3】 カントが、『道徳の形而上学の基礎』の中で、定言命法として「人を目的として尊重する」よう要請した時、彼は、ヒューマニズムの基礎づけを試みていたのであって、つまり、そこでは、人を人として処遇すること、もののようには扱わないことこそが眼目であったのだ。そこに、自分とは異なる価値観の持ち主にどう向かい合うか、という問題意識があったとは思えない。

 「異なる価値観」という場合、しかし、その「異なり」とはどのような「異なり」なのか、という問題が直ちに出てこずにはすまない。「ただ違う」だけなのか。それとも、「相手は間違っている」と言わざるをえない、そのような「異なり」なのか。例えば、男と女は違う。しかし、だからといって、男か女が間違っているわけではない。(日本語が、「違う」「間違う」という言葉を持っているのは、なんだか素晴らしい。)肌の色が、黒い・赤い・黄色い・白いことは違いだ。しかし、どの肌の色も間違っているわけではない。(でも、そう感じない感受性があったからこそ、あえてblack is beautiful と言われねばならなかったのだろう。)

 では、地球は丸い、と考えて生きる人と、地球は平たい、と考えて生きる人の違いはどうか。両者は違う考えに基いて生きているわけだが、のみならず、後者は間違った考えに基いて生きていることになる。では、神が存在すると考えて生きる人と、神など存在しないと考えて生きる人ではどうか。両者は違う考えに基いて生きており、のみならず ― 私に言わせれば ― 前者は間違った考えに基いて生きている。

 人間は、各自が、自由に、自らの人生観・価値観を抱き、それを表現する権利を有する存在として、互いに尊重しあうべきである。これが、尊重ということの意味だ。そこでは、ただし、その人生観・価値観の内容は問題にされていない。価値観の内容に立ち入ることなく、その手前で、各自が尊重されるべきだ、というのである。


 さて、そこで、相手の考えやものの見方を面白い、と思えるとする。そこでは、(互いに)相手を認め合うということ、つまりは(相互)承認が起こっていることになる。例えば、安藤広重が好きな人とモンドリアンが好きな人がいて、互いに相手の趣味を面白いと感じ、認め合う、ということは、大いにありうる。ジャズとクラシック、能とオペラ、納豆とエスカルゴ、いずれの場合も同様だ。

 しかし、地球が丸い/平たい、神が存在する/しない、ではどうか。互いに相手を面白いと認め合うことは難しいのではないか。なにしろ、一方は他方を間違っていると考えているのだから。加えて、そこに「啓蒙の歴史」とか「解放の歴史」といった歴史的観点、進歩という見方が入ってくると、両者が互いを面白いと感じることはますます難しくなる。一方にとっては、他方の考えを受け入れることは、「退歩(退行)」を意味することになるからだ。歴史の逆戻り、である。

 では、「男と女は理性・感性の両能力に関して対等である」という考えと、「男は理性に優れ、女は感性に優れている」という考えでは、どうか。両者は、互いに相手を間違っていると考えるだろうから、両立・共存は不可能なのではないか。


 その時、「寛容」という可能性が浮上する。相手は間違っている、と思うのではあるけれども、それを寛い心で受け入れる、大目に見る、という姿勢だ。例えば、地球は丸い/平たい、の違いであれば、外国旅行に出でもしない限り、それは、知識の問題にとどまり、実践的な違いにはつながらないだろうから、寛い心で受け入れ合うことも可能だろう。神が存在する/しない、だって、信仰が、心の内の問題にとどまっている限り、せいぜい祈りという形でしか表現されないのである限り、依然、寛容に対応することが可能だろう。

 しかし、上記の「男と女」の能力に関する見解の違いの場合はどうか。これは、実践的帰結を伴わずにはすまない「違い」だ。すると、もはや「寛容」という(なぁなぁの)姿勢で対処することは不可能だろう。そこでは、何とかして「合意形成」しようとする努力が発動せずにはすまなくなるだろう。


 「差異」というのは、現代社会について考える上でのキーワードの一つである。かつては、「弁証法」という考え方が有力で(50年ほど前のことだ)、そのころは、「差異」とは言われず、「矛盾」と言われた。(毛沢東の『矛盾論』は必読文献だった。)二つのものが対立関係にあるにもかかわらず場を共有している(かに見える)とき、それが「矛盾」であり、矛盾は解消への運動を発動せずにはすまない、というのだ。しかも、その運動は、より高いあり方への運動でありえ、それは「総合」と呼ばれ、そこでは矛盾・対立はより高いレベルでの総合・統一である、と見なされたのだ。(「止揚」とか「揚棄」とかいう奇妙な言葉がひねり出された。)昨今では、「弁証法」は、さっぱり流行らなくなり、「矛盾」という言葉も、論理学はともかく、社会理論の場からは、ほぼ姿を消したといってよい。替わって、キーワードの地位を占めているのが、「差異」である。「矛盾・対立を総合・統一にもたらす」ことではなく、「多様な差異が共存すること」こそが、目標として設定されている。

 しかし、そうすることで、対立は、人畜無害化されている、と言わざるをえないのではないか。差異の中には、面白いと認め合うことはもちろんのこと、間違っているとは思いつつも寛い心で大目に見ることも不可能、というような「差異」が、なんといっても存在するのだ。例えば、イスラム原理主義者にとっては、西洋文明とは、そういう「異なるもの」だろう。西洋文明の側でも、テロを許容するイスラム原理主義は、もはや寛容の対象ではありえまい。寛容の限界を超えてしまっているだろう。かくして、「多様な差異の共存」の理念は、たちまちかき消され、今や「われわれは戦争状態にある」と宣言されるのだ。

 ここでは、「差異に関するロマン主義的な夢想」が罰せられているのだ、と言えるだろう。思い出されるのは、「小さな差異のナルシシズム」という、フロイトの指摘だ。われわれは「小さな差異」によってこそ、ナルシシズムを刺激され、(小さく)異なるものに対して、ライヴァル心や敵愾心をくすぐられる、というのだ。われわれ日本人から見れば、カトリックとプロテスタントの違いなんて、この上なく「小さな差異」にしか見えないではないか。にもかかわらず、この小さな差異は、長く続く「大きな戦争」の引き金になったのだ。キリスト教とユダヤ教の違い、また然り。それどころか、キリスト教とイスラム教だって、私には、兄弟関係のようなものに感じられる。それほどにも「小さな差異」に対してすら、「寛容」の理念は無力さを露呈することがしばしばなのだ。

 もちろん、日本と中国の差異や日本と韓国の差異だって、「小さな差異」の例外ではないはずだ。


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 いかがでしょうか。

 「寛容」が世界的に要請されていることは、現在のISとわが国を含む西側諸国の対立、そしてイスラム教徒全般への排斥、わが国にもあるヘイト・スピーチ等、多次元にわたって認められるところです。

 一昨日20日のTVの日曜討論では、アメリカで否応なく進行する多様化の現実と、同時に進行する不寛容の風潮に複数の識者が言及されていました。
 このブログで先週とりあげた「ダイバーシティー経営は損」という知見も、その「アメリカの不寛容」の文脈で考えたほうがよいような気が、わたしはします。
 
 しかし今回の藤野教授の結論は「寛容の無力」を言っているようにもみえますね…。
 わたしは不謹慎ながら、「愛」と「戦闘状態」の対比を描いたイーストウッド監督の映画「アメリカン・スナイパー」を連想してしまいました。

 藤野先生、このたびもありがとうございました!


 読者の皆様、大切な方と素敵なクリスマスをお過ごしくださいますように。


正田佐与