『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(鎌田東二企画・編、ビイング・ネット・プレス、2015年12月)を読みました。
 西平直、上田紀行、中野民夫ら豪華執筆陣。「『スピリチュアル学』とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう」と「はじめに」(鎌田東二)にあります。

 正田はこの本の第二部「教育と贈与的他者性とわざ」の伝統芸能の中のわざの伝承の項に興味をもって読み始めたのですが、ほかのパートにもわたしの仕事的に重要そうな記述がたくさんありました。―あまり期待しないで読みはじめた本に多くの発見があるというのは、この歳になって心楽しいことであります―

 また、従来「スピリチュアル大嫌い」の方針で来ていますが、この本で扱う範囲の「スピリチュアリティ」は許容範囲だ、ということにいたしましょう。

 当初のお目当てだったパートを最初に、続いて他のパートからも順に抜き書きをさせていただきます。(引用部分太字)

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◆わざの臨床教育学に向けて―「できる」と「できない」をつなぐ身体(奥井遼)

淡路島を本拠とする人形浄瑠璃の一座、淡路人形座を舞台に、わざの伝承における教え手と学び手の身体の変容を考察しています。3人の人形遣いが一体の人形を動かす、新人は「足遣い」から始め20年以上かけて「頭遣い」になっていく世界。

伝統芸能におけるわざの稽古の現場は、「阿吽の呼吸」や「名人芸」など、とかく神秘的な色合いとともに語られることが多い。しかしながら本稿が光を当てるのは、むしろ華々しく表象化された言説の中でかき消されてしまうような、現場において生じている名もない試行錯誤のやり取りである。彼らの経験は、(略)型の習得に挑んで失敗したり、人形の振りを忘れてしまったり、身ぶり手ぶりを駆使してかろうじて会話し合うような、ままならなさに満ちている。こうした等身大のやり取りに着目することで、習慣的な動作を脱してわざを身につけ、一人の人形遣いになっていくという困難で奇跡的な出来事が見えてくる。(p.205)

 ベテランの人形遣いたちはすでにわざを身につけ、舞台に立っています。身につけたわざを自明のうちに駆使し、わざを同じ程度身につけている人形遣い同士の会話は極めて円滑です。
 だが稽古の時間は違う。とくに、新人がはじめての動きを習得するときや、ベテランが未知の振りに挑戦するようなときがそうである。それまでにやったことのない振りに出くわし、当人の身体がついていかないという事態が起こるからである。このとき稽古の場に居合わせた人たちは、「できる」身体に立つか「できない」身体に立つか、乗り越え不可能な差異に直面することになる。(p.207)

―「できる」人と「できない」人の差異。これは当然、研修講師としての正田と初めて受講する受講生様との間にも横たわっています。また受講後の人とそうでない人との間にも。不思議なもので、「承認研修」は恐ろしく単純なものなのにその前後で大きな段差をつくりだします。そのことは過去に本を書く時にも事例セミナーをやる時にも、つねに課題となってきたところです。とにかく「できる」人たちに見える世界がそうでない人のそれとは違いすぎ、話せば話すほどリアリティがなくなってくるのです。それは余談です。


 すでにその振りが身についている人は、身についていない身体には戻れないし、振りが身についていない人は逆に同様である。ここに教え手と学び手とが誕生し、両者が協力しあって「できる」身体を導く共同作業に挑んでいくわけである。ここで彼らの身体は、身ぶり手ぶりを尽くして、もがく。…この、もがいたり手さぐりしたりするような動きこそ、「概念化される以前の生」の躍動のひとつである。(同)

―もがいたり手さぐりしたり。実は、「承認研修」はこのプロセスをある程度自動化してしまっていますが、つまり「こういう論理展開でこれぐらいの体験をしてもらって、講師の話し方はこんな感じで」というさじ加減をレシピのように決めてしまっていますが、際限なく「これで本当にいいんだろうか」と迷いがわきます。
 今後あるかどうかわかりませんが、「承認」講師志望の方が徒弟制で真摯に学びたい、と言ってこられたとき、こうした「もがいたり手さぐりしたり」の場面があるかどうかはわかりません。上記のレシピを何も考えずにコピーしようとする人も出てくるかもしれないが、ちゃんと考えてほしいものだが…。

―たとえば、‘遣い(教え手)は足遣い(学び手)に自分の動作をゆっくり行って合わせてもらおうとしたときに、不意に自分の動作を忘れてしまう。(「分からへんようになってもうた」。)そして(自分の動作でなく)人形自身の動作をやってみることで、自分の動作を取り戻そうとする。
△△襪い蓮言葉での指示に限界があることがわかると、頭遣いは人形の足をつかみ、動作を分節しながらやってみせる(直接的な介入)。
あるいは、足遣い(学び手)の誤った動作を先輩(教え手)がやってみせたうえで、「こうでなく、こう」と正しい動作を教える。足遣いは、それでも自分のどこが失敗した動作なのかわからない。「こうですか」と自分でもやってみせ、それはやはり違うことを指摘されてはじめて教示されていたことの意味がわかる。(いわば「できる」教え手たちと「できない」学び手とのやり取りは、足遣いCによる積極的な探求によって、足遣いCの「できない」を共同的に析出することによって成立した。pp.223-224)

 手本とは、教え手たちの連携のみによって呈示されるものではなく、それを受け取る学び手からの働きかけを得ることによって、すなわち、送り手と受け手が共同的に探り合う中で、はじめて手本として成立されるといえよう。(p.219)

 総じて教え手たちは、正しい振りについて熟知していたとしても、それだけで学び手を導けるわけではない。反対に、学び手にとっても、いかなる仕方で自分の身体を動かせばよいのかを、動かす前から知る術はない。稽古とは、あらかじめ行く先の見えている道をひた走るような活動ではなく、互いの身体を少しずつ変容させ合うような、教えることも学ぶこともそこから「引き出される」ような、「どちらが創始者だというわけでもない共同作業」であって、道を切り開きながら進むような歩みなのである。(p.224)


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 ここで正田の感慨。
 こうした「徒弟制」が、これまで「承認研修講師」の世界では成立しませんでした。学び手の側にそこまでの学ぶモチベーションの持ち主がいませんでした。
 過去に「承認の講師になりたい」と言ってきた人も、「わたしは講師になる人には厳しいですよ。スパナで殴りますよ」「徒弟制ですよ」と言われると、次に会った時からは「いえ、講師にはなりたくありません」とトーンダウンするのでした。彼(女)らは、講師育成の世界も「承認で優しく」教えてもらえる、と思っていたようでした。
 その人たちにとって、「講師になる」というのはクリエイティブな楽しいだけの作業であり、過去に自分が受講して楽しかった研修の中から切り貼りコラージュしてつくるもので、主眼は
「女子力高いチャーミングな私」
「みんなから注目を浴びる中で大事な人生訓のような『決めゼリフ』を言う私」
をやることでした。「私」が大事なのでした。
 そうじゃないでしょ。マネジャーという人生経験もあり責任もあり、また人一倍、傷つけられ経験も裏切られ経験もある人たちに対して自分の言葉を「しみこませる」というのはどれほど大変なことかわかってるの。薄っぺらな研修講師の言葉なんてすぐ見透かされるよ。ロジカルにつながってない話も見抜かれるよ。(心の声)
 ―まあお客様でも、特に直接の購買担当者の人たちは往々にしてそのへんのことわからないで、底の浅い商品ばかりお買い物するのですけどねー。
 そういうレベルの品質の話をできる人にこれまでお会いしたことがなかった。これからは、できるのかもしれない。少数の人と。
 NPOから財団、そして個人事務所へ。「仲間」の数をどんどん減らしてきたのは、精製したい、ということでもあります。随分読書日記と離れたところへきてしまいました。

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 それ以外の本書『スピリチュアリティと教育』で心に残った箇所を抜き書きします。

 学び始めると、これが、奥が深い。「教育」というのは「底なし」だと思わされた。どこまでいっても窮まりというものがない世界。「納得」もない。常に「反省」と「創意工夫」と「練磨」と「試行錯誤」しかない。一種の「修行」のようなものであるとも思った。それは、「真剣勝負」であるには違いない。(「はじめに」鎌田東二、p.4)

「スピリチュアル学」とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう。また大変重要なことであるが、この世界における人間存在の位置と意味についても真剣に問いかける姿勢も保持している。そのような意図や方向性を持ちつつ、心については心理学、体に関しては生理学や神経科学(脳科学)、魂については宗教学や神学といったような、従来の細分化された専門分野に限定されてきた学術研究の枠を取っ払って、こころとからだとたましいと呼ばれてきた領域や現象をホリスティック(全体的)に捉えようとしたのが本シリーズである。(同、p.7)


―次のパートは、いきなりわたしの仕事的に大事なことが出てきました。

 「自我」は大切なのか、それとも「自我」は危険なのか。自我を形成してゆくべきなのか、それとも自我から離れてゆくべきなのか。(略)
 後年、この二つのメッセージが、実は異なる「読み手」に向けられていたことを知った一方は「自我を確立する以前」の人たちに向けて語られたもの、他方は「自我を確立した後の悩みを抱えた」人たちに向けて語られたもの。(「教育とスピリチュアリティ―その関係をいかに語るか」西平直、p.19)

 ここで話を簡単にするために、教育を「自我形成ベクトル」と重ねる。むろん教育の定義としてはこれではまったく不十分なのだが、それでも一般的な意味において、子どもの「自我形成」を援助するベクトルを教育と理解することは許されてもよいだろう。「自我形成・主体形成」の支援としての教育。
 他方、それとは逆方向の「自我から離れてゆく」ベクトルをスピリチュアリティと理解する。むろんこの場合もたくさんの議論が必要なのだが、スピリチュアリティの一側面として「自我から離れる」という要素が含まれていると理解する。(略)
 ところで、この対比に、ライフサイクル(人生)の区分を重ねてみれば、人生前半においては「教育=自我形成」が大切であり、人生後半においては「スピリチュアリティ=自我からの解放」が大切であるという、分かりやすい図が出来上がる。(同、p.23)

教育とスピリチュアリティ


 さて、こうした図式的な理解において、スピリチュアリティとは、いわば、自我や主体の確立がもたらす「弊害」を警告し、その問題を解決しようとする方向性である。自我や主体は大切なのだが、しかし同時に自我は自己中心的になる。自我に縛られる時、人は、自分を中心に他人を利用し、自然を利用し、のみならず、それを当然と考えるようになる。
 そこでスピリチュアリティは「離れてゆく」ことを勧める。自分(自我・主体)を中心にすることから離れる(手放す・中心を明け渡す・letting go)。そして「関係性」を中心とする。自分一人の利益ではなく、自分を含んだ関係性の利益を中心にする。(同、p.25)

―このあたり、長い読者のかたはおわかりになりますね。「例の漢字2文字」の教育が担う領域というものが。それは上の図でいえば右側、「自我から離れてゆく」スピリチュアリティの教育に該当することをします。人生後半に行われることが望ましい教育です。
 たとえば「若手に承認研修を」というご要望に対しては(よくあるんですが)基本、お断りをしています。それはやるとすれば、組織開発で言えば最終段階です。その年代はまだ「主体確立」の教育をやる段階なのです。中年以上の人にこそ必要です。
 逆に、せっかくの機会なのであえてこういうことも書いておきますが、中年以上の人に教育をする場合、実はわが国では特に、若い頃までの「主体確立」ができてないまま中年になっている人も多いので、「承認教育」をやっても混乱が起こる場合があります。なかなか困った課題です。
 わたしが取りあえずそこでやってきたことは、まずは「承認教育」をする際に「もらう側ではなく与える側になりましょう」と念を押すこと。「承認欠乏症」でその歳まできた人が多いわけですから、ともすれば「オレだってもらう側になりたい(欲しい)」が強く出てしまいます。そこをあえて我慢して「与える」側になっていただく。ちょっと気の毒な要求ですが、第一段階ではそうします。
 思い切って「与え手」になると、意外にそれである程度充足が得られます。若手中堅がよい反応をしてくれたことで「自己効力感」が高まります。
 その段階になっていただいてから、徐々に「強み」「価値観」といった、「主体再確立」に向けたプログラムにも馴染んでいただきます。同時並行といいたいですが時間的にはそちらが「後」になりますね。
(なぜ「主体再確立」が「後」になるかというと、簡単に言うとリーダーが「ワガママ」になってもらったら困るからです。自我がぶわーっと拡張した状態の上司を部下は止められないからです。こんな簡単なこともわからずに無造作に「主体確立」系の研修を最初からリーダー研修としてすすめてしまう業者さんが多すぎます。そっちのほうが高揚感があって楽しいんです)
 ともあれ、「承認される前に承認せよ」と、リーダーに対して最初にする要求がかなり「過大」なので、「承認研修」では、「最適条件」というのをかなりうるさく事務局様にお願いします。ほんとは、毎回「決死の覚悟」でお伝えしているので、もっと評価していただきたいなあ、と思うところです。あとになると「簡単なことじゃん」みたいに見えると思いますけれど。
 ああまた読書日記から離れたところへきてしまった。

―このあとの文章では「スピリチュアリティが教育を『包み込む』」という表現も出てきます。それは、わたしがやっているような「関係構築研修」の中に「主体確立研修」を包含するような作業も言うのか、よくわかりません。

―大教室での講義がもたらす心理的作用。

 従来の大教室の講義は、その内容が最初から決まっている。そして教員はその講義内容を以前であれば黒板に板書しながら、現在の理工系の講義の多くではあらかじめ用意されたパワーポイントスライドを映写しながら説明する。大学の講義といえばこういった風景が思い返されるだろう。
 この講義で伝達されている講義内容はその科目ごとの学ぶべき内容なのだが、それがどの科目であるにせよ、ひとつの大きなメタメッセージを学生たちに伝えている。それは「自分がここにいてもいなくても、世界はまったく変化せず、同じように進んでいく」というメタメッセージだ。
 私がここにいる以前に講義の内容は決定されていて、それが粛々と進行していく。自分がこの教室にいても、家で寝ていても、同じように講義は進行していくだろう。自分自身は世界のあり方に何の変化ももたらさない。そういった世界との切断感をこうした講義は知らぬうちに潜在意識に埋め込んでいく。「あなたなんかいてもいなくても同じだ」、こういったメッセージほど魂を傷つけるものはない。(略)しかし私はここにいてもいなくても世界が同じように進行していくのならば、なぜ私はここにいなければならないのかという、存在に対する不安と無力感、疎外感は、私の青年時代よりも現代のほうがむしろ昂進しているとも言え、その中でのこの講義形態はかなり暴力的なものであるとも言える。
 もっともそこで自身の無力感と世界との切断感に気づかせ、そこからの再起を促すというのであれば、非常に教育的な講義形態だとも言えるが、しかし多くの学生はそこまで至らず、単に「自分がいてもいなくても世界は変わらない」という世界からの切断と自身の無力感にとどまってしまうのではないか。さらにそれは後述する「物事には決まった正解があり、それを学ぶのが学問であり、その正解を求めるのが評価される道である」という、極めて非創造的な学問観に容易につながっていく。(「大学全体の教養劇場化を目指して」上田紀行、pp.45-46)


―いかがでしょ。「大教室方式」がつくりだす「いてもいなくても同じ」感。筆者はすごい雄弁に叙述しますがその通りと思います。これも「例の漢字2文字のやつ」とつなげて考えると良さそうですね。
 いらっしゃるんですよね、50人とか100人とかの大人数集めて盛大なかんじの研修をやるのがいいことだ、と思っている方が。しかし「承認研修」はそれは馴染みません。「承認されてない」感覚満載のなかで「承認」を学ぶという、ねじれ現象になります。結果、大多数の人の「学び逃し」を作り、貴重な機会を逸してしまうもとになります。こういうのはもう技術の世界のセオリーなどと一緒で、厳密に決まっているものです。

―上田氏によるリベラルアーツ教育の「4つのC」。
1.コミュニケーション:伝える力。
2.クリエーション:哲学書(それ以外の書も?)を読んで「自分はどのように成長していくのか」「自分を深めていくのか」「未来をどういうふうに切り開いていくのか」「どのように世の中をよりよきものにしていくのか」を考える創造性をもつこと。
3.コミットメント:「関わる力」。評論家のようにただ言っているだけではダメ。
4.ケア:学生自身が、自分の周囲にいる人がよりよく生きていくことをサポートする能力。(同、pp.52-54)


―気づきの教育について。
 ここは過去にマインドフルネスについて書いた記事とかなり重なりますが、大事なことなので引用しておきましょう。

 ホリスティック教育のなかでは、スピリチュアリティにかかわる取り組みとして観想的実践に大きな比重が置かれている。しかし、それは観想教育でしばしば強調されるような、身心の健康増進のためのスキル学習というものに留まらず、むしろ人間のホリスティックなあり方を実現するための主要な実践として位置づけられる。
 日常生活において人間の行動は、そのほとんどが習慣的なものであり、とくに注意や気づきを要することなく自動的に生じる。そのさい意識はいわば半覚醒状態にあり、ほとんどたえず思考活動に同一化しており、ときおり感情や目立った身体感覚が生じたときには、それらに同一化しやすい。そのような状態では、思考や感情や感覚への無自覚的同一化と、それらに対するパターン化された反応としての断片的行動が継起している。これに対し、観想的な気づきの実践は、非難や評価をまじえず、自分のなかに生じる感覚、感情、思考に注意を向け、それらを細かく観察していく訓練である。このような自己観察は、自己を構成するものを明晰に識別して詳しく知ることに役立つ。そして気づきのなかでは、感覚、感情、思考の個別現象から脱同一化することができ、それらに無自覚に支配されることが少なくなる。観想的実践で重要なのは、気づきの意識を十分に確立し、気づきへのセンタリングが起こるということである。
 クリシュナムルティやオルダス・ハクスレーは、このような意味での気づきの教育を提唱していた。クリシュナムルティは、人間の精神が社会や伝統や宗教によって条件づけられることによって、恐怖、葛藤、苦しみ、悲しみ、暴力などが生じることを分析し、既知のものによる条件づけから抜けだす道として「無選択の気づき」や「全的な注意」を強調した。気づきを高めることによって、人間は自分の条件づけを知りそこから脱同一化し、自由で創造的で、真に英知のある存在になることができる。気づきのなかで精神の思考活動が静まると、現にそこにあるものの直接経験が生まれる。言語的思考による分節化が静まるため、境界意識は消え去り、周囲の世界に直接ふれてひとつになることができる。クリシュナムルティが「教育とは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿を眺め、それらとともに感じ、本当にじかに、それらにふれることでもある」と述べたとき意味していたのは、そのような高められた気づきのことである。(「ホリスティック教育とスピリチュアリティ」中川吉晴、pp.113-114)


―最近は「グーグルの社内教育」としてマインドフルネス研修が隆盛のようですね。これはけっして批判ではないのですが、わたし自身は過去何回か「瞑想」にチャレンジして挫折しました。研修の中ではできますが日常ではなかなか…。(ADHD気味なのだとおもいます)そういうドロップアウト群がかなり出ると思う、ひょっとしたら過半数ぐらい。「承認研修」だと、丁寧にやればそんなにドロップアウトが出ない。かつ、日常動作であるだけに、上記のような「気づき」の効用が得られる。まだだれもそうした効果を検証してくれないんですけどね。

―ベルクソンによる「閉じた道徳」と「開いた道徳」。
(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』1932年による。「愛と自由の道徳教育」矢野智治、pp.155-157)

 うーん、感動的な文章だけど引用するのをやめよう。「閉じた道徳」よりも「開いた道徳」というもののほうが、素晴らしい模範的人物への熱中により、喜びに満ちていて超個体的な自由への欲望、絶対的な正義への欲望、…などありとあらゆる良いものを希求すると述べています。カリスマ志向というのはないんですね。あたしも家元だけど平凡な人間ですし。
 ここだけ引用しよう。「愛」について言っているところです。

 …このとき「開いた道徳」を特徴づける情動とは「愛」である。この愛は私たちが通常使用している男女の性愛の愛とも、また家族の愛や、祖国への愛とも異なる。このような愛は結局のところ、他の人々とのあいだに境界線を生みだしてしまう閉じた愛であるのに対して、「開いた道徳」を特徴づける愛は、反対にその境界線自体を溶かしてしまうものである。だからこそ先の引用に見られたように、「愛の人」の行いに私たちは引き込まれ共鳴し感動することになる。(同、p.158)


 「愛」の概念。「ホネットの承認3定義」(1)愛(2)人権尊重(3)業績評価―に関して、この定義自体はすごく良いものですが、ここでいう「愛」とすこしちがう「愛」もあるよなあ、と思ったりします。それは「承認」がカバーする範囲ではない、と言われそうですが、ホネットが、「愛」を異性愛と家族愛というところにかなり限定して使っているのにたいして、マネジャー教育をしているともうすこし範囲の広い「愛」がたしかにある気がするのです。
 実際に「承認教育」を受けて使い手になった人たちは、PTAの役員になったり地域や業界団体の仕事を引き受けたり、自分の家族や会社部署の枠組みを超えて責任を引き受けるようになるというのもよく見ます。

―ブーバーの実践。「対話」の奥にあるものは。

 まず、生徒と結ぶべき関係を一言で言えば、「対話的関係」に他ならない。ブーバーにおいて対話的関係とは、独特の深い意味で、呼びかけや問いかけに、応答することであった。子どもが呼びかけるとき、たえず十分に心を集中して耳を傾け、そのときの自分に応えうるかぎり精一杯に応答すること。それが大人の応答的な責任であり、そういった応答の交換が、「対話」の本質である。
 呼びかけに応答する対話が大切なのは、その言葉で伝えられる内容もさることながら、それが他者の存在を肯定し、かけがえのない存在として、ありのままの存在として、存在することを承認するからである。人は自分を、自分自身によってのみでは、自分が存在することの意味を確かめ証すことができない。なんらかの自己を越えるものからの「確証(承認)」によってのみ、自己を肯定することができる。(「教育的日常の中のスピリチュアリティ」吉田敦彦、p.192)


―「対話」というものも「傾聴」というものも根底は「例の漢字2文字」ですね。対話ブームというのも数年来ありましたし、昨年から今年初め、妙に「傾聴研修」がトレンドでした。メンタルヘルスチェック義務化にともなって「メンヘル対策の決定打!」とされたのかもしれません。本来こういうことは「あれか、これか」と選ぶことでもないんですが、そこでは「承認なき傾聴」というものが往々にして行われ、それは「仏作って魂入れず」のきわめて不完全で気持ち悪いものだったのです。わたしなどの感性からすれば。

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 ふー、なんとか今回はワード9ページで終わりました。
 やっぱりあたしの仕事の本筋ですからね、ええ。といっても「承認研修」の構成は別に変らないと思いますが、「なんで、こういうことをこういう形でやってるのか」をつねに新しい言葉で説明することは必要ですね。自分でもすぐ忘れちゃいますからね。


正田佐与