一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の最終講義まで2回分の講義原稿(1月18・25日分)をいただきました。

 「承認論」においてヘーゲルの正統的な継承者とみられる現代ドイツの思想家、ホネットが「社会主義」をどう捉えているか。マルクスがヘーゲルから継承したものは何か、を含め、大きな思想史の流れの中で注目したいところです。

 わたしの理解能力を超えているかもしれませんが、こうして最新の論考をこのブログに掲載させていただけるのは、とても光栄なことです。

 いよいよ、あと2回となりました、藤野教授のご厚意に感謝し、掲載させていただきます。



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「承認論」講義(12)                                            18.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015,S.11-119.

【1】 この年末年始、私は、ホネットの『社会主義の理念』と、ウエルベックの『服従』(と『地図と領土』)を読んで過ごした。結果として、フランスのことを考えながら過ごすことになった。かたや、1789年のフランスが掲げた理念を考察の起点に据えており、他方は、もちろん、2022年のフランスが舞台になっている。一方が、フランス近代の始まりに関わるとすれば、後者はその「崩壊」に関わる。そして、どちらも面白かった。

 自由・平等・博愛という理念についても、再考する余地はいっぱいあるわけだ。まず、博愛という概念の意味をもう少し、限定し、確定する必要があるだろう。ドイツ語では bruderlich と訳されるようだが、これでは、わかったようで少しもわからない。連帯の同義なのか。

 最大の問題は、この三つを並べたのはよいが、三者が容易には両立(三立?)しないだろう、という点だ。特に、自由が自由競争のそれとしてのみ捉えられるなら、それは結果として巨大な格差=不平等を生み出さずにはすまないだろう。(世界でもっとも自由な国USA(?)は、世界でもっとも巨大な格差のある国だろう。)そして、実際、昨今のネオリベラリズム批判は、もっぱら、自由が格差を生み出すという論点を突いて行われているのではないか。

 この批判は、しかし、偏っていることがホネットを読むとわかる。つまり、彼は、むしろ「博愛」にこそ注目し、ネオリベラリズムは博愛を ― 平等ではなく ― 不可能にしている、という点をこそ、批判するのだ。社会性とは博愛である、として、それは、助け合い、協力(協同)の精神とでも呼ぶべきものなのだろうが、ホネットは、平等な社会、というよりは、博愛を実現する社会をこそ、実現しようとするのだ。

 人間の社会生活について考える場合、「競争」をきちんと主題化することは不可欠だ。ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正しているしかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。

「われわれは資本主義社会に生きている、だから、そこでは、最大の社会問題とは、労働者の貧困だ」 ― これは、とてもシンプルな主張だ。しかし、その後、環境問題や、資源問題も出てきた。加えて、社会=資本主義社会、という等式は成り立たない。従って、社会的な問題といっても、労働者の貧困という問題に還元しつくされはしないのだ。

 ネオリベラリズム、ということを強く意識した仕事を、ホネットもやっている、ということなのだろう。そのためのコンセプトが、「社会的自由」という概念だ。これをぶつけることで、ネオリベラリズムの自由概念が、いかに狭められた自由概念 ― 自由競争の意味での個人主義的自由概念 ― でしかないかを明らかにしようとしているわけだ。その際、アイザイア・バーリンの提出した論点は素通りされてはなるまい。「消極的自由」だけでは、狭すぎる。かといって、しかし、「積極的自由」は、やばい。「消極的自由」と「積極的自由」は、どちらを選ぶか、という風に論じることのできる二項対立ではないのだ。

「自由」というのは、個人主義的な価値であって、「博愛」というのは、社会(主義)的な価値だ。社会主義は、その意味で、はなから自由の制限、という志向を含んでいる。そう考えると、ホネットの仕事は、一貫している。前著で「自由」という理念を吟味検討し、その上で、今回、社会主義の再検討に取り掛かったのだろう。前著を読んでいないので、推測にとどまるのではあるが。


【2】 この本では、「社会的」ということがテーマになっており、その際、連帯とか友愛という姿勢が問題になっている。しかし、そこでは一面識もない人でも、境遇がもっとも悲惨な人のことを心にかけるというような姿勢が問題になっているのだから、それは「承認」の問題とは言いがたい。相互承認ということと、社会的思いやり(Anteilnahme)とは同じではない。つまり、「社会的」という問題の全体が承認論でカヴァーされるわけではないということだ。自分の面識のある人にしか関わらない連帯というのは、本当のことろで「社会的」とは形容されえないということか。

「社会的」とは、どういうことか。これを、博愛ということとただちに等置することは、すでに、意味の一元化を招来してしまうだろう。エゴイズムということだって、人間の社会性の一面をなす、とは言えるはずだから。つまり、ショーペンハウアーの「ヤマアラシの比喩」が表現する両面性の全体が、「社会性」ということの内実をなす、と理解すべきではないか。(もちろん、つながろうとする面だけを、社会性と考えるなら、それも「あり」ではあろうが。)

 さて、社会主義思想の全体的傾向として、人間のエゴイズムを私的所有の問題と結びつけ、その制限というか、克服というか、そのことで「社会性」の実現が果たされる、というような傾向があったのだろう。しかし、人間の「社会性」というのは、貧困に直面しての助け合い(相互扶助)というようなことに限られる問題ではないはずなのだ。例えば、他者の他性、というような問題。これは、食べるものにもこと欠いて困っている人に直面すれば助けの手を差し伸べずにはいられない、というような問題とは次元を異にするが、しかし、それはそれで「社会性」の問題である、と考えねばならないのではないか。

 ちなみに、そう思って考えてみると、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』における四つの義務の例、そこに、他者の他性の承認、というような問題意識が少しでも含まれているか。

1. 自己に対する完全義務:自殺すべからず
2. 自己に対する不完全義務:自己の能力を伸ばすべし
3. 他者に対する完全義務:守るつもりのない約束をすべからず(嘘をつくべからず)
4. 他者に対する不完全義務:困っている人を見たら助けるべし

 この中で、「自己に対する義務」が他者の他性の尊重というようなこととそもそも何の関係もないことは、言うまでもない。「他者に対する義務」の中には、もちろん、「他者」は出てくるが、しかし、それは、同じ人間同士の倫理である、と言わざるをえない。社会主義が問題になるとすれば、それは、4の例だけか。

 そう思って考えるとき、カントの尊重は、人として尊重することであるわけだから、他者の他性の尊重、ということとは別問題なのではないか、という気すらしてくる。(レヴィナスが他者について語るとき、カントの尊重の倫理に対しては、どういうスタンスを取っていたのか。そこには、そもそも他者は不在だ、とか言って、切り捨てているのか。しかし、絶対の他者、とか言ってしまうと、まるで、宇宙人のような存在になってしまわないか。それでも人間である、と言えなくなってしまわないか。絶対の他者でありつつ同じ人間、という風に考えるのでなければならないはずだ。)

 とにかく、人が人と共に生きてゆく、ということを可能にするためには、私有財産さえ否定されれば一件落着、というような単純な話ではおよそないのだ。政治的=民主的な合意形成、という問題も出てくるし、さらに、社会的な問題(承認の問題)だって、出てくるのだ。


【3】 なるほど、ホネットは、ホルクハイマー/アドルノを、その社会理論が経済主義に陥り、その名前に反して「社会的なもの」を軽視・排除している、と批判したわけだが、その批判は、実は、近代の社会主義の全体にあてはまるのだ。それというのも、近代の社会主義は、その総体において、資本主義批判の理論として練り上げられた、という出生の事情があるからだ。そして、経済理論であろうとしたからこそ、社会主義は「空想より科学へ」などと自称することもできたのである。社会理論を経済理論に還元しようとする傾向は根強い。「承認か、再分配か」という問題提起における「再分配派」も、この例に漏れない。


【4】 デューイの歴史理論において注目されるのは、生産力でもなく、労働者の階級意識(とそれに発する闘争)でもない。コミュニケーションを妨げる障害の撤去だ。その意味でも、ホネットの歴史理論は、コミュニケーション理論である、ということができる。ただし、その際に、コミュニケーションということの意味を、まさに「承認をめぐる闘争」と捉えるのである。単に、合意形成の骨折り、というように、ではなく。


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 いかがでしょうか。

 以下は、正田流我田引水的解説です。


【1】ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正している。しかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。


 このフレーズ好きですね。年頭からこのブログで批判している某「学力本」は、結局アメリカのネオリベラリズム(リバタリアン?)思想を計量経済学の手法を「つぎはぎに」使って肯定し教育に持ち込むことを政策化しようとする本だと考えてよいわけですが、それは相対的なものだ、とホネットは言うようです。

 簡単に言うと、社会主義的悪平等だと優秀な生産性の高い人はやる気を失ってしまう。だから優秀な人に「あなたは優秀だね」「生産性が高いね」と言い、賃金でも相応に報いる、というのは「その人の承認欲求を正当に満たす」という点で正しい。
 ただし、そのロジック一本槍でどこまでもそれを推し進めるのは間違いだ。ほかの軸、「愛」「人権尊重」も等分にみなければならない。
 



【2】 「人として尊重」VS「他者の他性の尊重」という言葉が出てきます。

 このブログを読み慣れている方であれば、後者の言葉を「個体差・個別性の尊重」と読み替えていただけるかもしれないですね。

 実は、ここはわたしは藤野教授に同意し、某経済学の大家に異を唱えるところになるかもしれないのですけれども、(お前どっちやねん)カントが最終解だとは、わたしには思えないのです。どうも、わたし的には、カントは人間というものを一律のものとみなしていたように思えるのです。個体差を捨象した人間というものを前提としてルールを設定していた気がするのです。

 ―それは通用する人としない人がいますよ。

 と、某心理学セミナーで「吠えた」ときのような言葉が出てきてしまいます。


 これはホネットの承認の3定義でいうと、(2)人権尊重と(3)業績評価 のあいだの葛藤、というところになるかもしれないですけれども。最近読んだ漫画『ヘルプマン』でやはり、介護の現場での「高齢者を一律に運転から排除してよいか」というエピソードが出て来たので個人的に琴線に触れました、はい。

 「承認社会」とは、(2)人権尊重を前提としつついかに(3)業績評価=個体差の尊重 に寄り添い軸を動かせるか、その微妙なバランスをつねに模索し続けて思考停止を許されない、というものかもしれないです。


 
 藤野先生、このたびもありがとうございました!

 ホネットがみた社会主義、『社会主義の理念』についての論考は次回(次の記事)に続き、そこでホネット承認論講義シリーズは終了となります。



正田佐与