一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授よりいただいた、「ホネット承認論」最終講義の講義原稿(1月25日分)です。
前回に引き続きホネットの新しい著作『社会主義の理念』をひもときながら、ホネットが社会主義をどうみているかを解説していただきます。
ここでは「社会的自由」とはどういうものか、が問われます。
また、ハーバーマスも論じた「コミュニケーション」というものの意義も…。(わたし的には非常に自らの生き方を勇気づけられたフレーズでした)
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「承認論」講義(13) 25.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む (2)
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015, S.11-166.
【1】 本書でホネットは、社会主義を、フランス革命 ― ロシア革命ではなく ― このかたの歴史過程の中に位置づける。「自由・平等・博愛」というフランス革命が掲げた理念が議論の出発点に置かれるのだ。これは、理念である。(事実ではない。)これから実現されるべき理念であって、「絵に画いた餅」と言えなくもないが、しかし、1789年に人々によって受け入れられ、人々を動かした、という点で、経験内容をなす。経験的事実の中に食い込んだ、と言ってもよいだろう。(ここで、人々とは誰のことか、という問いは残る。フランス革命を今日まで認めていない人々だっているだろう。しかし、フランスという国(共和国)は、この革命の上に建てられているのであり、これを建国の理念としているのだ。)そして、これは、フランスに限られた話ではなく、この理念の実現をめざすことが、ヨーロッパ近代全体の傾向となっている、と言って誤りでないのではないか。規範は、人々によって受け入れられたとき、事実となる。「規範的事実」とでも呼ぼうか。
何が言いたいのか。社会主義は、フランス革命の理念の実現のプロジェクトと受け止めるなら、単なる空想ではなく、言うなれば、事実によって下支えされている、ということだ。
【2】 この「自由・平等・博愛」という三つの理念は、横並びにして一気に口にされるのを常とする。つまり、この三つは、どの一つをとっても、ないがしろにされてはならない、ということだが、しかし、そこに問題がないわけではない。この三つは、必ずしも、互いに友好関係にあるわけではない、という問題だ。ほおっておいても、三者が手に手を取り合って仲良く実現されてゆく、というような関係にはない。互いに矛盾し、対立関係にはいる、ということだって少しも珍しくない。
現実には、どう進展したか。結局、このうちの自由だけが追求の対象になってきたのではないか。その際、自由とは、自由競争の自由であって、個人が競争に参加する自由だった。(社会主義者からは、そういう自由は、従来、「ブルジョア個人主義」とか呼ばれ、否定的扱いを受けてきたのだろう。)そして、平等という点が考慮されずに自由競争が繰り広がられると、必然的に、自由は、一部の人間だけの自由となる。つまり、競争で負けた大部分の人々の不自由が帰結する。もちろん、そこで「不自由」と言われる場合の「自由」とは、「競争に参加する自由」という ― 狭い意味での ― 自由ではもはやないかもしれない。もう少し中身の詰まった「積極的な自由」だ。例えば、自己実現の自由、とか。
もし、ヘーゲルが、「人間の歴史とは自由の実現のプロセスだ」と発言した際に、単に、自由競争に参加する自由を考えていたのであれば、そこでは、フランス革命の理念のうち、平等・博愛は閑却していたことになり、ヘーゲルは、革命の理念に対する裏切り者である、という話になるだろう。しかし、実際には、ヘーゲルの自由理念はもっとふくらみのあるものだったのだろう。つまりは、あとの二つの理念とも両立するような、それらをも含意するような自由だったのだろう。一言でいえば、「社会的自由」。そういう自由の実現をめざすという仕方で、ヘーゲルに続く、「左派」と呼ばれる人たちも、社会主義というものを思想・信条としていったのに違いない。
「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。
【3】 「社会的」とはどういうことか、という問いに対する回答案は、本書に示されている。三つの理念のうちでもとりわけ「博愛」と密接に関係する言葉として解釈するという仕方で。つまり、互いに助け合い、補い合う、というような姿勢だ。「社会的」とは、ただ単に、複数の人々によって構成されている、という(事実確認的な)意味では、もちろんない。その複数の人々が互いに競争しあっている、というだけでなく、他者を自らの目標達成のための手段として利用しようと虎視眈々と狙っているという、(カントが目の敵としたような)関係でもない。本書もおしまいに近づくと、自由・平等・連帯と三つ並べる言い方が連発されるのだが、そのように人々が連帯関係にあるような社会の実現こそがめざされている。その意味でこそ、「sozialな社会」とか、「社会をより sozial にする」というような一見奇妙な表現も、十分成り立ちうることになる。
(「社会を社会的にする」というのは、いかにも奇妙な言葉遣いだ。なにしろ、社会は事実として社会なのだから、それをことさら社会的にする必要などあろうはずがないではないか。しかし、世の中はこの種の言葉遣いで溢れかえっている。子供は子供らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、家族は家族らしく、国家は国家らしく(あるべし)、という具合だ。りんごはりんごらしく、という話になっても、少しもおかしくない。映画は映画的であるべきだ、という話もあった。ことほど左様に、名詞が一つあれば、その名詞らしくあるべし、名詞「的」であるべし、という要請が立てられる。これは、本質主義的な考え方である、と言うことができる。つまり、何かあるものがあると、その本質が想定され、本質からの逸脱との区別がなされ、本質があるべき姿として要請され、本質からの逸脱は叱りつけられるのだ。その際、本質なるものが、常に、「作り出される」ものであることは、ほとんど自明だろう。この区別は、恣意的だ、ということだ。つまり、本質とは、本質と「される」ものなのだ。本質主義とは構成主義だ、と言ってもよい。「社会/社会的」の例からも見てとれるように、この本質主義的思考なるものは、われわれが言葉を使って考えコミュニケーションする限り、避けられないものなのではないか。人間の思考は、本質主義的となることを免れることはできないのだ、と言ってもよい。それを避けたければ、言葉を使うことをやめて、数字だけで考えコミュニケーションするしかあるまい。実際、2について「2らしくあれ(2的であれ)」という規範的要請を立てることは、ナンセンスだろう。)
ネオリベラリズムが批判される際に光があてられるのは、通例、一面的な自由の追求は不平等を、格差を生み出す、という論点だろう。しかし、ホネットは、自由追求の一面的暴走が ― 平等よりもむしろ ― 博愛(連帯)を不可能にしている、という点をこそ撃つ。ホネットは、人々が平等に生きられる社会、というよりは、連帯の関係の中で自由を実現していくような社会をこそ希求している。彼のリベラリズム批判は、そういう、博愛主義・社会主義からなされるリベラリズム批判であるわけだ。
【4】 本書は、大きくいって、三部構成になっている。まず、もともとの社会主義の理念がいかなるものであったのか、それが、フランス革命の理念にいかに深く結びつくものであったのか、が明らかにされ、次に、その理念実現の試みが、しかし、19世紀の社会状況によっていかに歪められていったのか、が跡づけられ(従って、これは、歴史の再構成の作業となる)、そして第三に、ではどうやって、再度やり直せるのか、の提案がなされる。
ここまで1−4に書いてきたことは、主に、第一の論点だったわけだが、その上で、第二の論点、つまり批判的な議論が展開されずにはすまない。そして、その批判は、当然、主要にはマルクス主義を標的として展開されることになる。
【5】 マルクス主義が犯した過ちは、三点に要約される。第一に、経済還元主義であり、第二に、単一的な革命主体(プロレタリア階級)の想定であり、第三に、歴史の客観的進歩という科学主義(あるいは、形而上学)的信仰である。もちろん、この三者は、互いに関連し合っている。生産力の発展と労働者階級の階級意識の高まりが歴史の進歩の原動力となる、それを担保する、という風に。そして、とりわけ、このうちの第一の生産力主義が、マルクス主義に「科学」の装いを与え、これは科学だ、との僭称を引き起こす。『空想より科学へ』というエンゲルスの宣言は、大惨事だった、と言わねばならない。本当は、「空想でもなく、科学でもなく」とこそ宣せられねばならなかったのではないか。(そして、現在の経済学は、科学としての経済学というこの信仰を、エンゲルスと共有しているのではないか。)
【6】 その上で、マルクス主義が犯した過ちを一点に集約するならば、解放へのポテンシャルを、経済の領域にのみ見出そうとする経済還元主義に陥っていた点にある、と言うべきなのだろう。それに対して、ホネットがぶつける代案は、「個々の社会領域の機能分化」という考えに基くものだ。近代においては社会の諸領域が ― もちろん、互いに関連し合いながらではあるのだが ― 政治/家族/経済というそれぞれの領域へと独立し、独自の発展を遂げる。(宗教が困るのは、この機能分化の傾向に真っ向から対立する点だ。)そして、そのいずれの内にあっても、解放のポテンシャルは ― 民主主義であれ、女性解放であれ、フェアな業績評価であれ ― 現実化の方向を取っている、と見なされるのである。(マルクス主義は、とにかく、経済の、生産の、労働の領域に世の中を根本的に変えるための可能性を限定せずには気がすまなかった ― 「下部構造」というのが、その際のおまじない言葉だった ― ために、それ以外の領域での変化・変革・発展・進歩には怖ろしく鈍感だったのだ。あるいは、あえて、目をつむっていたのか。)
【7】 ここで、政治・家族・経済(民主主義・女性解放・フェアな業績評価)と並べられることと、ホネットの承認論の間に対応関係があることは、一目瞭然だろう。それは当然であって、ホネットは「社会的なもの」をコミュニケーション関係として、ただし、それを ― 単に、合意形成の骨折り、としてではなく ― 「承認をめぐる闘争」として、考えているのだから、「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられるのは、論理的必然なのだ。
【8】 今まで社会主義者であった人たちは、この本の中に自らの社会主義などほとんど再発見できないだろう、とホネットは皮肉っぽく語っている(163)。自分を社会主義者だと思ったことなどこれまで一度もない私には、この本はとても面白かった。この本を読んで、私は、社会主義の「シンパ(Sympathisant)」になった。
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いかがでしょうか。
わたしはこれまでも「自由」という言葉のつかいかたにナーバスで、めったにこのブログでも使っていません。昨年2月頃から「ヘーゲル・ホネット承認論」のはじまりにおいてヘーゲルによる「自由」という言葉が独特の使われ方をしていることにも大分くるしんだほうです。
「自由」は主に「博愛」との間の葛藤を生むのだ。
また、
「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。
こうした言葉は、わたしには素直に心に響きます。
ところで、ドイツ語では「博愛」と「連帯」は同じ単語なのでしょうか…個人的には、あまり同じもののようなイメージが持てないのは「連帯」が旧ポーランドの自主管理労働組合の名前と結びついているせいか!?(別に悪いイメージではないのですが;;)そういうイメージの紐づけがない世代の方は、割合「連帯」って抵抗なく使われるかもしれないですね。
【7】の、
「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域(政治・家族・経済=民主主義・女性解放・業績評価)におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられる
このフレーズもいいですね。だからわたしは「コミュニケーションの研修講師」をやっているのだな、と確認できました(*^-^*)
藤野先生、ありがとうございました!
一橋大学での講義としては終了、しかし「ホネット承認論」自体はまだまだ続きます。。
藤野教授は今年新たに「ホネット承認論」についての論考集を刊行されると伺っていますので、そちらを楽しみにいたしましょう。
正田佐与
前回に引き続きホネットの新しい著作『社会主義の理念』をひもときながら、ホネットが社会主義をどうみているかを解説していただきます。
ここでは「社会的自由」とはどういうものか、が問われます。
また、ハーバーマスも論じた「コミュニケーション」というものの意義も…。(わたし的には非常に自らの生き方を勇気づけられたフレーズでした)
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「承認論」講義(13) 25.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む (2)
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015, S.11-166.
【1】 本書でホネットは、社会主義を、フランス革命 ― ロシア革命ではなく ― このかたの歴史過程の中に位置づける。「自由・平等・博愛」というフランス革命が掲げた理念が議論の出発点に置かれるのだ。これは、理念である。(事実ではない。)これから実現されるべき理念であって、「絵に画いた餅」と言えなくもないが、しかし、1789年に人々によって受け入れられ、人々を動かした、という点で、経験内容をなす。経験的事実の中に食い込んだ、と言ってもよいだろう。(ここで、人々とは誰のことか、という問いは残る。フランス革命を今日まで認めていない人々だっているだろう。しかし、フランスという国(共和国)は、この革命の上に建てられているのであり、これを建国の理念としているのだ。)そして、これは、フランスに限られた話ではなく、この理念の実現をめざすことが、ヨーロッパ近代全体の傾向となっている、と言って誤りでないのではないか。規範は、人々によって受け入れられたとき、事実となる。「規範的事実」とでも呼ぼうか。
何が言いたいのか。社会主義は、フランス革命の理念の実現のプロジェクトと受け止めるなら、単なる空想ではなく、言うなれば、事実によって下支えされている、ということだ。
【2】 この「自由・平等・博愛」という三つの理念は、横並びにして一気に口にされるのを常とする。つまり、この三つは、どの一つをとっても、ないがしろにされてはならない、ということだが、しかし、そこに問題がないわけではない。この三つは、必ずしも、互いに友好関係にあるわけではない、という問題だ。ほおっておいても、三者が手に手を取り合って仲良く実現されてゆく、というような関係にはない。互いに矛盾し、対立関係にはいる、ということだって少しも珍しくない。
現実には、どう進展したか。結局、このうちの自由だけが追求の対象になってきたのではないか。その際、自由とは、自由競争の自由であって、個人が競争に参加する自由だった。(社会主義者からは、そういう自由は、従来、「ブルジョア個人主義」とか呼ばれ、否定的扱いを受けてきたのだろう。)そして、平等という点が考慮されずに自由競争が繰り広がられると、必然的に、自由は、一部の人間だけの自由となる。つまり、競争で負けた大部分の人々の不自由が帰結する。もちろん、そこで「不自由」と言われる場合の「自由」とは、「競争に参加する自由」という ― 狭い意味での ― 自由ではもはやないかもしれない。もう少し中身の詰まった「積極的な自由」だ。例えば、自己実現の自由、とか。
もし、ヘーゲルが、「人間の歴史とは自由の実現のプロセスだ」と発言した際に、単に、自由競争に参加する自由を考えていたのであれば、そこでは、フランス革命の理念のうち、平等・博愛は閑却していたことになり、ヘーゲルは、革命の理念に対する裏切り者である、という話になるだろう。しかし、実際には、ヘーゲルの自由理念はもっとふくらみのあるものだったのだろう。つまりは、あとの二つの理念とも両立するような、それらをも含意するような自由だったのだろう。一言でいえば、「社会的自由」。そういう自由の実現をめざすという仕方で、ヘーゲルに続く、「左派」と呼ばれる人たちも、社会主義というものを思想・信条としていったのに違いない。
「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。
【3】 「社会的」とはどういうことか、という問いに対する回答案は、本書に示されている。三つの理念のうちでもとりわけ「博愛」と密接に関係する言葉として解釈するという仕方で。つまり、互いに助け合い、補い合う、というような姿勢だ。「社会的」とは、ただ単に、複数の人々によって構成されている、という(事実確認的な)意味では、もちろんない。その複数の人々が互いに競争しあっている、というだけでなく、他者を自らの目標達成のための手段として利用しようと虎視眈々と狙っているという、(カントが目の敵としたような)関係でもない。本書もおしまいに近づくと、自由・平等・連帯と三つ並べる言い方が連発されるのだが、そのように人々が連帯関係にあるような社会の実現こそがめざされている。その意味でこそ、「sozialな社会」とか、「社会をより sozial にする」というような一見奇妙な表現も、十分成り立ちうることになる。
(「社会を社会的にする」というのは、いかにも奇妙な言葉遣いだ。なにしろ、社会は事実として社会なのだから、それをことさら社会的にする必要などあろうはずがないではないか。しかし、世の中はこの種の言葉遣いで溢れかえっている。子供は子供らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、家族は家族らしく、国家は国家らしく(あるべし)、という具合だ。りんごはりんごらしく、という話になっても、少しもおかしくない。映画は映画的であるべきだ、という話もあった。ことほど左様に、名詞が一つあれば、その名詞らしくあるべし、名詞「的」であるべし、という要請が立てられる。これは、本質主義的な考え方である、と言うことができる。つまり、何かあるものがあると、その本質が想定され、本質からの逸脱との区別がなされ、本質があるべき姿として要請され、本質からの逸脱は叱りつけられるのだ。その際、本質なるものが、常に、「作り出される」ものであることは、ほとんど自明だろう。この区別は、恣意的だ、ということだ。つまり、本質とは、本質と「される」ものなのだ。本質主義とは構成主義だ、と言ってもよい。「社会/社会的」の例からも見てとれるように、この本質主義的思考なるものは、われわれが言葉を使って考えコミュニケーションする限り、避けられないものなのではないか。人間の思考は、本質主義的となることを免れることはできないのだ、と言ってもよい。それを避けたければ、言葉を使うことをやめて、数字だけで考えコミュニケーションするしかあるまい。実際、2について「2らしくあれ(2的であれ)」という規範的要請を立てることは、ナンセンスだろう。)
ネオリベラリズムが批判される際に光があてられるのは、通例、一面的な自由の追求は不平等を、格差を生み出す、という論点だろう。しかし、ホネットは、自由追求の一面的暴走が ― 平等よりもむしろ ― 博愛(連帯)を不可能にしている、という点をこそ撃つ。ホネットは、人々が平等に生きられる社会、というよりは、連帯の関係の中で自由を実現していくような社会をこそ希求している。彼のリベラリズム批判は、そういう、博愛主義・社会主義からなされるリベラリズム批判であるわけだ。
【4】 本書は、大きくいって、三部構成になっている。まず、もともとの社会主義の理念がいかなるものであったのか、それが、フランス革命の理念にいかに深く結びつくものであったのか、が明らかにされ、次に、その理念実現の試みが、しかし、19世紀の社会状況によっていかに歪められていったのか、が跡づけられ(従って、これは、歴史の再構成の作業となる)、そして第三に、ではどうやって、再度やり直せるのか、の提案がなされる。
ここまで1−4に書いてきたことは、主に、第一の論点だったわけだが、その上で、第二の論点、つまり批判的な議論が展開されずにはすまない。そして、その批判は、当然、主要にはマルクス主義を標的として展開されることになる。
【5】 マルクス主義が犯した過ちは、三点に要約される。第一に、経済還元主義であり、第二に、単一的な革命主体(プロレタリア階級)の想定であり、第三に、歴史の客観的進歩という科学主義(あるいは、形而上学)的信仰である。もちろん、この三者は、互いに関連し合っている。生産力の発展と労働者階級の階級意識の高まりが歴史の進歩の原動力となる、それを担保する、という風に。そして、とりわけ、このうちの第一の生産力主義が、マルクス主義に「科学」の装いを与え、これは科学だ、との僭称を引き起こす。『空想より科学へ』というエンゲルスの宣言は、大惨事だった、と言わねばならない。本当は、「空想でもなく、科学でもなく」とこそ宣せられねばならなかったのではないか。(そして、現在の経済学は、科学としての経済学というこの信仰を、エンゲルスと共有しているのではないか。)
【6】 その上で、マルクス主義が犯した過ちを一点に集約するならば、解放へのポテンシャルを、経済の領域にのみ見出そうとする経済還元主義に陥っていた点にある、と言うべきなのだろう。それに対して、ホネットがぶつける代案は、「個々の社会領域の機能分化」という考えに基くものだ。近代においては社会の諸領域が ― もちろん、互いに関連し合いながらではあるのだが ― 政治/家族/経済というそれぞれの領域へと独立し、独自の発展を遂げる。(宗教が困るのは、この機能分化の傾向に真っ向から対立する点だ。)そして、そのいずれの内にあっても、解放のポテンシャルは ― 民主主義であれ、女性解放であれ、フェアな業績評価であれ ― 現実化の方向を取っている、と見なされるのである。(マルクス主義は、とにかく、経済の、生産の、労働の領域に世の中を根本的に変えるための可能性を限定せずには気がすまなかった ― 「下部構造」というのが、その際のおまじない言葉だった ― ために、それ以外の領域での変化・変革・発展・進歩には怖ろしく鈍感だったのだ。あるいは、あえて、目をつむっていたのか。)
【7】 ここで、政治・家族・経済(民主主義・女性解放・フェアな業績評価)と並べられることと、ホネットの承認論の間に対応関係があることは、一目瞭然だろう。それは当然であって、ホネットは「社会的なもの」をコミュニケーション関係として、ただし、それを ― 単に、合意形成の骨折り、としてではなく ― 「承認をめぐる闘争」として、考えているのだから、「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられるのは、論理的必然なのだ。
【8】 今まで社会主義者であった人たちは、この本の中に自らの社会主義などほとんど再発見できないだろう、とホネットは皮肉っぽく語っている(163)。自分を社会主義者だと思ったことなどこれまで一度もない私には、この本はとても面白かった。この本を読んで、私は、社会主義の「シンパ(Sympathisant)」になった。
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いかがでしょうか。
わたしはこれまでも「自由」という言葉のつかいかたにナーバスで、めったにこのブログでも使っていません。昨年2月頃から「ヘーゲル・ホネット承認論」のはじまりにおいてヘーゲルによる「自由」という言葉が独特の使われ方をしていることにも大分くるしんだほうです。
「自由」は主に「博愛」との間の葛藤を生むのだ。
また、
「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。
こうした言葉は、わたしには素直に心に響きます。
ところで、ドイツ語では「博愛」と「連帯」は同じ単語なのでしょうか…個人的には、あまり同じもののようなイメージが持てないのは「連帯」が旧ポーランドの自主管理労働組合の名前と結びついているせいか!?(別に悪いイメージではないのですが;;)そういうイメージの紐づけがない世代の方は、割合「連帯」って抵抗なく使われるかもしれないですね。
【7】の、
「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域(政治・家族・経済=民主主義・女性解放・業績評価)におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられる
このフレーズもいいですね。だからわたしは「コミュニケーションの研修講師」をやっているのだな、と確認できました(*^-^*)
藤野先生、ありがとうございました!
一橋大学での講義としては終了、しかし「ホネット承認論」自体はまだまだ続きます。。
藤野教授は今年新たに「ホネット承認論」についての論考集を刊行されると伺っていますので、そちらを楽しみにいたしましょう。
正田佐与
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