『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)という本を読みました。

 このところわたしが好んで使っている「エウダイモニア(幸福)」という語の起源、それが『二コマコス倫理学』。
 しかし、実はこの原典が難解で、過去に読んでも挫折していました。こういう場合にはなりふり構わず入門書から入るわたしです。
 この『ニコマコス倫理学』は、いまどきのポジティブ心理学や幸福学、徳倫理学などでも論拠としてよく引かれますから、押さえておいて損はないですよ。
 実際、読んでいると「強み」「価値観」など、わたしなどが日常的に使うツールの意義づけにつながるような言葉がちょこちょこ出てきます。またなんと「行動承認」の理論的根拠これでいこうか、というところも出てきました。


※なお、こういう詳細な読書日記のブログアップの仕方が著作権法違反に当たらないのか?厳密にいうと、当たる可能性があります。ただ、有り難いことにこれまでのところは問題になっていません。
 これまで、読書日記をアップしたときに著者自身からお礼のコメントをブログに直接いただいたことが3回ありました。『ポスト資本主義』の広井良典教授(千葉大から京大に移られました)からは、当日夜に丁寧なお礼のメールをいただきました。
 また『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』の藤野寛教授(一橋大学)には、あまりにも「捨てる」ところがなく丸写しのような読書日記になってしまったので、後日「著作権上問題のあるレベルなのではないかと思いますが」と自分から申告したところ、藤野教授が「自分ではわからない」とわざわざ出版社に連絡をとっていただき、すると編集者から「嬉しい反響ですね!」というリアクションがあった、というような話もありました。
 …まあ、なまじそういう著者さん方の心優しいリアクションの経験をしてきたものだから、著作権というものを甘く見てしまっていたきらいがあります。
 今後も、万一読書日記について著者・出版社から削除依頼等がありましたら、真摯にご対応したいと思います。

 今回も、とくに第一章の「エウダイモニア」の定義に関しては、「捨てる」ところが少なく、丸写しに近い読書日記になってしまいます。お叱りを受けないことを祈ります。

 そして第二章、本書の約半分のp.80まで読書日記をつけ終わったところですでにワード18pになったので、読書日記を前後編とします。太字・色字は正田です

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 まえがき

●「人生、いかに生きることが最善の生か」。アリストテレスはこのように尋ね、この「最善の生」を、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という言葉で捉えている。それゆえ、『ニコマコス倫理学』の主題は「幸福(エウダイモニア)とは何か」を明らかにすることであると言える。(pp.i-ii)


第一章 幸福(エウダイモニア)とは何か
 この章は、やはり「捨てるところが少ない」章です。ほとんど丸写しになるかもしれません。著者様、ごめんなさい。

●「まえがき」で紹介したように、アリストテレスは「いかに生きることが最善の生か」という問いを追求するが、この「最善の生」を第一巻第四章で、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という語で捉えている。それゆえ、「幸福とは何か」を明らかにし、人びとに「幸福に至る道」を示すことが、『ニコマコス倫理学』の主題である。(p.35)

●アリストテレスはこの主題に取り組む二つの方法を明らかにしている。まず、第一巻第六章で、プラトンの超越的な「善のイデア」をはっきりと退け、「エンドクサ」、つまり、人びとが抱いている定評ある見解の吟味を通して「幸福」の探求を行うことを宣言する。また続く第七章では、人間の「エルゴン(機能)」の解明を通して「幸福」を求めていくことを明らかにしている。(pp.35-36)

●アリストテレスは第一巻の巻頭で、「すべての行為はアガトン(善、善きもの)を目指している」(第一巻第一章、1094a1−2)と主張し、『ニコマコス倫理学』が何よりも「アガトン(善)」の研究であることを宣言している。
 しかし、ここで素朴な疑問が生じてくるかもしれない。はたして人間の行為はすべて「善」を目指していると言えるだろうか。われわれは日ごろ、「悪い」と知りつつタバコを吸っているのではないだろうか。だが、アリストテレスの視点から言えば、喫煙者は健康よりもともかくタバコを吸いたいのであり、喫煙は彼にとって善い行為なのである。このように、アリストテレスは「善」を道徳的な意味ではなく、「欲している」、「利益になる」という意味で用いており、この素朴な地平から道徳の問題を考えていこうとする。
 これは、「誰も悪を欲する者はいない」(『メノン』78A)と主張し、「すべての者は善を欲している」と考えるソクラテスの態度でもあった。しかしもちろん、善と思ったことが悪であり、また善を欲しながらも意志の弱さのゆえに生じてくる、やっかいで重要な問題が存在する。ただ、この問題については第四章「徳とアクラシア」において検討することにして、先に進むことにしよう。(p.37)

―いきなり予想外の定義が出てきました。「善」って「欲求」のことだったの!?
ここでは「タバコ」の例を出していますが、もちろんわたしたちは「欲求」が非常に多くのばあい、わるさをするものだということを知っています。依存症にもなるものだと知っています。でもまあ、この定義に従えばソクラテスが「すべての者は善を欲している」というのも納得は納得でありますが。それも何だかトートロジーのようにもきこえますが。モヤモヤを抱えて第四章(この読書日記では後編)を楽しみにいたしましょう。

●第一巻第一章から第四章で、アリストテレスは、人間は「善きもの」を目指して行為するが、人間が求める「善きもの」には階層(ヒエラルキー)があると語っている。それは次のようにまとめられる。
,泙此現に為している行為が、それを超える別の目的のために為されるといった場合が挙げられる。たとえば、畑を耕すのは種を蒔くためであり、種を蒔くのは小麦を収穫するためである。
他方それに対して、別の行為の手段ではなく、その行為自身が目的であるような行為が存在する。テニスをする、酒を飲む、音楽を聴く、古典を読む、隣人を助ける、といった行為は一応そのようなタイプの行為である。「なぜテニスをするのか」と問われ、「楽しみのために」と答えるとしても、その答えは「テニスをする」ことから独立の行為を述べているわけではない。ただ、通常は、その行為自身が目的であるタイプの行為であっても、ある場合には、他のものの手段として為されることがある。たとえば、肥満を解消するためにテニスをするなどの場合である。
しかし以上とは別に、このような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるとアリストテレスは述べている(第一巻第四章、1095a18−19)。(pp.37-38)

●ギリシア語の「エウダイモニア(eudaimonia)」は、日本語では「幸福」と訳され、今日それが定着している。この「幸福」は明治以降、「倫理学」、「道徳」、「功利主義」といった翻訳語とともによく使われるようになった言葉であり、辞書を引くと、「心が満ち足りていること、仕合せ、幸い、幸運」という説明が載っている。ただ、日本語の「幸福」とギリシア語の「エウダイモニア」は、当然、まったく同義というわけではない。「心が満ち足りていることが幸福である」と日本語の辞書が説明するように、「幸福」という言葉は人びとが感じる感情を表すのに使用される。他方、ギリシア語の「エウダイモニア」は人びとが感じる感情というより、人びとが目指す「最高善」を表す表現であり、目指すものが「最高善」でないならば、「エウダイモニア」とは言いがたい。(p.39)

●そこで、日本語の「幸福」に「最高善」といった厳めしい意味を与えることには抵抗を感じる人びともいるかもしれない。しかし、日本語の「幸福」にもたしかに「最も善きもの」という意味が含まれており、われわれは「お金や地位がなくとも、幸福でありたい」と言うが、「幸福でなくとも、お金や地位が欲しい」とは言わないように思われる。(同)

――ちょっとわかってきた気分になりました。「善」と「最高善」と、ランクが違うわけですね。「善」は「欲求」「快楽」レベルのことを言うけれど、「最高善」はもっといいものだ、と。

●「最高善」と「幸福」とを結びつけるとアリストテレスの思想はソクラテスやプラトンの見解を受け継ぎながら、西洋倫理思想の大きな流れを形成しており、たとえば、「最大多数の最大幸福」を主張する功利主義思想をそのうちに位置づけることができる。他方それに対して、カント倫理学も「最高善」を求めるが、この「最高善」を「幸福」ではなく、「義務」、「正義」と結びつけており、この「義務の倫理学」も西洋倫理思想を代表する思想であると言える。(p.40)

●ここで、アリストテレスの「エウダイモニア(幸福)」の概念を考える場合、重要な二つの特性を取り上げておくことにしよう。
 第一は、ギリシア語の名詞「エウダイモニア」は「エウダイモネイン(eudaimonein)」という動詞形をもち、「よく為している(eu prattein)」、「よく生きる(eu zēn)」というかたちで行為や活動に基づいているという点である。これは、日本語の「幸福」や英語の”happy”にはない構造であり、『ニコマコス倫理学』を読む場合、最も重要な特性である。すなわち、「エウダイモニア」は「善き営み」、「善き行為」において実現するのであり、「状態」ではなく、「活動」である(第一巻第八章、1098b33-1099a3)。序章で紹介した術語を使えば、「エウダイモニア」は「デュナミス(可能態)」ではなく、「エネルゲイア(現実態)」である。(pp.40-41)

――「エウダイモニア」は「行為」と不可分の考え方なんですね。行動承認の究極目的としてのエウダイモニア、という図式を考えていたので嬉しくなってしまいました。

●ところで、明治以来わが国で親しまれてきた、「山のあなたの空遠く、<幸い>住むと人のいふ」という句で始まるカール・ブッセの詩があるが、この詩では、「幸福(幸い)」を人間が生涯を通して求めていく、「山のあなたの空遠く」にある事態として把握している。アリストテレスもソロンの言葉を引用し、死を迎えるまでは、人は幸福であったかどうかを言うことはできないと述べている(第一巻第10章、1100a10−)。このように、第二の特性として、「エウダイモニア」というギリシア語表現は「まっとうした人生」(第一巻第八章、1098a18)に対して適用されるのが基本的な用法である。(p.41)

●それでは、「まっとうした人生」に対して適用される「エウダイモニア」と「よく為している」、「よく生きる」というかたちで具体的な行為や活動と結びつく「エウダイモニア」はどのように関係するのだろうか。これは見解が分かれる難解で重要な問題である。
 私の理解では、上で指摘したように、「エウダイモニア」とはまず直面する具体的状況において「よく為すこと(eu prattein)」「のよく生きること(eu zēn)」である。そして徳を備えた人はそのようによく生きているのであり、そのような生涯を生きる人が「エウダイモニアな人」「幸福な人生」である。この点はすぐ後で主題になってくる「徳」の概念についても言えることであり、「勇気ある行為」、「正しい行為」とは具体的状況における行為であるが、それは「徳ある人」の概念を通して解明されることになる。(pp.41-42)

●アリストテレスは、ギリシア社会において伝統的に捉えられてきた「幸福」の三種類のかたちを紹介している。
,泙座臀阿蝋福を快楽だと考え、「享楽の生活(ho apolaustikos bios)」を愛好する(第一巻第五章、1095b17)。
他方、「政治的生活(ho politicos bios)」を目指す者は「幸福とは名誉である」と考える(第一巻第五章、1095b22-29)。
B荵阿法⊃人の探究、すなわち「観想活動の生(ho theōrētikos bios)」(第一巻第五章、1095b19)こそが「幸福」であると考える人びとが存在する。
 この区別はプラトンの『国家』第四巻で論じられている三種類の階層、すなわち、大衆階層、補助者(戦士)階層、支配者階層に対応している。またこのプラトンの見解はさらにピュタゴラス(前570頃)に遡ると見られている。(pp.42-43)

●ピュタゴラスの思想についてはローマ時代のキケロ(前106〜前43)がそれを伝えている。「フィロソフォス(愛知者、哲学者)とは何か」と聞かれて、ピュタゴラスはオリンピアの大祭に集まって来る人びとを三種類に分ける譬えを使って説明している。第一は人びとに飲み物や食べ物を売って「お金」を得ようとする人、第二は競技に参加して「栄誉」を得ようとする人、第三は競技をただ「観よう」とする観客である。人生においても、商業活動を通してお金を得ようとする人びと、政治活動を通して名誉を得ようとする人びと、そしてオリンピアの大祭の観客の場合と違って、数は非常に少ないが、ものごとの本質(rerum natura)を熱心に観ようとする人びとがおり、この最後の「観(テオリア)の立場」に立つ人が哲学者(愛知者)であるとピュタゴラスは語っている。(p.43)

●ピュタゴラス、プラトン、アリストテレスは最も優れた生き方を「観の立場」に立つことであると捉える点において共通している。(同)

●他方、「快楽」と「名誉」に関しては、アリストテレスはここで独自の見解を示している。
(1)まず「享楽の生活」について、アリストテレスは、それは一般大衆の選ぶ生活であり、大衆は「家畜のような生活を選び取り、まったく(欲望の)奴隷のように見える」(第一巻第五章、1095b20)と語り、「享楽の生」を「幸福な生」から除外している。
 しかし他方、「幸福」、「徳」を規定する場合には、「快楽」の重要性を強調しており、第七巻、第10巻では、彼自身の快楽論を展開している。それは行為の「よろこび」と結びつく、志向的、能動的な快楽論であり、「快楽」を受動的な感覚体験として捉える19世紀の功利主義の見解とは異なり、「快楽・よろこび」についての深い洞察を示している。
(2)また、「政治的生活」に携わる人びとは名誉を人生の目的だと考えるが、その場合、彼らは「名誉は徳に基づく」という見解を取っており、したがって、ソクラテスと同様、「節制」や「勇気」といった「徳」が「幸福」であると考えていることになる。
 それに対してアリストテレスは、徳をもっていても「最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることがあること」を指摘し(第一巻第五章、1095b32-1096a1)、「徳」は「幸福」と同一視できないことを主張する。彼の考えでは、「徳」は「幸福」と同一視することはできないが、「幸福」成立の不可欠の条件である(第一巻第七章、第八章)。この前提のもとに、第二巻から第九巻まで、「性格の徳(倫理的な徳)とは何か」を追求している。
(3)他方それに対して、アリストテレスは「観想活動」を「最も神的な魂の活動」と捉えており、「観想活動こそが最高善(幸福)である」と考えている。(pp.42-45)

――「享楽の生」は幸福な生ではないのだそうです。ワイドショーみている日本の大半の人はそれでしょうかネ・・

●このように、古代ギリシア人たちが抱いてきた「幸福」について、アリストテレスは「実践」と「観想」とを区別する立場から、ソクラテスやプラトンとは異なる独自の見解を示している。すなわち、市民生活における「実践活動」の「徳」と、「観想活動」の「徳」、この魂の二つの活動を通して最高善としての「幸福」に至る道を示していると言える。(略)この「観想活動」と「実践活動」の関係をどう捉えるかは『ニコマコス倫理学』全体の思想をどう把握するかという重要な問題であり、第六章「観想と実践」でくわしく検討することにしたい。(p.45)

●第一巻第七章の議論。
 まず、「幸福=最高善」とは、他のさまざまな行為が、それを目指す「究極的な(teleion)目的」であることが示されている。
 「幸福」の究極性(teleiotēs)は次のように規定されている。
 
 なぜなら、われわれは幸福をつねにそれ自体のゆえに選び、他のもののゆえに選ぶことはないからである。他方、名誉、快楽、知性、そしてすべての徳に関しては、それらをわれわれはそれ自体のゆえに選ぶとともに、……それらを通じて幸福を獲得できるだろうと考えて、幸福のためにそれらを選ぶのである。逆に、それらのために幸福を選ぶというような人はだれもいないし、他のもののゆえに幸福が選ばれる、といったことはありえない。(第一巻第七章、1097a34-b5)

 この行為選択の究極性(終極性)ということが「幸福=最高善」の基本的な意味である。(p.46)

●しかし同時に、「幸福」は「究極的」であるゆえに、「自足性(autarkeia)」という特性を具えている
 この「幸福」の「自足性」は次のように規定されている。

 自足的なものを、われわれはそれだけで生活を望ましいもの、まったく欠けるところのないものにするようなものと規定する。……また、幸福はすべてのもののうちで最も望ましいものであることによって、(他のものによって)加算されえないものであるとわれわれは考えている。加算されうるとすれば、(他の)善いものが僅かでもくわえられれば、いっそう望ましいものになるのは明らかだからである。(第一巻第七章、1097b14-18)

 ここでは、「加算されえないもの(mē sunarithmoumenēn)という概念を用いて、「幸福」の「自足性」を説明している。「加算されうるもの」とは部分的な善であって、功利主義が主張するような量的に規定できるものである。しかし、アリストテレスは「幸福+他の何か」といったものが「幸福」よりも優先することは不可能であると主張し、「幸福の自足性」を説明している。(p.47)

●「幸福=最高善」の概念が含む「究極性」と「自足性」に対応して、アリストテレスの「幸福」の概念をどのように捉えるべきかという議論があり、従来、「幸福」を「支配的目的(dominant end)」と解釈するか、それとも「包括的目的(inclusive end)」と解釈するか、について論争がなされてきている。
 
●幸福を「支配的目的」とする解釈は古くから主張されてきた。「支配的目的」とは「さまざまな優れた活動をそのうちに含む生き方を特徴づけるもののうち、特定の支配的な活動を目的とする」という意味である。具体的に言えば、「幸福」とは「最も神的な魂の活動」としての「観想活動」であるという把握である。(略)
 それゆえ、「支配的解釈」は、われわれの行為は「目的―手段」の階層を形成しており、その究極の目的が「観想活動」としての「幸福」であるという見解である。だがその場合、「観想活動」と「実践活動」の間にはたして「目的―手段」の関係があるかどうかが大きな問題である。(pp.48-49)

●他方、「幸福」の「包括的目的」とは、「さまざまな優れた活動や事物をそのうちに含む生き方全体を目的とする」という意味であり、「幸福」とは、「それ自身のために追求されるすべての善」(テニスをする、音楽を鑑賞する、隣人を助ける、その他、徳に基づく諸々の活動)を含むものだ、ということになる。「幸福」を包括的目的と解する「包括的解釈」の重要な根拠となるのは先に紹介した「幸福」の「自足性」の規定である。すなわち、「幸福」の概念には、そこに何ら「加算する必要はない」という意味が含まれている、という把握である。(p.49)

●アリストテレスは第一巻第七章の後半(1097b22-)では、「人間の固有の機能(エルゴン)とは何か」という問いを通して「最高善=幸福」の問題を考察している。(p.50)

●“ここで望まれているのは、幸福が何であるかをより明確にすることである。おそらくこうした明確化は、人間の「エルゴン(機能)」が把握されるならば達成されるだろう。なぜなら、笛吹きや彫刻家などすべての技術者にとって、また何であれ、一般に何か特定の機能と行為が属しているものにとって、「善」すなわち「よく」ということがそうした機能に認められると考えられるように、人間にとってもまた、もし何か人間としての機能というものがあるとすれば、同じようにそれに「善」すなわち「よく」を考えることができるからである。”(第一巻第七章、1097b23-28)(p.51)

――エルゴンという新しい概念が出てきました。これは「強み」の概念と似ていないかな?とアンテナがたつわたしです

●「笛吹き」、「大工」、「靴職人」といった言葉は社会におけるその役割、機能を表す言葉であり、そのような役割・機能を立派に果たす人は「善き笛吹き」であり、「善き大工」である。また身体の部分である「眼」、「手」、「心臓」、「腎臓」といった器官にも、固有の機能があり、その能力と働きが存在している。
 では、社会における職業や役割、あるいは人間の個々の器官がそれぞれ固有の機能をもつように、「人間」や「狼」といった存在者もその固有の機能をもっていると言うことができるだろうか。もしもっているとすれば、「人間として善き人」、「善き人間」とはどのような者であるかが規定され、そこから「幸福な人間」とはどのような人間であるかが明らかになろう。アリストテレスは「人間」や「狼」といった自然種にも固有の機能(エルゴン)が存在すると考えており、「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」と呼ばれる説明を行っている。(p.52)

●アリストテレスは、「人間に固有な機能としてのロゴス(理性、分別)の働き」を、次のように取り出してくる。

 生きていることは植物にも共通することが明らかである。しかし、われわれが求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、栄養的生や成長にかかわる生は除外されねばならない。次に来るのは感覚的な生ということになるが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通の生である。すると残るのは、人間において「ロゴス(理性)」をそなえている部分によるある種の行為的生ということになる。(第一巻第七章、1097b33-1098a4)

 このように、「人間固有な機能(エルゴン)」は魂(プシュケー)の「ロゴス(理性)」を有する「部分による行為的生」、すなわち「ロゴスに即した(meta logou)魂の活動」ということになる。(pp.52-53)

●続いて、アリストテレスは「人間の機能がロゴス(理性)に即した(meta logou)魂の活動である」ということから、「幸福とは徳(卓越性)に基づく(kata aretēn)魂の理性的活動である」ということを導いていく。
たとえば、「竪琴奏者」の機能と「すぐれた(卓越した)竪琴奏者」の機能はその種類において同じである。そして、一般に「x」の機能と「すぐれた(卓越した)x」の機能が種類において同じだとすれば、「ロゴスに即した魂の活動」という表現に関しても同様のことが言える。
すなわち、卓越した(徳ある)人の「ロゴスに即した魂の活動」は卓越していない(徳のない)人の「ロゴスに即した魂の活動」よりもみごとな仕方でその活動を果たすことになる。それゆえ、「人間としての幸福とは徳に基づく(kata aretēn)ロゴスに即した(meta logou)魂の活動である」ということになる。
以上が私の解釈であり、私は「徳に基づく」と「ロゴスに即した」を区別して考えている。他方、「普遍主義的解釈」としては、「幸福」という概念は「ロゴス(理性)」を通して「普遍的に」規定されると解釈する。私は本書において一貫してこれに反対し、「幸福」、「徳」の概念についての「内在主義的、個別主義的解釈」を取っている。(pp.53-54)

――このあたりわたし流に総合すると、機能(エルゴン≒強み)を発揮しながら良い仕事をすることを幸福と言っているようであり、著者は「幸福は強みを発揮することにある」と言っているようにもとれます


●以上から、アリストテレスは「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」を次のように締めくくる。
 “もし徳が複数あるならば、人間としての善(幸福)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動であるということになる。しかし、その活動には、「まっとうした人生において」という条件がさらにつけ加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春を告げるのでもなければ、一好日が春をもたらすのでもないからである。同様に、一日や短い時間で、人は至福にも幸福にもならないのである。(第一巻第七章、1098a17-20)(p.55)

●この引用の最初の文章については研究者の解釈が分かれているが、しかし、私は「エルゴン・アーギュメント」を通して導かれる「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という命題は、「実践活動」の徳のみならず「観想活動」の徳も含んでいると解釈する。それゆえ、「もし徳が複数あるならば、幸福(最高善)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動である」という文章における「徳」についても、「実践活動」の徳と「観想活動」の徳を含んでいると解釈する。(p.56)

●また、アリストテレスは「まっとうした人生において」という条件を付けている。幸福とは状態ではなく、活動である。しかし、ある時点で「幸福である」というのは充分ではない。「正しい行為」とは「その状況において、徳を備えた人が行うような行為」であり、そのような行為を為して徳ある人として生涯を生きる人が「幸福な人である」と言えるのである。(同)

●ソクラテスにとっては、「徳」と「幸福」は同一であり、徳を備えた人はいかなる状況においても不幸にはなりえない。プラトンが『クリトン』や『パイドン』で見事に描いているように、ソクラテスはこのことを身をもって実証したといえる。
 それに対してアリストテレスは、「徳」と「幸福」は同一だとは考えない。神ならぬ人間は有限者であり、身体をもつ存在である。したがって、徳をもっていても最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることが生じてくる。アリストテレスはソクラテスとは異なり、そのような人びとが幸福であるとは考えていない。その意味で、アリストテレスの「幸福」観は多くの人びとの見解と一致していると言える。(pp.56-57)

●アリストテレスは「徳」と「幸福」を同一視しないが、しかし、「徳に基づく魂の活動」が「幸福」であるための不可欠の条件であると考えている。彼は、第七章で「人間のエルゴン」の考察を通して導出した「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という見解が「エンドクサ」、つまり人びとが抱いている定評ある見解と一致することを、続く第八章で示そうとする。(第一巻第八章、1098b20-23)(p.57)

●また、最高善としての「幸福」が「状態(ヘクシス)」ではなく「活動(エネルゲイア)」であることの理由を、次のように語っている。

 “なぜなら、「状態」は人に現にそなわっていても、たとえば眠っている人や、他の別の仕方でまったく不活発な人のように、まったく善をなし遂げないということがあり得るが、しかし、「活動」にはそうしたことがありえないからである。すなわち、徳に基づく活動は、必然的に何かを為し、しかもそれをよく為すはずだからである。(第一巻第八章、1098b33-1099a3)(pp.57-58)

――ここも、「行動承認」という概念を補強するものとして記憶しておきたい一節です。欲張りな言い方をするなら、去年からヘーゲル―ホネット/ハーバーマスのラインのドイツ哲学を根拠として「承認」を論じてきましたが、そこでは大きな「承認」という概念はあるものの残念ながら「行動承認」の根拠は得られなかったのです。しかし、ヘーゲルが言ってくれなくてもホネットが言ってくれなくても、アリストテレスが「行動承認」を担保してくれてるじゃないか、という見方もできるわけです。
まあ陽明学もありますけどね―。

●以上のように、「魂」の卓越性である「徳に基づく活動」が「幸福」の不可欠の条件である。否、私の理解では、「幸福」とは具体的な文脈における特定の徳に基づく魂の理性的活動そのものである。同時に、この幸福が成立するには、「魂」のみならず「健康」その他の身体の状態によって左右され、また社会生活のためにはある程度の富が必要であり、さらに家族や友人も必要である。われわれはそのような条件の下で、徳に基づく魂の活動を発揮しているのであり、それが人間の幸福であると言えよう。(pp.58-59)

●“(幸福な行為の)多くが、友人や富や政治権力を道具のように用いることによって行われる。また、欠けていると幸福を曇らせるようなものもある。たとえば、生まれの善さや子宝に恵まれること、容姿の美しさなどがそうである。容姿があまりにも醜かったり、生まれが賤しかったり、また孤独であったり、子どもがいなかったりすれば、人は幸福になりにくいのである。また子どもや友人がいてもその者たちが劣悪だとしたら、あるいは彼らが善い人物だとしても死んでしまうとしたなら、おそらく人は幸福になれないのである(第一巻第八章、1099a33-b6)。(p.59)


第二章 人はどのようにして徳ある人へ成長するか

●「徳」の考察にあたって、あらかじめ、使用するいくつかの基本的な用語の意味について述べておこう。まず、人間の魂が「ロゴスをもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けられる。ここで、「ロゴス(logos)」の訳として、「ことば」、「ことわり」、「理性」、「分別」、「道理」、「規則」等々が考えられるが、日本語の「理性」「分別」は普通、心的能力を意味し、他方、「道理」「規則」は心的能力によって捉えられる側の事態を表す。そこで、文脈によって、「理性(ロゴス)」、「道理(ロゴス)」といった表記を使うことにしよう。
 この「理性(ロゴス)をもつ部分」と「理性(ロゴス)をもたない部分」は明確な二元論的な区別ではない点に大きな特徴がある。アリストテレスは、「理性(ロゴス)をもたない部分」のうち「欲求的な部分」を栄養摂取のような植物的な部分とは区別して、父親の言葉に従うように「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」として捉えている(第一巻第十三章、1103a3)。また「欲求(情念)」と「理性(ロゴス)」はわれわれの成長とともに展開していき、「欲求(情念)」には「理性(ロゴス)」の働きが浸透していくと捉えられている。この点はアリストテレスの「徳倫理学」を考える場合、重要である。
 この魂の区別に応じて、「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」の徳は「エーティーケー・アレテー(ēthikē aretē)」と呼ばれ、他方、「本来の意味で理性(ロゴス)をもつ部分」の徳は「ディアノエーティーケー・アレテー(dianoēthikē aretē)」として区別される。「エーティーケー・アレテ―」は「倫理的な徳」とも訳されるが、「エーティーケー(倫理)」の基になっているのは「エートス(性格、人柄)」、つまり、「勇気がある」、「温厚である」、「臆病である」、「親切である」といった特性であり、本書では「エーティーケー・アレテー」を「性格の徳」と訳すことにする。また「ディアノエーティーケー・アレテー」の具体例は「学問的知識」、「技術」、「思慮」、「知性」等であり、ここでは「思考の徳」と訳すことにしよう。(pp.61-63)

――「性格の徳」。現代のポジティブ心理学に通じそうな言葉が出てきました。また子育て、教育の世界で最近喧しい「非認知的スキル」「性格の強み」にも通じそうですね。

●古代ギリシアにおいて、人びとは「徳は生得的なものか、それともしつけや訓練を通して備わるものか、それとも教室での教育を通して身につくようになるのか」と尋ねてきた。ソクラテスは「徳が何であるかを知らないうちは、徳が教えられるかどうか、知りえない」と答え、まず何よりも、「徳とは何か」を知る必要があることを強調する。(p.64)

●このソクラテスの理性主義に対して、アリストテレスははっきりと異なる道をとっている。アリストテレスはソクラテスのような仕方で「徳とは何か」を尋ね、その定義を求めるのではなく、逆に「徳がどのようにして習得されるか」を問題にすることを通して「徳とは何か」に答えようとする。(略)ただ、アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。(第十巻第九章、1179b24-26)(同)

●また実践的知識を理論的知識から区別するアリストテレスにとって、肝心なのは「徳とは何か」を知ることではなく、「徳ある(善き)人」になることであり(第二巻第二章、1103b27-28)、この徳ある人へ向けての成長にとって、まず「正しい感受性」を習得することが重要になってくる。(pp.64-65)

●第二巻第一章では、「性格の徳がどのようにして形成されていくか」に関する基本的論点が示されている。

 “「性格の徳」は習慣から形成されるのであり、「性格の(エーティーケーēthikē)」という呼び名もこの「習慣(エトスethos)」から少し語形変化してつくられたのである。
 それゆえ、明らかにまた、「性格の徳」はいずれも自然によってわれわれにそなわるものではない。というのは、自然によって存在するものはどれも、他のあり方をするように習慣づけられることはできないからである。……
 それゆえ、「性格の徳」がわれわれにそなわるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなく、われわれがそれらの徳を受け入れうる資質をもっているからであり、われわれは習慣を通じて完全なものになるのである。……
 たとえば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。これと同じように、われわれは正しいことを行うことによって正しい人になり、節制あることを行うことによって節制ある人になり、また勇気あることを行うことによって勇気ある人になるのである。(第二巻第一章、1103a17-b2)(傍点引用者)

 このように「同じような活動の反復」(第二巻第一章、1103b21)という道筋を通って何が正しいかを学び知る。(pp.65-66)

●アリストテレスは、行為が「認識論的な作用」をもっていることを指摘し、次のように忠告している。

 そのような行為を為さなければ、だれも善き人になることはできないだろう。それなのに、多くの人びとは、こうした行為を行うことなく、議論に逃げ込み、議論することが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれると思いこんでいる。(第二巻第四章、1105b11-14)(p.66)

――これはキツイ。哲学カフェ花盛りですしわたしもよのなかカフェを40回もやりましたから、議論は有意義だ、哲学に至る道だ、とつい思いたくなります。でもアリストテレスは行為こそが大事だと。「行為が認識論的な作用をもっている」この指摘、興味深いですね。

●アリストテレスは、ここで、はっきりとしたかたちで、「徳は知なり」とするソクラテスの理性主義に立ち向かっていると言える。だがもちろん、彼は反理性主義を取っているわけではなく、ただソクラテスとは異なり、「徳」の普遍的な定義を求めるというかたちで、「徳」を規定することはできないと考えているのである。……重要なのは、その「徳ある人」がどのようにして成立するかである。そのためには、幼児期において「正しい感受性」をもつようにしつけておく必要があり、「正しい法」のもとで育てられなければならないと考える。(pp.66-67)

――ここでいう「正しい感受性」とは、なんでしょうか。

 p.71に「喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌う」という言葉が出てきます。ここでまた、「なにが『喜ぶべきもの』なの?なにが『嫌うべきもの』なの?」という問いが出てきそうです。
 わたしの勘では、「嫌うべき」はたとえば不誠実だったり怠惰だったり、不道徳なことをいうのかな?と思ったりしますが、さて。


●“行為に伴って生じる快楽や苦痛は人間の性格の性向を示す指標と見なすべきである。なぜなら、肉体的な快楽を差し控え、それによろこびを感じる人は節制ある人であり、それを嫌がる人は放埓な人だからである。また恐ろしいことを耐え忍び、それによろこびを感じる人、あるいは少なくとも苦痛を感じない人は勇気ある人であり、苦痛を覚える人は臆病な人である。つまり、「性格の徳」は、快楽や苦痛にかかわるのである。……
 したがって、プラトンが主張するように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむようにわれわれは若い頃から何らかの仕方で指導される必要があり、それこそが正しい教育なのである。(第二巻第三章、1104b3-13)(p.70)

性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。というのは、快楽と苦痛は、われわれの人生全体を貫いており、徳と幸福な生き方にとって決定的な意義と力をもつからである。(第一〇巻第一章、1172a21-25)(p.71)

――ここは、現代の遺伝子学や各種人格分析ツールや発達障害の有無の知識などに親しんだわたしたちからすると、何か言いたくなる箇所ですね。
 「勇気」、蛮勇はNOだけど(でもわたしは結構蛮勇っぽいけれど)生来臆病な人が訓練によって、あるいはその人の価値観に準ずるために勇敢に振る舞うときというのは、崇高にみえる。時々そういう場面、人に出会います

――苦痛がわたしたちを導いている、と主張される方もいます。わたしたちの動機付けは苦痛を回避することなのだと。とても気の毒になりましたが、わたしの仮説では、その方は少しASDのけがあって、ご両親も遺伝でその傾向があり、苦痛を人一倍感じやすく、苦痛によって導く子育てをしておられたんではないかと思います。こんなことばかり言ってますねわたしは。

●哲学の歴史においては、一九世紀の功利主義のように、「快楽は活動の結果得られる感情もしくは感覚である」という見解がよく知られている。快楽は計量可能であり、二つの快楽のどちらが大きいかを計ることができる。そこで、われわれの活動の価値は、この快楽という実体をいかに多く生み出すかにおって決められると主張されてきた。アリストテレスの快楽論はそれとはまったく対立する見解である。
 アリストテレスによれば、快楽はさまざまな活動に伴い、またそれぞれの活動の相違に応じてその快楽は質的に異なってくる。詩を読むことによって得られる快楽を、幾何学を考えることによって得られる快楽と置き換えることはできない。(pp.71-72)

●アリストテレスは「快楽はその活動を完全なものにする」と主張し次のように述べている。
“なぜなら、活動はそれ固有の快楽によって高められるからである。事実、快楽とともに活動する人たちは、各自のそれぞれの分野の仕事をいっそうよく判断し、いっそう正確に扱うのである。たとえば、幾何学の研究によろこびを覚える人たちは幾何学者になり、幾何学の問題のそれぞれをいっそうよく理解するのである。同様にして音楽の愛好者も、建築の愛好者も、その他それぞれの分野の愛好者たちも、自分たちに固有の仕事によろこびを覚えることによって、その仕事に上達するのである。(第一〇巻第五章、1175a30-35)(p.72)

●そして「活動」と「快楽」の関係を次のように述べている。
“それゆえ、完全で至福な人の活動が一つあるにせよ、複数あるにせよ、そうした活動を完全なものにする快楽こそ、第一義的に、「人間の快楽」と呼ばれうるものである。そして他のさまざまな快楽は、それらに対応する活動の種類に応じて、第二義的に、あるいはまた、はるかに劣った仕方で、「人間の快楽」と呼ばれうるのである。(第一〇巻第五章、1176a26-29)
 以上のように、功利主義の快楽論が快楽を受動的な感覚状態と捉えるのに対して、アリストテレスは、快楽は能動的活動に、その活動から切り離せないかたちで結びついていると考える。そして、快楽はその活動を完全なものにすると主張する。(pp.72-73)

――このくだりは、やはり「強み」や「価値観」の概念と照らし合わせながら考えると理解しやすいようです。自分の強みや価値観と結びついた活動をおこなっているときは、たとえ少々の困難がともなったとしても喜びを感じられるでしょう。献身的な医療者が人を救う行為のように、根っからの教育者が教育を行う行為のように。

●快楽は自然的欲求の充足において生じる快楽にはじまり、徳ある行為の遂行の「よろこび」に至るまで、きわめて広い幅と深さをもつ概念である。(p.73)

●それと同様に、「カロン(kalon)」というギリシア語は「美しい、見事な、立派な」といった意味をもつ、大きな広がりをもつ概念であり、また、しつけ、訓練、体験を通してその概念は深められていく。この点は美術や音楽といった芸術の事例を考えてみれば明らかである。
“徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。だから、気前のよい人もまた、美しいことのために適正にものを与えるのである。なぜなら、気前のよい人は、しかるべき人びとに、しかるべき額を、しかるべきときに……与えるはずだからである。(第四巻第一章、1120a23-26)(pp.73-74)

●勇気、節制、親切、等々の行為に共通しているのは、それらがすべて美しく、立派であるということであり、それを「美しい、立派な行為」と感知するから、それを為すのであり、またそれゆえに、その行為に「よろこび」を感じるのである。したがって、「美しい、立派なもの」を見抜く能力とそれを「よろこぶ」能力は「性格の徳」を習得したかどうかの一つの指標であると言えよう。(p.74)

●アリストテレスは「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為されるものである」(1120a23-24)と述べているが、行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのであると考えている。このように「カロン(美しい、立派な)」という概念は「勇気」、「節制」等々の「性格の徳」と並ぶ概念ではなく、「性格の徳」のすべてに共通する特性であり、具体的な状況において、「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。またこの「カロン(美しい、立派な)」という判断の背景には、本章でこれまで説明してきた、幼児期以来の「徳の価値空間」のなかでのしつけや訓練が存在していると言えよう。(p.75)

●「徳」の規定は、アリストテレスの有名な「類と種差」による定義のかたちを取っている。すなわち、「人間」を定義するのに、「動物」というその類に種差である「理性的」を加えて、「人間とは理性的動物である」というかたちを取る定義である。
 まず、徳の「類」の候補として「情念(パトス)」、「能力(デュナミス)」、「性向(ヘクシス)」が挙げられ、そのうちで、「情念」と「能力」は「徳」の類にはなりえないことが示される。第一に、「情念」とは「欲望、怒り、恐れ、自信、ねたみ、よろこび、愛、憎しみ、憧れ、羨望、憐れみ、などの感情」(第二巻第五章、1105b21-23)であるが、これらの情念において、われわれは「動かされている(キネースタイ)」のであり、「怒ったり」、「恐れたり」する情念をもつこと自体は、「徳」や「悪徳」とは異なり、賞賛したり、非難したりする対象にはなりえない。第二に、賞賛や非難の対象になりうるためには「行為選択」という要因を含む必要があるが、「情念」や「能力(デュナミス)」にはそれが欠けている。「能力」、たとえば、医術の知識は病気を治す能力をもつが、同時に病気を作り出す能力をもっている。すなわち、「能力」は正反両方にかかわるのであり、したがって、「能力」は行為選択の機能をはたしえないと言える。(pp.76-77)

●それゆえ、「性格の徳」を規定する場合、その「類」に当たるのは、「情念」や「能力」ではなく、情念や行為にかかわる「性向」である。すなわち、「性格の徳」とは「情念や行為に対して正しい仕方で対応する性向である」ということになる。またその場合の「性向」とは、生得的、自然的な性向ではなく、しつけや訓練を通して獲得された性向、つまり「第二の自然」である。(p.77)

――うーん、ここも、読みすぎとお叱りを受けそうだけれど成人に対して「行動承認」の訓練を施すことが「徳ある人」を育てることにつながる、というふうに読めてしまう……

●“徳とは「選択にかかわる性格の性向(ヘクシス・プロアイレティケー)であり、,修遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける「メソテース(中庸、中間)」にあるということになる。△修両豺腓涼耆如蔽羇屐砲箸蓮◆崙四(ロゴス)」によって、しかも思慮ある人が中庸(中間)を規定するのに用いる「道理」によって定められるものである。すなわちそれは、二つの悪徳の、つまり過剰に基づく悪徳と不足に基づく悪徳との間における中庸(中間)なのである。(第二巻第六章、1106b36-1107a3)(p.77)

この徳の規定は古くから「中庸説」と名づけられ、アリストテレスの「徳倫理学」の中心を占める扱いを受けてきた。(p.78)

●アリストテレスは「性格の徳」を捉えるものとしては,鉢△本質的な規定であると考えており、,鉢△楼貘硫修靴燭發里任△襪、核心部分は△竜定である。ここで、アリストテレスは「性格の徳」を(思考の徳である)「思慮」との関係を通して規定しており、この「思慮」を「思慮ある人の判断」を通して捉えている。(p.80)

● 崙舛遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける中庸」とは、「中庸」の概念が「行為の主体に相関的に決まってくる」という意味として解釈される。たとえば、運動選手にとっての適切な食事の量と普通の人びとにとっての適切な食事の量とは当然異なってくる。すなわち、中庸(中間)の普遍的な尺度は存在しないのであって、行為者に相関的な仕方で「中庸(中間)」は規定されると解釈される。
 さらに、「行為者が置かれた状況」に相関的であるとも考えられる。すなわち、,竜定は「行為者が置かれた状況によって、その状況における中庸が決まってくること」を意味していると解釈すべきであるように思われる。(p.81)

●“「性格の徳」は情念と行為にかかわるものである。そして、情念や行為には過剰と不足、中間ということが定められている。たとえば、恐れること、大胆であること、欲求すること、怒ること、憐れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合もよくないのである。けれども「しかるべき時に」「しかるべきものについて」、「しかるべき人びとに対して」、「しかるべき目的のために」、「しかるべき仕方で」こうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有なことなのである。(第二巻第六章、1106b16-23)(pp.81-82)


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 ここまでが本書『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』の第一章、第二章です。大体本書の前半部分に当たります。言葉の定義を追っているうちにもうワード18ページになってしまいました。

 予告した通り本当に著作権問題になりそうなレベルです。

 なにごともちょっと新しい分野のものに手をだすと丸写しモードで頭に入れたくなるんですよねーー。本書のようなものはもっと若い頃に読めばよかったな。

 しかし、去年も偶然のお出会いでヘーゲル+ホネットにはまり、いっぱし「隠れフランクフルト学派」を名乗るようになってしまいました。(当たるを幸い批判しまくっている行動パターンはホネットよりはハーバーマスの流儀です)

 今年はギリシア哲学との出会いの年になるんでしょうか・・・