『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)読書日記の後半です。

 前回は第一章「幸福(エウダイモニア)とは何か」第二章「人はどのようにして徳ある人へ成長するか」を丁寧にみてきました。

 今回は残りの章、第三章「性格の徳と思慮の関係」、第四章「徳とアクラシア(無抑制状態)」、第五章「友愛について」、第六章「観想と実践」を取り上げます。

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第三章 性格の徳と思慮との関係

●アリストテレスはプラトンの超越的な「善のイデア」を退け、「エンドクサ」、すなわち「人びとが抱いている定評ある見解」を吟味することを通して「幸福」ならびに「徳」の概念を考察している。このアリストテレスの立場を「内在主義」と呼び、この立場を明らかにするために、「ノイラートの船」という比喩を導入することにしよう。(p.83)

●ウィーン学団の指導者オットー・ノイラート(1882−1945)は、「知識の体系」を大海原で修理を必要とする船に喩え、「われわれは自分たちの船をいったんドックに入れて解体し、最上の部品を用いて新たに建造することはできず、海上でそれを改造しなければならない船乗りのようなものである」と述べている。われわれは「知」のゆるやかな体系を、それに頼りながら少しずつ改良していくことはできる。しかし、それから離れて概念化されていない実在との比較をおこなうことは不可能である。デカルト以来、近世哲学が求めてきた「知の普遍的な基礎づけ」は大きな幻想であったと言うことができる。(pp.83-84)

●「エンドクサ」の吟味を通して「幸福」を追求するアリストテレスは、過去から受け継いできた「徳の価値空間」という「ノイラートの船」に乗っており、倫理的価値(徳)を「内在的に」追求している。(p.84)
 
●20世紀後半以降の『ニコマコス倫理学』研究においては、カントと同様な意味で道徳判断の普遍性を主張する解釈が数多く見られる。この解釈を「普遍主義」と呼ぶとすれば、この普遍主義に対して、私は行為を問題にする場合普遍性は成り立ちがたく、具体的な状況を考慮する「個別主義」、「内在主義」が『ニコマコス倫理学』の思想を正しく捉える道だと考える。(同)

――アリストテレスは「個別主義」「内在主義」の人だったんだ。「個別化」のわたしと似た人だったかもしれないな^^(こらこら)

「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」「思慮(プロネーシス)」との関係を正しく理解することが重要である。「勇気」、「節制」、「正義」といった「性格の徳」はよく知られているが、そのような「性格の徳」を示す行為を遂行する場合、そこに必ず「思慮」が働いているとアリストテレスは主張する。そこでまず、「思慮」の機能を把握する必要があるが、「思慮」の概念は『ニコマコス倫理学』の中心概念のひとつであって複雑であり、しかも20世紀後半以降の研究においては普遍主義的な捉え方が支配的であることから、アリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているように思われる。(pp.84-85)

――おっ、野中郁次郎氏のいう「フロネシス(賢慮)」が出てきました。ところが、おやおや、20世紀後半以降の研究でアリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているというではありませんか。要注目です

●本書第三章第1節では、カントの「定言的命法」とアリストテレスの「思慮ある人の実践的推論」を対比し、従来なされてきた「思慮」ならびに「実践的推論」の解釈を批判し、アリストテレスの「思慮」がカントの「理性」とはその機能を大きく異にしていることを明らかにしたい。この作業を通してはじめて『ニコマコス倫理学』の中心概念である「性格の徳」と「思慮」の正しい姿が捉えれらると考えている。(p.85)

――はい先生、異存ございません。
ちなみに「性格の徳」と「思慮」の関係ということでいうと、わたしは従来から「強み」「価値観」などはいわばその人のパラダイムや認知バイアスとして働き、その人の思考能力に大きく影響を与えると考えてきました。哲学者の書いたものを読むとその人の強みが透けてみえるようにも思います。カント先生などは規律性か公平性ですね、わたしからみて。

●人間の場合、振る舞いとそれが目指す目的の関係は、動物の場合のように直接的ではなく、時間的にも、空間的にも遠く広がっていき、その目的もさまざまな視点からそれを捉えることができる。もちろん、それは人間に言語を介した思考能力があるためである。(p.869

●人間の振る舞いとその目的とを関係づけるのが、アリストテレスが「思案(boueusis)」と呼ぶ働きであり、それを通して行為「選択(proairesis)」が成立する。この行為「選択」に向けての「思案」の作用を実践的推論と呼ぶとすれば、アリストテレスはこの推論に、演繹的推論の場合と同じ「シュロギスモス(syogismos)、三段論法」(第六章第一二章、1144a31)という言葉を使っている。また実践的推論を妥当な演繹的結論を導くものであるかのように語っている箇所もあり、他方それ以外のタイプの実践的推論の事例を挙げて論じている箇所もある。(pp.86-87)

●まず、アリストテレス自身が「思慮」をどのように捉えているか、それを確認しておこう。アリストテレスは次のように述べている。
 “「思慮(プロネーシス)」については、われわれがどのような人を「思慮ある人(プロニモス)」と呼んでいるかを考察することによって、把握することができるだろう。
 思慮ある人の特徴は、自分自身にとって善いもの、役に立つものについて正しく思案をめぐらしうることであり、それも、特殊なこと、たとえば、健康のために、あるいは体力をつけるためには、どのようなものが善いものなのかといった仕方で部分的に考えるのではなくて、まさに「よく生きること(エウ・ゼーン)」全体のためには、いかなることが善いかを考えることである。このことの証拠は、われわれが「思慮ある人」と呼ぶのは、その人が技術のかかわらない領域において、何らかの立派な目的のために分別を正しくめぐらす場合である、という事実である。したがって、人生の全般にわたって思案する能力を備えた者が、思慮ある人ということになる。(第六巻第五章、1140a24-30)(pp.87-88)

●この箇所で、第一に、「思慮」は医術や大工術といった技術知のかかわらない領域において、「よく生きること全体のために、何が善いか」を思案する能力として捉えられている。第二に、アリストテレスは「思慮」の概念を「思慮ある人」の概念を通して捉えているが、「思慮ある人」はつねに具体的文脈のなかで状況を正しく捉え、行為する人物である。私は、これが「思慮」、「思慮ある人」の最も基本的な特性であると考える。(pp.88-89)

●それに対して、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉える人びとは、上に示した「思慮」の概念とは異なる把握を示している。彼らは、実践的推論の大前提を、具体的な文脈から独立に「思慮」を通して捉えられる普遍的道徳判断として把握し、小前提はその大前提の具体的な適用事例として捉えている。それゆえ、実践的推論は演繹的推論に類似した推論になってくる。(p.89)

●以下、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉えるのは誤りであることを明らかにし、それに代わる解釈を「思慮ある人の実践的推論」として提示したい。
 演繹的推論の例:
  大前提 すべての動物は死ぬ。
  小前提 すべての人間は動物である。
  結論  すべての人間は死ぬ。
 「すべての動物は死ぬ」という大前提命題は小前提からまったく独立に主張できる普遍的命題、つまり全称的判断である。また前提と結論のあいだの必然的な関係はそこに登場する「動物」や「人間」といった概念内容には依存しない。純粋に形式的な関係である。
 実践的推論の例
「友人を助ける行為は善き行為である」といった道徳判断はどのような場合にも成立する「普遍的判断」にはなりえない。というのは、この判断は、友人が困っている「ある状況において」はじめて成立する判断だからである。友人が困っていても、別の状況においては、友人を助ける行為よりもより優先すべき行為が考えられるからである。そこに、具体的な状況においてのみ真偽が問題になる実践的判断の特徴がある。(pp.90-91)

――フロネシスの例が出てきました。なるほど、野中氏は経営者の備えるべき徳としてフロネシスを言っていますが、わたしはむしろ上記の例は、ミンツバーグ的なマネジャーの状況判断に当てはまるもののように思えます。もちろんそれの延長線上に経営者がいます

●どうして現代の研究者たちは「規範―事例」型の推論をアリストテレスと結びつけるのであろうか。その大きな理由は、「規範―事例」型の説明が行為の正当化に端的に繋がっており、また次の第四章で取り上げるように、アリストテレス自身が、第七巻第三章において、実践的推論を「規範―事例」型の推論のように提示していることによっている。アリストテレスの「実践的推論」についての見解は必ずしも一貫していないのである。しかし私は本章において、第六巻第五章以下で展開される「思慮の働き」の視点から「実践的推論」の特徴を取り出し、それが「実践的推論」の正しい構造であると主張したい。(p.91)

●カントの定言的命法(道徳法則)およびカントとアリストテレスの見解の類似点と相違点。
 アリストテレスの倫理学においては、「思慮ある人」、「徳ある人」がその中心を演じている。「正しい行為」とは、思慮ある人が具体的な状況に直面した場合、その状況を把握し実行する行為である。「行為の正しさ」の基準は思慮ある人にある。他方、近世のカントにとって、「正しい行為」を考える場合、「思慮ある人」、「徳ある人」が介在する余地はない。「正しい行為」は「正しい行為の原則」から、つまり「定言的命法」から導出されることになる。
ところで先に述べたように、「規範―事例」型の推論解釈では、大前提には、具体的文脈から独立に捉えられる「普遍的な道徳判断」が掲げられ、小前提はこの大前提の具体的な適用事例とされて、結論の行為の導出が説明されている。しかし、この説明の中には「思慮ある人」も登場しないし、「思慮ある人」がその能力を発揮する具体的文脈への言及もない。
カント倫理学は近世思想を代表するものであり、この新しい時代の思想には「徳ある人」「思慮ある人」に代わって「正しい行為の原則」が登場する。しかし、アリストテレス倫理学がこのカント的思想を介して解釈されるならば、「徳倫理学」のもつ真の意義は歪められてしまうことになると私は考える(pp.92-93)。

p.94 カントの「定言的命法」−省略。

●アリストテレスも、カントと同様に道徳的行為に関して、「ここで何を為すべきか」は客観的に決まっており、そこに真偽の問題が成立すると考える。すなわち、道徳判断は行為者の先行する意志に依存する条件的命法ではなく、定言的命法であると考えているのである。アリストテレスはそれを次のように述べている。
 “思考の働きにおける肯定と否定にあたるものは、欲求の働きにおける追求と忌避である。また、性格の徳は選択にかかわる性向であり、選択は思案に基づく欲求であるから、選択がすぐれたものであるためには、道理(ロゴス)は真なるものであり、欲求は正しいものでなければならず、道理が肯定するものを欲求は追求しなければならない。
 ……行為にかかわる思考的なものの機能(エルゴン)とは正しい欲求に一致している真理を捉えることにある。(第六巻第二章、1139a21-31)
 この最後の文章において、アリストテレスは、思慮の機能は具体的な状況で「正しい欲求」が何かを把握することであり、それが「真理」を捉えることであると主張している。(pp.95-96)

●では、「正しい欲求に一致している真理」とはどのようにして捉えられるのだろうか。
「優れて善き人(スプウダイオス)」という言葉は『ニコマコス倫理学』で最も頻繁に登場する表現であり、それに次いで「思慮ある人(プロニモス)」という言葉が多く用いられている。またアリストテレスがこの両表現をほぼ同義の表現として使っていることは広く認められる。(p.96)

●“実際、優れて善き人(スプウダイオス)がそれぞれのものごとを正しく判定するのであり、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が見えているのである。……優れて善き人はそれぞれの場面で真実を見ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そうした美しさや快さを判定する尺度であり、基準なのである。(第三巻第四章、1113a29-33)
(p.97)

●「優れて善き人」、つまり「思慮ある人」が、個々の具体的な行為の文脈において捉える判断が、「行為の正しさ」の基準であり、「思慮」を示す「中庸の判断」であり、それが「正しい欲求に一致している真理」であるとされるのである。
 このように、思慮ある人はその推論において具体的な状況を重視し、文脈から独立な「普遍的規範」を機械的に個別的事例に適用するようなことはない。したがって、アリストテレスが実践的推論で「規範―事例」型の推論を考えていたという根拠は乏しいように思われる。(p.97)

――このあたり著者独自の見解を述べていると思われますがおそらくこちらが正しいのでしょう。やはり哲学者、あるいは哲学研究者というのはわたしからみてちょっとASD的な人が多く、ある法則を演繹的に杓子定規に当てはめるやり方に魅入られやすいのだと思います。たぶんその人たちはカントとも親和性が高いです(こらこら)

●『ニコマコス倫理学』において、まず強調したいのは、「大前提における道徳判断はつねに小前提との関係において成立する」ということである。しかもその場合、「規範―事例」型の解釈とはまったく逆に、アリストテレスは、実践的推論の出発点が「普遍的な規範命題」ではなく、具体的な状況についての知覚であると語っている。すなわち、アリストテレスの「思慮」はカントの「理性」とは異なり、「小前提における具体的な状況を把握する知覚能力であるとともに、大前提における目的に関わる思考能力」なのである(第六巻第八章1142a23-30、第六巻第九章、1142b32-33参照)。(p.98)

●行為者は直面する具体的な状況を知覚することを通して、「ここで何をすべきか」を把握する。具体例を挙げると:
 ある人物(思慮ある人)が以前から楽しみにしていたパーティに出かけようとしているところに、突然、友人が悩みを抱えて訪ねてくる。そこで、その人物はただちにパーティをキャンセルして、友人の悩みを聞き友人を慰めようと決心する。(pp.98-99)

●このエピソードにかかわる「実践的推論の構造」を次のようにまとめることができる。
(1)小前提とは、ある状況に遭遇した行為者が、その状況のうち彼が対応すべき最も突出した事実(the salient fact)として立ち現われてくるアスペクトを記録したものである。(「何が突出した事実のアスペクトであるか」は行為者の「性格」、「人柄」と相関的である。)
(2)また、この小前提(として記述される出来事)はそれにかかわる人生における様々な「価値」や「理念」を活性化するが、それが大前提として捉えられる。すなわち、「いかに生きるべきか」について行為者が抱く価値観が、その状況下で、彼に立ち現われているアスペクトを小前提として最も突出したものたらしめるが、その価値観が行為の理由のかたちで大前提として立てられ、具体的な行為を導くのである。
 これが「思慮ある人」が具体的な状況において遂行する「実践的推論の構造」であると私は考える。(p.99)

――おもしろいですね。わたし的にいえば「友達を大事にする」という「価値観」ですが、それが状況に応じて「大前提」になっていると考える。文脈を表面的にみれば「大前提」は「パーティに行く予定」とか「パーティを楽しみにしていた」のようにみえるのですが、「悩みを抱えた友人が訪ねてきた」という事態に応じて、大前提は全然違うものになってしまうというのです。しかし、こういうのは行為者自身も「あとづけ」でしか説明できないでしょうけれどね・・・。
何かに使えないかな、と思いました。

●「なぜキャンセルするのか?」という問いが投げかけられる。それに対して行為者は「友人が悩みを抱えて訪ねてきたのだ」と答える。その場合、相手はさらに「そうだとしても、どうして楽しみにしていたパーティまでもキャンセルするのか?」と尋ねるかもしれない。その問いに対して、行為者はさらに「行為の理由」を挙げて説明するであろう。
 為された行為に対して「なぜ?」という問いが立てられ、それに対して「行為の理由」を挙げて答える。このように、行為にはその「行為の理由」「行為の秩序」があり、それを示すことがアリストテレスの実践的推論の目的であったと思われる。(pp.100-101)

――たしかに、突発的な事態に対してマネジャーが意思決定を行う、選択を行う、というとき、上述のような「大前提のすりかわり」は日常的に起きているかもしれないですね。「クレーム対応」などはそうですね。

●実践的推論は二通りに分類されていた。すなわち、^綵僂簑膵術といった技術知がかかわる推論、つまり目的を前提して、その目的をめざす手段の選択が問題となる推論と、◆峪徇犬△訖諭廚かかわる、「善く生きること」全体のために、「ここで何をすべきか」にかかわる推論とである。
 普遍主義的解釈が取る「規範―事例」型の推論は、後者の実践的推論をあまりにも演繹的推論に同化してしまっていると私は考える。(p.101)

――それは、ASD系の人ならやりそうです。ビジネススクールで教えるロジカルシンキングもそのきらいがありますね。

●勇気、節制、正義といった徳の行為が成立するための条件が下記の文章に3つ述べられている。
”徳に基づいてなされる行為は(芸術作品の場合と異なり)、それが特定のあり方を持っているとしても(それだけで)、正しく行われるとか、節制ある仕方で行われることにはならないのであって、行為者自身がある一定の性向を備えて行為することもまた、まさに正しい行為や節制ある行為の条件なのである。すなわち、第一に、行為者は行っている行為を知っているということ、第二に、その行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択するということ、第三に、行為者は確固としたゆるぎない状態で行為しているということ、これら三つの条件が満たされなければならないのである。(第二巻第四章、1105a28-33)(pp.103-104)

●ここでは、第二の条件と第三の条件に注目したい。「行為者はその行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択する」という第二の条件は、「いま、この状況で為されるべき最も善き行為」の「選択(proairesis)」であると言える。この働きがまさに「思慮」の働きなのである。また第三の条件として「行為者は確固としたゆるぎない状態で行為する」とは、行為者が「節制」、「勇気」、「正義」等々の徳の教育、訓練、経験を通して、そのような「性格の徳」がしっかり身についているということを示している。『ニコマコス倫理学』第二巻の狙いは、子供を節制、勇気、正義等の「徳の空間」、つまり「倫理的価値の空間」へと導き入れることにある。その結果、子供は、動物のような「非理性的性向」を脱し、正しい行為のかたちを学んで行くことになる。(p.104)

●子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない。(pp.104-105)

――「美しい、みにくい」という価値づけによる正しい行為の教育。こうあるべきだなあ、と思いながら、現代はどれほどそこから離れてしまっただろうか?とも思う。武士道教育などはそれに近かったのだろうか。学校のいじめについて、「絶対あってはならない」という立場と、「必要悪。無菌状態で教育することはできないのだから、慣れて適応すべき」という立場があると思う。前者に立たなければいじめは根絶できないのだが、現実には親もそして先生も、後者の「本音」をやっているのではないだろうか?
 いずれにせよ、この一節が妙にこころに響いてしまうのは、わたしがどうしようもなく「教育的人間」だからかもしれない

●普遍主義的解釈は、「思慮」を情念や欲求から独立なカント的「理性」能力として捉える傾向があるが、われわれは逆に「性格の徳」のみならず、「思慮」の能力も、人間の自然的な欲求や情念を陶冶することによって「第二の自然」として成立すると考える。(p.105)

●“人間の機能(ergon)は「思慮」および「性格の徳」に基づいて成し遂げられる。なぜなら、(性格の)徳は目標(ton skopon)を正しいものにするのであり、「思慮」はその目標へと至るものごと(ta pros touton)を正しいものにするからである(第六巻第一二章、1144a6-9)
(p.106)

●先に述べたように、「徳とは知である」とするソクラテスは「性格の徳」と「思慮」を同一視するが、普遍主義を取る人びともソクラテスと同様に考える傾向がある。しかし、「性格の徳」と「思慮」は区別しなければならない。「性格の徳」は「思慮」と結びつくことによってこの世界にかかわるのであり、逆に「思慮」は「性格の徳」と結びつくことによって、「ひと」に宿った「正しい目標」にかかわることになる。すなわち、「性格の徳」とは「思慮」をそなえた「魂の性向」なのである。(p.107)

――今更ですがビジネススクール的ロジカルシンキングがそれ単独で「正しく考える方法」を教えてくれるわけではないんですよね。いわば「正しい価値観」がその大前提にないといけない。ということをアリストテレス先生が言ってくださっているようで、うれしかったです。

第四章 徳とアクラシア

●『ニコマコス倫理学』第七巻では「アクラシア」を取り上げている。ギリシア語の’akrasia’の’a’は否定を示し、’krasia’とは’kratos’、つまり「力」という意味であって、「アクラシア(akrasia)」とは「力のないこと」、「力をもって自己自身をコントロールできない状態」。「無抑制の状態」を意味する。(p.109)

●ソクラテスは対話篇『プロタゴラス』(352C-)において、知識は他の諸能力を宰領してひとを善き行為に導いていく最高・最強の力であり、「善と知って行わず、悪と知りつつ行うことはあり得ない」と主張する。(略)しかし、このソクラテスの見解はパラドクスであり、常識と明らかに矛盾する。われわれは知識をもちながら、欲望に支配されて為すべきではないことを行い、後になって後悔することが多い。(p.110)

●アリストテレスは、ソクラテスの理性主義を受け継いでおり、この立場に立って現実のアクラシア現象を説明し、パラドクスを解こうとする。しかし、第七巻で目指しているのはむしろパラドクスを解くことを通して、「徳」と「幸福」の関係を別の視点から明らかにしようとしている。(pp.110-111)

●第七巻の「アクラシア」の議論は「徳へ向けての途上の状態」とはどのような状態であるかを解明している。それは「無抑制」と「抑制」の状態であり、われわれ人間のほとんどはこの状態にあるといえる。したがって、「無抑制な人」は「抑制ある人」とどのように異なり、「抑制ある人」は「徳ある人(思慮ある人)」とどのように異なるかを明らかにすることは、われわれはどのようにして幸福に至るか、その道筋を示すことになる。(p.111)

●アリストテレスは、アクラシア(無抑制)」を次のように説明する。われわれは普遍的知識を「所有」していても、具体的な行為に直面した場合、欲望に支配されて、酩酊の人物と同じ状態になってしまい、その知識を「使用」できず、正しい行為ができなくなり、アクラシア状態が生じてくる、と。
 ソクラテスの「アクラシア(無抑制)の否定」に対して、アリストテレスはこのように知識の「所有」と「使用」、あるいは「普遍的な知識」と「個別的な知識」といった概念の意味の区別を通して、知識をもちながらアクラシアが成立することを説明しているのである。これはアクラシアの「ロギコース(logikōs、概念的)」な説明と言える。(p.113)

●他方、アクラシアが生じる原因をピュシコース(phusikōs、自然学的)に見定めることができる。
 ピュシコースな説明とは、簡単に言えば、行為者の「思いなし」と「行為」との間の「因果的な関係」の考察である。(p.114)
例:“もし甘いものはすべて味わうべきであり、いま個別的なこのものが甘いとすれば、その場合、行為する能力をもっており、かつ行為が妨げられることのないような人は、同時にまたこの特定の甘いものを味わう行為をすることは必然である。(第七巻第三章、1147a29-31)(同)

●次にアクラシア(無抑制)という事態がどのようにして成立するかの説明。
ここに「すべての甘いものは健康に悪い」と「すべての甘いものは快い」というふたつの大前提が存在する。前者は道理(ロゴス)が告げるものであり後者は欲望が告げる普遍的な思いなしである。そして目の前に「甘いものがある」という事態が成立している場合、アクラシアに陥る人は、「すべての甘いものは健康に悪い」という普遍的な知識を所有してはいるが、目の前の「甘いもの」に対する欲望が力ずくで「甘いものを食べる」という行為に引っ張っていき、アクラシアの行為が生じることになる。
 一方、「節制ある人(ソープローン)」つまり「徳ある人」の推論と行為では、欲望は関与しない。道理(ロゴス)に基づく推論「すべての甘いものは健康に悪い」に従い、目の前の甘いものにたいして「これは健康に悪い」と判断し、食べない。
 このように、道理(ロゴス)が占める大前提と欲望が示す大前提との対立葛藤が存在し、無抑制な人(アクラテース)は甘い食べ物を食べてしまい、後で後悔することになる。「アクラシア」という事態がどうして生起するのかに関する、ピュシコースな(自然学的な)説明として多くの人びとが取っている解釈は、以上のようなものである。(pp.116-117)

●行為とは、「何かを目指す行為」であると同時に、必ずまた「誰かの行為」である。それゆえ、アリストテレスの徳倫理学はこの行為の主体をめぐって展開する。(p.120)

●アリストテレスは、ここで、徳ある人(思慮ある人)とそれ以外の人びととの根本的な相違を強調している。それ以外の人びととは、無抑制な人と抑制ある人、ならびに放埓な人(akolastos)、つまり悪徳に支配されている人物である。(同)

●実践的推論において、徳ある人(思慮ある人)は直面する「個別的な事柄」を知覚することを通して「何を為すべきか」を導出する。その場合、徳ある人(思慮ある人)が示す「思慮」とは、「ある状況が含む行為誘導的諸特徴(the potentially action-inviting features of a situation)」のどれがここで重要なのかを見抜く能力である。
 すなわち、「思慮」がかかわる実践的推論の場合、アリストテレスの見解は「欲求(意志)」を「信念(知覚)」から独立に捉えるヒュームの二元論的な考え方とは根本的に異なっている。アリストテレスにとって、思慮とは「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のどれがここで重要なのかを見抜く知覚能力であり、この知覚を通して「何を為すべきか」が導かれる。それゆえ、行為が帰結するために、この思慮以外のものは何ら必要とはしないのである。(pp.120-121)

●「無抑制の人」と「徳ある人(思慮ある人)」との区別、さらに「抑制ある人」と「徳ある人(思慮ある人)との区別を明らかにしよう。
 少し前の「悩みを抱えた友人が訪ねてきたので楽しみにしていたパーティをキャンセルした人」の話。
 徳ある人(思慮ある人)は当の状況の特性を十全に把握し行動するが、抑制ある人と無抑制な人は徳が要求している以外の特性(パーティがもたらす喜び)に魅せられ、駆られる人である。したがって、彼らは直面する状況の意味を十全に捉え切っていないと言える。(pp.121-123)

●徳ある人(思慮ある人)は「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のうちのしかるべき特性を注目し、彼の「動機的エネルギー」はその特性に集中し、それ以外の特性に惹かれることはない。たとえば、悩みを抱えて訪ねてきた友人を知覚する場合ただちにパーティをキャンセルして友人の悩みを聞くのであり、彼が行為する以外の可能性(たとえば、パーティに行くという行為)は彼に生じることはない。その状況の知覚はそれ以外の行為の可能性を「沈黙させる(silencing)」と言える。(p.123)

●それに対して、無抑制な人は徳ある人(思慮ある人)とは異なり、「友人の悩みを聞くべきである」と思いながら、「パーティでの喜び」に惹かれて、パーティに出席してしまう人である。なお、第七巻第七章において、アリストテレスは「無抑制」を「性急さ(プロペティア)の無抑制」と「弱さ(アステネイア)の無抑制」に区別している(1150b19)。(pp.123-124)

●他方、抑制ある人は、徳ある人(思慮ある人)と同じ振る舞い(パーティをキャンセルして友人の悩みを聞く)をする。しかし抑制ある人と徳ある人(節制ある人)は異なる。
 “抑制ある人とは身体的な快楽のゆえに道理に反して何かをするということを決してしない人であり、節制ある人も同じである。しかし、抑制ある人の方は低劣な欲望をもっているのに対して、節制ある人はそのような欲望をもたない人である。また節制ある人は道理に反しては快楽を感じない性質の人であるが、抑制ある人の方はそのような快楽を感じても、それに導かれない性質の人である。(第七巻第九章、1151b34-1152a3)(pp.124-125)

――むずかしくなってきた……。甘いものの例でいえばわたしはアカラシア(無抑制)の人に入るかも。悩みを抱えた友人の件は、もちろん善意の友人だという前提があるのだと思う。この件に関しては「抑制ある人」になれるかな、という気がする。後ろ髪くらいは引かれそうな気がする。

●この考察にとって重要なのは、「徳ある人」、つまり「思慮ある人」の把握である。徳倫理学にとって、「思慮ある人」は具体的な状況に直面したときにその状況を正しく捉え、行為する人である。……アリストテレスはアクラシアをめぐる考察を通して「徳に向けての途上にある」とは具体的にはどのような状態なのかを示し、それによって「人は徳を習得することによって幸福に至りうる」という道徳的発達論を補強しているのである。(p.126)

――こういう文章を読むのがわたし的に何に役立つのかというと……、「強み」の学習などによって、「自分のパラダイム」に気づいてもらい、たとえばその人の何かの強みが「欲望」になり得、「煩悩」とよべるレベルにまでなり、その人に不利益をもたらしている可能性を考えてもらう。というところかな。

――「中庸」の概念も一緒に学べるとよいですね
よくあるのが、「承認」を学んだ人が、「自我(強い承認欲求につながる強み)」がガーッと亢進しやすいです。それはなかなか厄介な状態で、なんとか防止しやすいのですが、事前に釘をさしてもたぶん理解できなくて、フォローアップの中で治すしかないのでしょう。
フォローアップ大事です。

第五章 友愛について

●『ニコマコス倫理学』では第八巻と第九巻の二巻、つまり全体の五分の一が「フィリア」論に当てられ、アリストテレスがいかに「フィリア」を重要視していたかが窺える。「フィリア」は普通、「友愛」と訳されるが、日本語の「友愛」や英語の”friendship”よりも広い関係であり、そこには親と子、主人と奴隷、客と店員、支配者と国民といった関係が含まれ、それを通して「社会的な人間関係」が追求されている。(p.127)

――「フィリア」と「承認」の関係もみてみたいですね

●『ニコマコス倫理学』の第七巻まで、アリストテレスは自己のエウダイモニア(幸福)を実現する「勇気」、「節制」、「温和」、「高邁」といった「徳」を考察しており、第八巻、第九巻の「フィリア」の考察は、「性格の徳」から「社会的な人間関係」のような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるへと、すなわち『政治学』の主題へ向けて一歩を踏み出していると言える。(p.128)

●愛されるもの(phiēton)が「有用なもの(xrēsimon)」、「快いもの(hēdu)」、「善きもの(agathon)」に分けられる。つまり「利」、「快」、「善」に応じて三種類の友愛が区別されている。
 三種類の友愛のうち相互に相手に「善きもの」を与えようとする友愛関係が「真の友愛」と呼ばれる。これは徳ある人同士の関係であり、この関係がアリストテレスの「友愛」論の核心部分を形成する。また「友愛が幸福の不可欠な条件である」という見解も述べている。(pp.128-129)

●「有用性」と「快楽」に基づく人間関係。
“有用性のゆえに互いに愛し合っている人びとは、相手の人自身に基づいて愛しているのではなく、相手からお互いに何か善いものがもたらされるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛する人びとも同様であり、たとえば、そのような人びとは機知に富む人びとを、その人が特定の人柄であるから好むのではなく、もっぱら自分たちにとって愉快だから好むのである。(第八巻第三章、1156a10-14)

●これに対して、「善きもの」に関わる友愛関係はその性質を大きく異にしており、アリストテレスはそれを「完全な友愛」、「真の友愛」と名づけている。
“完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人びと同士のあいだの友愛である。なぜなら、完全な友愛にある人びとは、互いに相手にとって善いことを同じような仕方で望むが、それはお互い善き人として相手自身の善さに基づいたものだからである。すなわち、友人にとって善いものを、当の友人のために望む者は、真の意味での友人である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえであり、付帯的な仕方に(kata sumbebēkos)よるものではないからである。(第八巻第三章、1156b7-11)
 このように善き人びとのあいだの友愛は、善き人びと自身のあり方に基づいて、つまり徳に基づいて、お互いに相手のために善きものを願う関係である。またこの真の友愛は当然「有益なもの」と「快いもの」を含んでいる。(pp.130-131)

●ところで、「快楽」や「有用性」のゆえの友愛関係は、「善きもの」のゆえの友愛関係と同様、相互的である。しかし、前者の関係は低劣な人びと同士のあいだでも、また善き人と低劣な人とのあいだでも成立するが、他方、「善きもの」のゆえの友愛関係は、アリストテレスが「高潔な人(エピエイケースepieilēs)」と呼ぶ人びとのあいだにおいてのみ成立する関係である。(p.131)

●以上の友愛はいずれも「等しさ(イソテース)に基づく者同士」、つまり「上下関係にない者同士」の友愛関係である。しかし、第八巻第七章から第一四章において、アリストテレスは「優越性(ヒュペロケー)に基づく」友愛関係を取り上げている。それは、たとえば、親と子供、夫と妻、主人と奴隷など、「家族における友愛関係」であり、あるいは、支配者と被支配者といった「ポリスにおける友愛関係」である。この友愛関係の分析はアリストテレスが「家族」や「ポリス」をどのように捉えているかを知るうえで有益である。(p.131)

――ここは、研究者は重視していないみたいですが、わたしは「マネジメント」を考えるうえで大事だと思っています。上司部下関係というのは、部下側の「承認欠如」の感覚を容易に招くものです。だから、それを補う意味でも上司の側から「承認」をしないといけない。また実際やってもらうと驚くほど効果がある。ただそれは「徳ある人」同士の友愛または承認と異なり、自然にできるものではなく困難が伴います。だから訓練してでもやらないといけない。
 いつもいうように「研究者は自分のことを研究するのが好き」ですからね。

●「性格の徳」は個人の魂の卓越性であり、すべて個人の幸福を増進するものである。したがって、このアリストテレスの議論に対して「利己主義の傾向が強い」という批判がなされてきているが、この友愛の議論はその批判を考える上で重要な内容を示している。
アリストテレスの徳の教義をイエス・キリストの教え、あるいは近世のカントの定言的命法の主張、さらには功利主義の「最大幸福の原理」と比較するとき、上記の批判は一応成り立つように思われる。しかもアリストテレスによれば、「真の友愛」とは隣人の善を願い、相手のために振る舞うことであるが、この「真の友愛」の考察においても、彼は「友愛は自己愛に由来する」と主張し、「友愛」を「自己愛」の延長において捉えようとしているのである。

●しかし、アリストテレスの見解ははたして「利己主義」と言えるであろうか。アリストテレスの「真の友愛」についての見解は彼の「徳」についての見解に基づいているが、そこにアリストテレスの「友愛」論の特色が示されることになり、逆にこの友愛論において、彼の徳倫理学の真価が示されているとも言える。(p.133)

――これもおもしろいですね。徳を身につけ人格的完成をすることはそもそも何のためなのか。自分づくり、自分探しに埋没していたら何にもなりません。大事なのは他人に何を施すかです。アリストテレス先生そのことに後から気がついたのかな、それとも最初からそういう構成にしようと思っていたのかな。

●アリストテレスは第九巻第四章において、「隣人に対する友愛関係は自己自身に対する友愛に由来する」と語っている(1166a1-2)。「友愛」とは普通、「他者」に対する関係であるが、「自己自身に対する友愛」とは一体どのようなものであろうか。(p.133)

――他人を大切に思う心が自分への慈しみから発生する、というのは今の心理学、脳科学からみても間違いではないんじゃないだろうか。他人がこう扱われたいだろう、ということは自分の感覚から「類推」して考える。それはメタ認知のはたらきだ。

●アリストテレスはまず、「友人」つまり「友である者」の特徴(条件)を5つ挙げている。
〜韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する者である。
∩蠎蠅存在し、生きることを相手のために望む者である。
ともに時を過ごす者である。
ち蠎蠅汎韻犬海箸らを選ぶ者である。
イ箸發鉾瓩靴漾△箸發亡遒崋圓任△襦
(pp.133-134)

●アリストテレスは人間の魂を「ロゴス(道理、分別)をもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けている。「ロゴスをもたない部分」とは「欲求・情念」が関わる部分であり、ちょうど、父親の言葉に従うように「ロゴスに耳を傾ける部分」として規定される。すなわち、しつけ、訓練を通して、われわれの「欲求・情念」には「ロゴス(理性)」の働きが浸透していくのであり、そこで欲求・情念を、「ロゴス(理性)」の働きが浸透しロゴスに支配されているものと、そうではないものに分けることができる。
 このようにわれわれの魂を二つに分けるならば、「高潔な人(エピエイケース)の自己自身に対する関係」と「低劣な人の自己自身に対する関係」ははっきり異なってくることになる。高潔な人の自己自身に対する関係は、ロゴス(理性)が欲求・情念を正しく支配する関係であり、他方それに対して、低劣な人とはそのロゴス(理性)が欲求をコントロールできない人であり、抑制のない人である。(pp.134-135)

●先に挙げた友人の条件のうち、,痢崛韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する」ということが成立するためには、アリストテレスによれば、「善もしくは善と思えるものを自分のために望み、かつそれを実行する」ということが成立していなければならない。そうなると、真の友愛の条件はきわめてきびしいものになってくる。
 たとえば、母親の子供に対する愛は「真の友愛」には当たらない、それは相互関係ではないし、母親も子供も「徳ある人」には当たらない。このように、徳ある人が稀であるおうに、「真の友愛」関係はきわめて稀な関係になってくる。

――きたきた。これも、「自己実現」が、マズローの本来構想した意味は極めて限られた卓越した人のものだったように、哲学者の考えることは大体において、自分たち自身の話になっていくのだ。それでいうと母の子に対する愛を称揚したヘーゲルやホネットはむしろ「まとも」だったかもしれない。

●アリストテレスは「自己愛」をどのように捉えているのだろうか。
 第九巻第八章では、「ピラウトス(philautos)」という概念が取り上げられている。「ピラウトス」とは「愛(philia)」と「自己(autos)」から合成された言葉であり、「自己を愛する者」、「自己愛者」、「利己主義者」という意味である。アリストテレスは「ピラウトス」の通常の意味を次のように説明している。
 “自己愛(ピラウトス)を非難すべきものと考える人びとは、金銭や名誉、あるいは身体的快楽において自分により多くを配分する者のことを「自己愛者」と呼んでいる。というのも、多くの人びとはこうしたものを欲求し、またこうしたものを最も善きものと見なして、それらに夢中になっているからである。(第九巻第八章、1168b15-19)。
 このように、アリストテレスは、人びとは「自己愛者」という言葉を非難の意味を込めて使っていることを認めたうえで、真の意味での「自己愛者」という概念を新しく次のように規定する。
 “もし人がつねに、正しいことや節制あること、あるいはその他、徳に基づくことなら何であれ、そうしたことを誰にもましてみずからが行うことに熱心であり、また一般に、美しいものをつねに自分自身の身に備えようとするのであれば、だれもそのような人を「自己愛者」と呼んで、非難したりはしないはずである。こうした人こそ、むしろ優れて「自己を愛する者」と考えることもできよう。(第九巻第八章、1168b25-29)(pp.136-137)

●このように、アリストテレスは高潔な人(エピエイケース)、つまり徳ある人は誰よりも自己を愛する人であると主張し、この人物は非難されるたぐいの「自己愛者」とは別種のものであることを強調し、次のように述べている。
“この2つの種類の自己愛の相違は理性(ロゴス)に基づいて生きること、情念(パトス)に基づいて生きることの相違に対応し、また美しいもの(カロンなもの)を欲求することと、利益になる(シュンペロン)と思われるものを欲求することの相違に対応しているのである。(第九巻第八章、1169a4-6)
 ここで、われわれは真の意味での「自己愛者」が「カロンなもの(美しいもの)」を欲求する者として規定されていることに注目したい。このように、アリストテレスは真の「自己愛者」を規定するために「カロン(美しい)」の概念に訴えているのである。(p.138)

●アリストテレスは、常識的な意味で「自己の利益を最大にすることが幸福である」とは考えていない。すなわち、彼の「友愛論」は利己主義とは無縁であると言える。アリストテレスは、自己犠牲の行為を選択する人は「カロンなもの」を自己自身のために選ぶと述べており、「カロン(美しい)」という概念を価値を最終的に決めるキー概念として捉えている。(p.139)

●カロンの概念整理。
(1)「カロン(kalon)」は「美しい、見事な、立派なもの」という意味であり、その反対語は「アイスクロス(aischros)」、つまり「醜い、恥ずべき、卑劣なもの」である。『ニコマコス倫理学』の多くの箇所で、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と述べている。すなわち、「カロン」という表現は「勇気」、「節制」、「親切」といった個々の「徳」の概念に並ぶ概念ではなく、具体的な状況において、そのような「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。言い換えれば、勇気ある行為であれ、親切な行為であれ、それが徳ある振る舞いであるためには、それらの行為は「カロンな行為」として捉えられていると言えるのである。
(2)この「カロン(美しい、立派な)」の概念は、『ニコマコス倫理学』第五巻で論じられる「正義(デュカイオシュネー)」の概念と同じ機能を果たしていると言うことができる。アリストテレスは「正義」を「配分における公正」という意味での部分的な「正義」の概念と、「性格の徳」である「全体的な徳性(hole arēte)」としての「正義」に分けている。そしてこの後者の全体的な徳は「性格の徳」のひとつであるが、しかし、それはその他の個別的な徳とは異なり、すべての「性格の徳」を統括する徳であり、勇気ある振る舞いにせよ、節制ある振る舞いにせよ、それが徳ある振る舞いであるためには、「正義」の徳が成立していなければならないとされている。ここには、ソクラテスの「徳の一性」の思想が反映していると言える。
 このように、「カロン(美しい)」の概念は、「全体的な徳性」としての「正義」の概念とともに、最終的な価値の客観的基準を示す概念として捉えられている。(pp.139-141)

●幸福な人はまさに友人を必要としていると言える。アリストテレスは友愛の必要性を次のように述べている。
 “幸福な人にあらゆる善きものを分配しながら、外的善のうちでも最大のものと考えられる友を分配しないのは、奇妙なことに思われる。そして、相手からよくされるよりも、相手によくする方がいっそう友にふさわしく、しかも相手によくすることが、善き人と徳に固有の特徴であるとすれば、また見知らぬ人よりも友によくすることの方が美しい(カロン)とすれば、その場合、優れて善き人(スプウダイオス)は、自分のほどこす恩恵を身に受けてくれる人びとを必要とすることになるだろう。(第九巻第九章、1169b8-13)(p.142)

●次に、アリストテレスは、人間は本性的に「社会的存在(ポリティコン)」であり、どんな幸福な人も友人を必要とする」ことを指摘する。
 “あらゆるものを所有して、自分だけで過ごすといった孤独の生活を選ぶような人は、誰もいないはずである。なぜなら、人間は自然本性上ポリスを形成して他者とともに生きる存在だからである。事実、幸福な人にもこの自然本性は備わっている。というのも、幸福な人は自然本性上さまざまな善きものを備えており、彼にとっては見ず知らずの手当り次第の者たちよりも高潔な善き友とともに過ごすことの方がより善いからである。それゆえ、幸福な人には友人が必要なのである。(第九巻第九章、1169b17-22)(pp.142-143)

●「友が存在するということも、それぞれの人にとって、自己の存在と同じように、あるいはそれに近い仕方で、望ましいものであることになる」(第九巻第九章、1170b7-8)
「幸福になろうとする人は、優れた善き友人を必要とする、という結論が導かれることになる」(第九巻第九章、1170b18-19)(p.144)

●“人は自分の存在とともに、友人の存在もまた知覚しなければならないのであって、このことは「ともに生きる(シュゼーン)」こと、つまり言葉や思考を共有することにおいて実現されうるのである。というのも、「ともに生きる」とは、人間の場合、言葉や思考を共有するという意味で言われるのであって、牛たちが同じ放牧地で草をはむのとはわけが違うのである。(第九巻第九章1170b10-14)
 以上のように、アリストテレスは「友愛が幸福な生の本質的な要因である」ことを示している。(p.144)

●この「(真の)友愛が幸福な生の本質的な要因である」という命題は普遍的に成立すると言えるように思われる。すなわち、アリストテレスはこの議論を通して、「幸福な生」を形成する「友愛」が、またそれを支える「性格の徳(倫理的な徳)」が、「市民生活において政治的生」を生きる人びとだけではなく、観想活動、つまり「哲学的活動の生」を生きる人びとにとっても必要であると考えているように思われる。(p.145)

●アリストテレスは『ニコマコス倫理学』全体を通して「幸福とは何か」を追求しており、第一巻から第九巻までは、それを「実践活動」を中心に進めているが、最終巻の第一〇巻では、「実践」に対して「観想活動」の幸福を強調する議論を展開している。
 アリストテレスは第一巻第二章で、「人間にとって善とは何か」を体系的に追及する実践的学問を「政治学(ポリティケー)」と呼んでいる。他方、第一〇巻第七章では、「観想活動」を「知恵を愛する哲学の営み」(1177a25)と名づけているが、これはプラトンの『国家』第六巻に登場する哲人統治者の機能を受け継ぐものと言うことができる。(p.147)

●私も以下、アリストテレスに倣って「実践」にかかわる学を「政治学」、実践活動を遂行する者を「政治家」と呼ぶことにする。倫理学はこの実践の学に属する。他方、「観想」にかかわる学を「哲学」、観想活動を遂行する者を「哲学者」と呼ぼう。現代社会では、圧倒的多数の人びとにとっての実践活動は政治活動ではなく、経済活動である。しかし、古代ギリシアにおいて、人びとは経済活動を自由人に相応しい活動であると考えていなかった。そこに現代との大きな相違がある。(pp.147-148)

●第一巻第五章では、古代ギリシアで伝統的に捉えられてきた「幸福」として、「享楽の生」、「実践的な徳に基づく生」、「観想活動の生」の三種類の「生」を挙げていた。しかし「享楽の生」はいわば「快楽の奴隷」のごとき「家畜の生」として外され、「実践的な徳に基づく生」と「観想活動の生」の二つが「幸福な生」として提示される。
 第一〇巻では、「実践的な徳に基づく活動」と「観想的な徳に基づく活動」の「二つの生」はどのように捉えられているだろうか。アリストテレスは、最もすぐれた活動とは知性に基づく観想活動である(1177a19-20)と主張している。
アリストテレスはこの「観想活動の幸福」を「完全な幸福(teleia eudaimonia)(第一〇巻第七章、1177b24-25)と呼び、他方「実践的活動の幸福」を「第二義的な幸福(eudaimonia deuterōs)(第一〇巻第八章、1178a9)と呼んで、両者の価値の違いをはっきりしたかたちで示している。(p.149)

●アリストテレスは、『形而上学』第六巻や『ニコマコス倫理学』第六巻において、「人間の知識」の三つの働きの区別を強調している。
〕論的学問(テオーレーティケー)――第一哲学(神学)、数学、自然学
⊆汰的学問(プラクティケー)――倫理学、政治学
制作的学問(ポイエーティケー)――各種の制作学、たとえば詩学
 理論的学問は「他の仕方ではありえない必然的な事柄」にかかわる。すなわち、数学や形而上学のように永遠不動の事柄を対象とする。他方、実践的学問と制作的学問は「他の仕方でもありうる非必然的な事柄」にかかわるものとされる。すなわち、倫理学(エーティカ)を含む政治学と各種の制作学はこの世界においてわれわれが働きかける蓋然的な事柄を対象とする。(pp.150-151)

●「ヌース(知性)」
 永遠不動の必然的な事柄にかかわる知識である「ソピア(知恵)」を成り立たせている能力が「ヌース(知性)」であり、第一〇巻第七章、第八章では、アリストテレスはこの「ヌース」の働きを通して「観想活動」の特性を説明している。
 他方、「性格の徳」は「情念」や「欲求」といった「複合的なもの」にかかわる「人間的な徳」であるが、それに対して「ヌース(知性)」は、そのような「複合的なものから切り離された徳である」(第一〇巻第八章、1178a22)。したがって、アリストテレスにとって、この「ヌース(知性)」は人間の能力というより、まず至福である神々の能力であり、観想活動は何よりも神々の「観想活動」である。(pp.151-152)

「生きる(zēn)」「活动する(energein)」といった営みは植物、動物、人間、そして神々に共通するものである。他方、アリストテレスが強調しているのは、われわれ人間と神々の相違である。オリンポスの神々やユダヤ人の神ヤーヴェとは異なり、アリストテレスの神々は情念をもたず、それゆえ、情念を正しくコントロールする「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」をもつことはない。すなわち、アリストテレスの神々にとっては、「正しい行為」も「勇気ある行為」もありえず、そもそも、「行為すること」も、「ものを作ること」もせず、したがって、神々は「実践的な徳に基づく活動」を行うことはない。神の活動は至福の上で比類のない観想活動である。
 他方、第一巻から第九巻の主題は「人間」であり、アリストテレスは「人間」をまず「欲求」と「情念」をもち、さらに「ロゴス(理性)」をもつ動物として把握する。それゆえ、人間は「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と「思慮(プロネーシス)」を遂行することを通して「幸福な生」を目指す存在として捉えられている。(p.153)

●神々の行為をモデルとする「観想的活動」は「それ自身以外のいかなる目的も目指さず、それ自身に固有な快楽をもっていると考えられ、……人間に可能なかぎりの自足性(autarkes)、ゆとり(sxolastikon)、疲れのなさ(atruton)、その他至福な人にあてがわれるかぎりの特性」(第一〇巻第七章、1177b18-23)をもっている。

●アリストテレスは観想活動について次のように語っている。
“こうした(観想活動の)生は、しかし、人間の次元を超えたものであるかもしれない。というのも、そのような生き方ができるのは、彼が人間としてではなく、彼のうちに何か神的なものが備わっているからである。……
(略)
 したがって、人間にとってもまた、知性に基づく生き方が、何よりも知性こそ人間自身にほかならない以上、最も善くかつ最も快い生き方なのである。それゆえ、知性に基づく生き方が、最も幸福な生き方なのである。(第一〇巻第七章、1177b26-1178a8)(pp.154-155)

●この印象深い箇所で、アリストテレスは「知性こそ人間自身にほかならない以上」という表現を通して、「人間=知性(ヌース)」という把握を示している。しかし同時に、第一巻から第九巻において、人間を「情念や欲求をもつ複合的存在」として捉え、「実践的な徳に基づく活動」の重要性を主張しているのであり、その点は第一〇巻においても明確に維持されている(第一〇巻第八章、1178a9-22)。このように、アリストテレスはアンビバレントな人間の状態を表現するとともに、しかし、人間は「できるかぎり自分を不死なものにすべきである」という理念を示していると言える。(p.154)


●アリストテレスの「徳の考察」(おさらい)
 “われわれは徳を「思考に関するもの」と「性格に関するもの」に分け、「知恵」、「理解力」、「思慮」を「思考の徳(ディアノエーティケー・アレテー)」と呼び、他方「気前のよさ」、「節制」を「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と呼んでいる。(第一巻第一三章、1103a4-7)

●アリストテレスは第二巻から第五巻までは「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」の考察を行っているが、本書第二章で示したように、第二巻第六章で「性格の徳」を「中庸」と捉え、この「中庸」を「思慮ある人が中庸を規定するロゴス(道理)によって定められるもの」として捉えている。それゆえ、「中庸」を規定するためには、第六巻の「思考の徳(ディアノエーティーケー・アレテー)」の考察、とりわけ、「思慮(プロネーシス)」の概念の解明が必要になってくる。(p.157)

●ここで強調したいのは、第六巻において「思考の徳」を考察するにあたって、アリストテレスが「広い意味でのヌース(知性)」という概念を出発点においているということである。この「ヌース」は第一巻で「人間のエルゴン」を規定する場合に使われる「ロゴス(理性)」と同じ意味をもつ概念であると私は解釈する。この広義の「ヌース(知性)」は単に「理論的な知」だけではなく、「実践的な知」としても使われている(1139a18)。その後の第六巻第三章以下では、「ヌース」は観想にかかわる狭義の「ヌース」として規定され、第七章では、「ソピア(知恵)」と結びつき「最も貴重な諸存在」を対象とする「知」として、つまり観想活動を遂行する「知」として捉えられている。(pp.157-158)

●他方、行為にかかわる「知」は第六巻第五章以下で、「思慮(プロネーシス)」として規定され、「性格の徳」との関係がくわしく説明されている。それゆえ、広い意味での「ヌース(知性)」が、観想にかかわる狭義の「ヌース」と行為にかかわる「思慮(プロネーシス)」に分かれていったと見ることができる。(pp.157-158)

●アリストテレスがわれわれ人間を植物や動物から区別し、人間と神々とを区別しないのは、人間と神々が「ロゴス(理性)の能力」、「ヌース(知性)の能力」を共有しているということにある(ただ、その能力のあり方には大きな相違があるが)。
 人間と神々は「ヌース(知性)の能力」を共有している。これが『ニコマコス倫理学』において、「人間」を捉え、人間を神々と結びつける太い線である。しかし、人間は身体をもち、情念と欲求をもつ存在であって、純粋なかたちで「ヌース」の生を生きる神々と異なっている。すなわち人間にとって、善き生(エウダイモニア)のためには実践的な徳が不可欠である。そしてアリストテレスは、人間が観想活動の生を送るためにも、実践的な徳、つまり性格の徳と思慮が不可欠であると考えている。それゆえ、人間にとっては「観想活動の生」と「実践活動の生」は緊密に結びついていると言えるのである。(pp.159-160)

●われわれの解釈の重要なポイントは「人間の生(活)のいずれの善(善きもの)もその頂点に一つの最高目的(観想的な徳の遂行、性格的な徳の遂行)をもつ階層のうちに位置づけられる」ということにある。(p.164)

●われわれは観想者(哲学者)になるか、政治家になるか決断しなければならないが、いずれを選択するにせよ、必要となる重要な善きものがある。それはすなわち、正義、勇気、思慮、等々の徳である。これらの徳は、二つの生、つまり「観想活動の生」にとっては必要条件であり、「実践活動の生」にとってはその目的である。(p.165)

●しかし、アリストテレスはこの『ニコマコス倫理学』の講義を通して、聴講生に対して「観想活動の生を選ばなければならない」と主張してはいないように思われる。というのは、われわれが、第五章「友愛について」において紹介し、そこで強調したように、第九巻第八章で、アリストテレスは次のように語っているからである。
 “優れて善き人(スプウダイオス)に関して言えば、彼が友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、友人や祖国のために死さえ辞さないというのは真実である。なぜなら、優れて善き人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろの善きものを投げ出し、自分自身に美しい(カロン)ものを確保しようとするからである。(第九巻第八章、1169a18-22)
 ここで、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己の為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と語り、「カロン(美しい、立派な)」を行為の最終的な価値基準として捉えているが、その際、「優れて善き人は友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、死さえ辞さない」と述べている。したがって、アリストテレスは「各人は自分のために最大限の善きものを増進するよう努めなければならない」といった立場を取ってはいない。(pp.166-167)

●アリストテレスは「ある状況において、人は自分自身にとって最善の幸福を得られなくとも、他人の幸福のために行為すべきである」という余地を認めている。(p.168)

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以上であります。後編はワード22pになってしまいました。
いや〜、捨てるところがないものですね〜。近年歳をくえばくうほど読書日記が長文化します。あとで思わぬところを参照するかもしれないと妙に不安にかられるんですね。

途中、「観想的生活」を神のような生活だと言ってるところは、やっぱり「哲学者は自分のことを研究するのが好き」ププッ、となってしまうわたしは意地悪女です。
それでも、紀元前としては極めて完成度が高く、現代の脳科学、性格心理学などからみても正しいことを言っている『ニコマコス倫理学』、本書『アリストテレス「『ニコマコス倫理学』を読む――幸福とは何か」のお陰でやっと出会うことができました。著者様に感謝いたします。