引き続きアドラーの原著を読みます。『人生の意味の心理学』(上)(下)(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2010年。原題'What Life Should Mean to You'1931年。
この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。
>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。
しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。
上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。
まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。
トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。
この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。
なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。
だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。
ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、
「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」
と。
読者の皆様、どう思われますか?
「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。
例えば、
1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。
2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?
3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。
・・・などなど。
アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。
ただ上記のような、
「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」
こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。
こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。
ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。
もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。
思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。
このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…
このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。
ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。
あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。
まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。
で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。
ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。
しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。
アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
先日、週刊誌の記者さんにわたしは
「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」
と言ったのでした。
<シリーズ・アドラー心理学批判>
●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html
●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html
●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html
●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html
●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html
●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html
●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html
●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html
●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html
この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。
>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。
しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。
上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。
まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(前掲書上巻第一章「人生の意味」、p.21)
トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。
この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。
なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。
だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。
ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、
「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」
と。
読者の皆様、どう思われますか?
「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。
例えば、
1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。
2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?
3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。
・・・などなど。
アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。
ただ上記のような、
「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」
こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。
こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。
ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。
もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。
以前は貶められ無視されていたと感じた子どもたちは、おそらく今や、仲間の人間とのよりよい関係を築いたときに、ついに承認されるだろう、と期待し始める。彼〔女〕らの多くは、このような賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまりに集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。私は家では賞賛されていないと感じ、セックスをし始める多くの少女に会ってきた。それは自分が大人であることを証明するだけではなく、ついに、自分が賞賛され、注目の中心になるという状況を達成できるという空しい希望からである。(下巻第八章思春期、pp.47-48))
思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。
…絶え間なく勇気をくじかれた。すぐにほめられることをあまりに強く願っていた。学校でも家でもほめられないことがわかった時、一体何が残されていただろうか。
彼女は、彼女をほめるであろう男性を探し求めた。何回かの経験の後、彼女は家から出て、2週間男性と一緒に住んだ。(同p.49)
このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…
このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。
ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。
あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。
まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。
で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。
ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。
しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。
アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
先日、週刊誌の記者さんにわたしは
「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」
と言ったのでした。
<シリーズ・アドラー心理学批判>
●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html
●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html
●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html
●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html
●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html
●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html
●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html
●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html
●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html
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