暴力の人類史












暴力の人類史下




 ちまたでは『サピエンス全史』が流行っているようです。
 
 そんなとき天邪鬼なのか、一昨年邦訳された大作『暴力の人類史』(上)(下)(スティーブン・ビンカ―、青土社、2015年1月、原題'THE BETTER ANGELS OF OUR NATURE')のほうを手にとるわたしです。


 『サピエンス全史』は、まあTVで結論らしきことをきいたからいいかと(笑)いや、なんか「持ってかれそう」な匂いも感じたんですよね。


 当面ここでは『暴力の人類史』から学べることを丁寧にみたいと思います。著者ピンカーは認知科学者。上巻は歴史と統計を駆使して人類史を通じて暴力は減少していることを実証。下巻は著者の本領発揮で脳科学、認知科学をフル活用しながら暴力をつくる脳と、それを抑制する脳の働きを説明してくれます。

 はい、実は2つ前の記事以来のわたしの「側頭頭頂接合部」にかんする説明のタネ本は『暴力の人類史』です。

 ピンカーの脳科学の説明のしかたや、過去の諸研究の押さえかた、それへの疑義の呈しかたと結論の立てかたは、わたし個人的に非常にすきです。このようにものを考えたいものだと思います。(ページ数を食う記述方法かもしれませんけれどね)


 
 この本によると、わたしたち人類は古代も中世も、今よりはるかに残虐でした。

 現代人の目から見ると、聖書に描かれた世界の残虐さは驚くばかりだ。奴隷、レイプ、近親間の殺人など日常茶飯事。武将は市民を無差別に殺しまくり、子供でも容赦しない。女性は人身売買され、セックストイのように略奪される。神ヤハウェはささいな不服従を理由に、またはなんの理由もなしに何十万もの人びとを拷問したり虐殺したりする。


 ヘブライ語辞書には「国家や王、あるいは個人が他の人びとを攻撃したり殺したりしたことを明示的に記している箇所が600以上ある。…ヤハウェ自身が暴力的な罰の執行人として登場する箇所がおよそ1000、主が罪を犯した者をそれを罰する者の元に送る場面も数多くあるが、それ以外にヤハウェが人を殺すように明確に命令する箇所は100以上に及ぶ。


 イエス・キリストが処せられた「磔刑」という刑罰は、こんなおどろおどろしいものでした。


 ローマの磔刑は、まず裸にした受刑者を鞭打つところから始まる。使われたのは先の尖った石を編み込んだ短い革の鞭で、ローマ兵がそれで男の背中や尻、足を打つ。この論文によれば「裂傷は骨格筋にまで達し、血を流して痙攣する細い筋肉の束が剥き出しになる」。次に、両腕が重さ45キロほどもある十字架にくくりつけられ、男はそれを背負って支柱が立てられた場所に運んで行かなければならない。そこで彼は背中をずたずたにされた体を起こされ、手首に釘を打ち込まれて十字架に磔にされる(手のひらに釘を打ち込むという説明がよくされるが、手のひらの肉では体重を支えることはできない)。次に十字架が支柱にかけられ、両足は支柱に――通常は支柱のブロックなしに――釘付けにされる。両腕に全体重がかかり、肋骨はその重みで広げられるため、腕に力を入れるか、釘を打たれた両足を踏ん張るかしない限り呼吸はむずかしくなる。3,4時間から長ければ3,4日間苦しみ抜いた末に、男は窒息か失血のために死亡する。処刑人は男を椅子に座らせることで拷問の時間を引き延ばすこともできるし、こん棒で両足を叩きつぶし、死を早めることもできる。


 凄いですねえ。この本の上巻の前半はこれに限らず、残酷な刑罰、拷問、残酷な戦乱シーンのオンパレードです。こんな残酷刑を公開でやっていて、それを近所の人と見物に行って歓声をあげる感覚ってどうよ?と思いませんか。昔の人は、今の基準からみてお世辞にも人格高潔な人びとではありませんでした。


 中世の騎士道精神というのも全然かっこいいものではなく、ちょっとでも名誉を傷つけられた面子を潰されたと言っては剣を抜いて殺しあいました。昔の人の「承認欲求」は今よりはるかに剥き出しで血なまぐさいのです。

 
 原始時代の紀元前5000年ごろから数千年単位で、人類のうち暴力的な死を遂げる人の数が5分の1ほどに減った、といいます。さらに中世後半から20世紀までの間にヨーロッパ諸国では殺人の発生率が10〜50分の1に減りました。

 第一次・第二次大戦は20世紀を「暴力の世紀」と呼ばしめましたが、だから人類は暴力化の一途をたどっているかというと、それは大きな間違いでした。第二次世界大戦後は、超大国や先進国が互いに交戦しなくなりました。そして武力衝突やジェノサイドも、いまだに報道はされているものの過去より減っているというのです。さらに少数民族、女性、子ども、同性愛者そして動物に対する小規模の暴力に対しても嫌悪感が増大し、これらの暴力も減っています。


 人類は本来的に平和的なボノボよりは凶暴なチンパンジーのほうに近い、とピンカーは言います。進化の枝分かれにおいて、チンパンジーの祖先がわれわれの祖先に近かったようです。チンパンジーはボスが君臨するタテ社会でボスがメスザルを独り占め、メス同士の抗争で憎いライバルの子供を食べてしまうこともするし、クーデターが起こればボスの女をレイプしてしまうこともします。


 では、そんな人類がどうしていま、比較的フラットな社会をつくり一夫一婦制で平和を志向することができるのでしょうか。


 ピンカーはそこで「啓蒙」そして「文化」の力を挙げます。


 大きなターニングポイントは18世紀。ヴォルテール、モンテスキューら代表的な啓蒙思想家らが残虐刑を批判。ミラノの法学者・経済学者チェーザレ・ベッカリーアが1764年に『犯罪と刑罰』を発表するに及び、以後数十年以内に主要な西欧諸国では拷問がなくなりました。
 

 さらに下って20世紀のとりわけ第二次大戦後には世界中で急速に犯罪発生率、殺人発生件数が減少します。

 が、中で例外的な現象もありました。アメリカの60年代です。
 人口10万人当たりの殺人件数は、1957年の4人から60年代末には10人近くにはね上がりました。60年から70年までの殺人増加率は135%。自由に心のままに振る舞うことが奨励され、抑制された態度をとることをあざわらい、フリーセックス、ドラッグ、逸脱の文化が花開いた時代でした。

 この時代はベビーブーマーが10代後半〜20代を過ごした時期でもあります。この世代は世代的連帯感が強く、そして通信機器の発達もあってサブカルチャーの影響を強く受けました。この時代にアメリカの犯罪発生率は突出した高さを見せ、先進諸国の中の例外となりました。それは「抑制」の方向へすすんできた歴史的趨勢への反逆のような時代でした。

 その後、90年代にはカウンターの力が働き、アメリカは一転して「抑制」へ。犯罪発生率、殺人件数も急降下します(年間7%減)。


 結局、「文化次第」なのだということをこの例は教えてくれます。遺伝子的に進化が起こりようのない時間軸でも、「文化」が変わることで人類は行動様式を変容できるのです。

 (ちなみに、アメリカのベビーブーマーに当たるわが国の某世代も、人口比で犯罪発生率が突出して高いのだそうで…、この世代は「暴力の世代」なのです)


 
 
 このことは、教育屋のわたしにはさまざまな示唆を与えてくれます。


 例えば「承認教育」10数年の歩みの前半は、上の世代の行動様式との闘いでありました。暴力がデフォルトの世代の人びとからみると、「承認マネジメント」など綺麗ごとすぎて噴飯ものでした。実際、ベビーブーマーに当たる世代の男性コンサルタントから脅迫状がきたこともありました。


 しかし、「非暴力化」は国家間のみならず会社のようなコミュニティレベル、個人レベルにも及んでいるのです。上の世代にとって当たり前でなかった「承認」のような行動様式でも、今は新しい規範とすることができるのです。むしろ過去の規範が明らかに役立たなくなった今日、新たな規範の確立は必須でしょう。


 そして遺伝子的にシャイな日本人がデフォルトでは「ほめる」「認める」ことを苦手にすると言っても、アメリカで起きた犯罪発生率の極端な上下をみるかぎり、デフォルトでどうか、よりも「文化」の影響力のほうが大きそうです。文化は、教育やTV、ネット等メディアの力でつくれるものです。

 よくいわれる「遺伝の影響が大」というのも、さまざまな形質にたいする遺伝の影響は多く見積もっても40%であり(注:例外は知能。60%ほどが遺伝に影響される)、残りの60%以上は「環境」それも生育環境でなくある程度大きくなってからの外部環境に影響されるのです。なので遺伝子決定論<文化決定論 と言っていいかもしれないのです。

(家庭教育は、それほど大きな影響を与え得ない、というのはちょっと悲しいですけれどね。)



 
 この本では、ここ数十年の「非暴力のゆきすぎ」についてもややアイロニカルに触れています。小学校ではドッジボールが禁止され、今のアメリカの小学生はドッジボールをすることができない。失踪した子供のために「誘拐防止」のキャンペーンを大々的に張った結果、親たちは子供を学校まで車で送り迎えするようになり、公園から子供の姿が消えた。送り迎えの車にはねられて交通事故に遭う子供の数のほうが誘拐される子供よりはるかに多いという。ある女性ジャーナリストが9歳の息子の冒険の希望を叶えて1人で地下鉄に乗るのを許したところ、轟々たる非難がきたという。「ゆきすぎは見直しが必要だ」とこの本は言います。

 
 それでいえばこのブログでよく槍玉に挙げている「批判しない」テーゼも、ひょっとしたら「非暴力のゆきすぎ」であり、見直しをしないといけない種類のものなのかもしれない。とわたしなどは思います。





 もうひとつは、人類が「デフォルトで暴力的」である以上、「承認」はやはり、「批判理論」なのです。わたしたちのデフォルトに反逆するいとなみなのです。それは繁栄に通じる、価値ある反逆だからこそ、やる。フランクフルト学派の創始者の一人であるアドルノがナチスに追われ亡命したユダヤ人であり、暴力的なものにきわめて敏感な人物であったことなども想起しました。

 心優しい人、なんにでも「いいね」というタイプの人も、「承認」に共感してくださいますが、基本的に承認はデフォルトに対する抗いであり、闘争の意味合いをはらんだものである、ということです。

 「行動承認」の初期の担い手だった気骨あるマネジャーたちは、上の世代にたいする反逆精神を持ち、それとは違うやり方で成果を上げたいと考える人びとでした。今の時代のマネジャーたちにはそれほどの思い入れがなくとも学習できるものかもしれませんが。


 せっかく書き始めたので、ぜひこの本の脳科学・心理学的知見も次の記事でご紹介したいと思います。